かこさとし/赤羽末吉『あるくやま うごくやま』

 かこさとしさんの「かがくの本」シリーズの1冊。長い長い時間のなかで、山もまた様々にかたちを変えていくことが説明されています。雨や雪や氷河によって削られ流され、あるいは地震や火山によって大きく変化し、そしてまた草や木の生長によっても作用されていく……。一瞬たりとも止まることなく、山がいつも動いていることが分かります。

 冒頭では、山のかたちが変わることが「すわりばしょをかえたり」「あるきだしたり」「ふとったり」「しわだらけになったり」と、まるで人間であるかのように記されていました。それ自体おもしろいのですが、加えて、赤羽さんの絵がまた秀逸。山々に眼と口が付いており、笑っているような考えているような、なんともおかしな表情です。表紙も同様なんですが、まさに赤羽さんならではの大らかでユーモラスな描写。

 考えてみると、赤羽さんが科学絵本の絵を担当されるのは、かなり珍しいかもしれません。そもそも、かこさとしさんと赤羽末吉さんが組んだ絵本は他にないんじゃないでしょうか。巻末にラインナップが載っていたのですが、この絵本が含まれている「かがくの本」シリーズの多くは、かこさん以外の方が絵を担当されていました。

 私は最初、赤羽さんの絵は科学絵本には向かないんじゃないかと思ったのですが、実際読んでみると、そうでもなかったです。

 いや、たしかに、山に眼や口が付いているユーモラスな絵柄は表紙と冒頭ページだけで、あとは文章の説明をそのまま解説するような絵になっています。その点では、赤羽さんの個性があまり出てこない印象もあります。

 しかし、限定された色遣い、骨太でのびやかな筆致は、やっぱり赤羽さんの絵であって、他の誰のでもありません。白みの多いシンプルな画面からは、何百年、何千年にもわたる長い時間の流れのなかで少しずつ山が姿を変えていく様子を感じ取ることができます。過剰な色や説明的すぎる線を省略していることが逆に、この絵本の主題に密接に寄り添うことになっているように思いました。

 奥付には、かこさとしさんのエッセイ、「固定した考えにとらわれないこと」が載っています。こちらも非常に興味深い。不動であるかに見える山が長い時間の流れのなかでは激しく動くこと、それを描くことで何を伝えたかったのか、簡潔に述べられています。本当は引用しない方がよいのかもしれませんが、自分用のメモとして一部、引用させていただきます。

このことは、正しい科学への第一歩である、条件や環境をかえると物事はまるでちがった結果となること、固定した見方、考え方にとらわれないことへの発展として、わたしは極めて大切にしたいと思っています。

 ところで、この絵本、うちの子どもには、だいぶ、おもしろかったようで、興味深そうに聞いていました。まずは崖の地層を描いた画面に反応。曰く「これ、見たことあるよねえ」。二人でいろいろ話しているうちに、思い出しました。また火山を描いたところでは、去年、旅行した阿蘇山のことを話しました。なかなか楽しいです(^^;)。

 巻末に載っていた「かこ・さとし かがくの本」シリーズのラインナップ、うちの子どもはだいぶ惹かれたようで、全10冊のタイトルを読まされました。「これも読みたいねえ」「これも読みたーい!」というもの多数(^^;)。次に図書館に行ったとき借りてこようと思います。

 ちなみに、このシリーズは、第17回サンケイ児童出版文化賞を受賞したそうです。タイトル一覧の上部に記されていました。

▼かこさとし 著/赤羽末吉 絵『あるくやま うごくやま』童心社、1968年、[表紙レイアウト:辻村益朗、写真植字:東京光画株式会社、製版・印刷:小宮山印刷株式会社、製本:サンブック株式会社]

片山健『もりのおばけ』

 これはおもしろい! 弟とかけっこをしていて森に入った主人公の「ぼく」。暗くて薄気味悪い森のなかで、「おばけ」に追いかけられるという物語。

 絵は、全編モノクロの鉛筆画。なにせ1969年の作品ですから、片山さんのその後の絵本とは、画材も筆致も彩色も、かなり趣が違います。とはいえ、画面の緊張感と迫力、生命を吹き込むかのような細部の筆遣い、うっそうとした森の描写などは、後年の作品とどことなく共通するところがあると思います。ただし、同じ森とはいっても、生命あふれる森ではなく、暗く何が出てくるか分からない森。まったく逆のベクトルと言えるかもしれません。

 すごいなと思ったのは、森をわたっていく声の響きや「おばけ」の飛翔を、連続した絵の重なりで表現しているところ。いわば波動です。静止画でありながら、非常にダイナミックで、不思議な効果を生んでいると思いました。なんだか「おばけ」がすーっと接近してきて、画面の外に飛び出してきそうな印象すらあります。

 そもそも、この「おばけ」、「ぼく」の呼び声に応えるようにして現れるんですね。声とはまさに言霊であることを感じさせられます。

 登場する「おばけ」は、ほとんど巨大な顔だけ。しかも、無表情でありながら、どことなく薄ら笑い。これは不気味です。うちの子どもも少し緊張していました。なんだか悪い夢でも見そうなくらいです。

 いや、もちろん、直截に恐いというわけではなく、シュールでユーモラスな感触もありますし、ちゃんとハッピーエンドにもなっています。それでも、木のうろの白く光る目や途中から消えてしまう動物たち、不安そうな「ぼく」の表情、転んで飛ばされる「ぼく」のくつ、など、なんとも常ならぬ雰囲気があるんですね。非常にサスペンスフルで、それがこの絵本の大きな魅力です。

 あらためて見直すと、一番最初のページには「ぼく」と弟が公園(?)を散歩している様子が描かれているのですが、向かいのページでは黒い影の男の人が木の根もとに座って新聞を読んでいます。ここからすでに、あやしさが漂っています。

 ところで、この絵本、図書館から借りたのですが、なかに折り込み付録「絵本のたのしみ」が添付されていました。片山健さんの写真とエッセイ、「『もりのおばけ』を描いたころ」が掲載されています。この写真がまた若いんですね。いまとは、だいぶ顔つきが違うような……(なんて、失礼ですね^^;)。

 エッセイでは、この絵本を福音館書店に持ち込み、ほとんど即決に近いかたちで採用されたこと、年の離れた二人の幼い弟をモデルにしたこと、描いている途中で友人に遊びに誘われたこと、片山さんのお子さんもこの絵本を好んでいたこと、などが記されています。なかなか興味深いです。

▼片山健『もりのおばけ』「普及版こどものとも」11、福音館書店、1969年

平野直/太田大八『やまなしもぎ』

 病気で寝たきりの「おかあさん」に「おくやまの やまなし」を食べさせようとする兄弟の物語。一番目の「たろう」も二番目の「じろう」も、山梨もぎの途中で「ぬまのぬし」に食べられてしまいます。末っ子の「さぶろう」がどうするかが物語のヤマ。

 まずは、「たろう」「じろう」と「さぶろう」の対比が、おもしろいです。「たろう」も「じろう」も、どことなく、こましゃくれた印象なのですが、これに対し「さぶろう」は素直でまっすぐな風情。それほど強調されてはいませんが、微妙な描写の違いがあります。

 そして、この対比は、そのまま、山梨もぎに向かった3人のその後の道行を反映しています。人間にせよ人間ならざるものにせよ、他者の声に耳をかたむけるかどうかが、「たろう」「じろう」と「さぶろう」を分かつポイントなんですね。ある意味、教訓的と言っていいかもしれません。

 それはともかく、この物語には「ばあさま」と「ぬまのぬし」という、いずれも人間ならざるものが登場するのですが、両者とも、かなりの迫力。なにより眼の色が違います。とくに「ぬまのぬし」は、巨大なサンショウウオのような生き物。いぼいぼの皮膚で全身緑色です。そんな薄気味悪いものが、沼の底からゆっくりと浮かび上がり、「たろう」も「じろう」も「げろりっと」飲み込んでしまうわけです。これは怖い。

 「ぬまのぬし」の描写では、水面に影がゆらりと映る画面、そして、波を荒立てて大きな口に長い舌で迫っくる画面、この静と動の対比がたいへん印象的。絵本全体で見ても、緊張感に満ちた不気味な静けさのあるところと、激しいアクションが連続するところとが明確に際立っていて、非常にダイナミックに感じました。

 また、あらためて見直すと、表紙と裏表紙の見返しは、陰影に富んだ深みのある藍色で彩色されています。緑の葉を付けた蔓(?)があしらわれているのですが、この藍色はおそらく沼の色ですね。何が出てくるか分からない、そんな底知れなさを感じます。

 ところで、巻末の著者紹介によると、「やまなしもぎ」の物語は、岩手県八重畑尋常高等小学校の高等2年生だった小原豊造さんの話を、平野直さんの友人の古川安忠さんが報告してくれたものだそうです。平野さんが民話採集に取り組むきっかけになったとのこと。たしかに、この物語、先を読みたくなってくる(聞きたくなってくる)、そんな魅力に満ちていると思いました。

▼平野直 再話/太田大八 画『やまなしもぎ』福音館書店、1977年

長新太さん逝去

 先の記事、絵本を知る: こどものとも50周年記念ブログがスタートの下書きを書いているときに、長新太さんの逝去を知りました。

 死を前にして何を言っても言葉足らずにしかなりませんが、子どもと一緒に長さんの絵本を読む時間が持てることをあらためて幸福に感じ、また感謝したいと思います。今はただただ、ご冥福をお祈りいたします。

こどものとも50周年記念ブログがスタート

 先月から楽しみにしていた、福音館書店の月刊物語絵本「こどものとも」の創刊50周年記念ウェブログがスタートしました。こどものとも50周年記念ブログです。

 ウェブログのよくあるパターンとは違って、トップページの記事リストは時系列ではなく、カテゴリー別になっているようです。もちろん、コメントもトラックバックもOKみたいです。

 初回は、1956年(昭和31年)の創刊号から1年分のバックナンバー12冊の紹介、1956年度の社会の出来事や世相を記した「そのころあったこと」、そして、エッセイは社会福祉法人井の頭保育園の創始者である福知トシさん。

 バックナンバー12冊を見てみると、 ぞうのたまごの たまごやきがあります。なんと長新太さんが絵を描かれたものよりかなり以前に、別の方の絵で刊行されていたんですね。長さんの絵とはだいぶ趣が違います。

 また、当時の「こどものとも」には、 マッチうりのしょうじょといった名作のダイジェストも入っていたんですね。はじめて知りました。

 エッセイでは、福知トシさんが、「こどものとも」創刊号『ビップとちょうちょう』が保育園に届いたときのことを記されています。私は福知さんのことをこれまで全く知らなかったのですが、エッセイからリンクされているプロフィール、がんばる人 第30回 福知 トシを読むと、戦後の保育園作りにたいへんな努力をされた方でした。このプロフィールの文章も実に印象深く、ぜひ一読をおすすめします。

 ところで、今回のウェブログは、公開が当初の告知よりだいぶ遅れましたが、どうも技術的な問題が若干あったようです。BLOG界の出来事:06/24-BLOG界の出来事経由で知った記事、O saisons, o chateaux…:ブログ、やっと納品に、そんなことが書かれていました。「某大手児童書版元のブログ」という表現になっていますが、児童書出版元で現在、ウェブログを構築・公開しているのは、たぶん福音館書店だけですよね。

 どんな環境でも適切に表示されるウェブページを作るのは、本当に大変なことと思います。ウェブログという新しい仕組みを導入するのであれば、なおさらかもしれません。

 私たち閲覧者は表に見える部分しか知らないわけですが、それを支える裏方の苦労と努力を少しかいま見た気がします。

デイヴィッド・ルーカス『カクレンボ・ジャクソン』

 主人公の「クレンボ・ジャクソン」はたいへんな恥ずかしがりや。目立つことが大嫌いで、ひっそりと暮らしていました。ところが、そんな「ジャクソン」が女王様のバースディ・パーティに招待され、着ていった服のせいで一気に目立ってしまうという物語。

 おもしろいのは、「ジャクソン」の恥ずかしがりやぶりを、まるで隠し絵のように描いているところ。服装の色合いや模様が背景の絵と同じように描かれ、見分けがつかないんですね。ページを開いたとき、一瞬「ジャクソン」がどこにいるのか分からなくなるくらいです。表紙からして、すでに背景に紛れています。タイトル通り、まさに「カクレンボ」。うちの子どもは、いろんなところに隠れている「ジャクソン」を探して楽しんでいました。主人公がこれだけ目立たない絵本も、珍しいかもしれません。

 で、その目立たない服装というのは、「ジャクソン」が自分の出かける場所に合わせてすべてハンドメイドで作ったもの。人目につかないために身につけたその能力が、最後には「ジャクソン」にスポットライトを当て、「ジャクソン」の人生を変えていきます。何であれ、卓越した才能は人びとに求められ評価されていく……そんな幸福な物語と言っていいかもしれません。

 それはともかく、この絵本ではいろいろな事物が装飾的に描かれ、しかもたいへんカラフルな色彩。なかなか楽しい雰囲気です。一つおもしろいなと思ったのは、多くの見開きページで中央が四角く縁取られ、そこから飛び出るようにして人や物が配置されている点。独特のダイナミズムが生まれていると思いました。

 あと、よく見ると、「ジャクソン」の顔がいつもは真っ白なのに、一カ所だけ、恥ずかしくて赤くなっているところがあります。なかなか可愛いです。

 読み終わって、うちの子どもの疑問は、「どうしてジャクソンはたくさんの宝石を持っているんだろう?」ということ。どれどれとページをめくって確認してみると、たしかに「ジャクソン」が服を作っている画面には、たくさんの布地とたくさんの宝石が描かれています。うちの子ども、よく見ています(親ばか^^;)。

 原書”Halibut Jackson”の刊行は2003年。この絵本は、作者のデイヴィッド・ルーカスさんが文章と絵をともに手がけた初めての絵本だそうです。

▼デイヴィッド・ルーカス/なかがわちひろ 訳『カクレンボ・ジャクソン』偕成社、2005年、[装丁:丸尾靖子]

穂高順也/石井聖岳『ヤドカシ不動産』

 虫や動物に新しい家を紹介する「ヤドカシ不動産」のお話。うちの子どもは最初、不動産屋がどんな仕事か、よく分からなかったようですが、少し補足説明して読んでいったら、だいたい理解できたようです。

 物語は、「ヤドカシ不動産」の仕事ぶりを幾つかの仲介例から見ていくかたちになっています。お客さんとして登場するのは、「ちょうちょおくさん」「ホタルのきょうだい」「いばりんぼのバッタ」「ひよこぼうや」。それぞれの希望にそって、たいへんユニークな家々が紹介されていきます。

 うちの子どもに一番受けたのは、「ホタルのきょうだい」。おしりの光が目立つ暗い家で、しかも、けんかしなくてもすむように別々の部屋を準備してほしいという希望なのですが、これに「ヤドカシ不動産」がどう応えるか。ちょっと他にはない、たいへん個性的な住まいです(^^;)。うちの子ども曰く「このお家には前にも住んでいた虫がいるのかな。たぶん、カメムシだと思うよ。だって、○○○○が好きじゃないとダメだから」。

 絵は、画面の端々にいろんな虫が小さく描き込まれ、楽しい雰囲気。主人公の「ヤドカシ不動産」は、いつも目と口もとに笑みが浮かんでいて、なんとなく安心して家探しを任せられそうな感じです。一カ所だけ、不穏な表情をしている画面があり、これもおもしろい。不動産屋さんにはこういうところがあるなあと妙に実感できます。

 そして、物語の最後の最後に明かされるのが「ヤドカシ不動産」の意外な正体。あっと驚きのオチで、うちの子どもも大受けでした。

 あと、表紙と裏表紙の見返しには連続した迷路が描かれています。うちの子どもは、絵本を読む前に、まずはこの迷路を解いて楽しんでいました。

▼穂高順也 文/石井聖岳 絵『ヤドカシ不動産』講談社、2003年、[装丁:羽島一希、写植印字:オフ・デザイン]

太田大八『まほうこうじょう』

 これはおもしろい! 工場跡地でなくしたボールを探していた「ダイスケ」は、地下の魔法工場(?)へと迷い込みます。果たして「ダイスケ」はボールを見つけることが出来るのか、そして地上に戻れるのか?……といった物語。

 見開きの左ページに文書、右ページに絵というつくり。絵は全編、木炭(?)あるいは鉛筆で描かれ、わずかに絵の四角い枠だけが渋い緑に彩色されています。モノクロであるがゆえの独特の緊張感が張りつめています。

 また、ページをめくるたびに次から次へと不思議な事物が現れ、非常に幻想的な雰囲気。一輪車に乗ったワニ、無機的でありながら有機性を感じさせる機械、巨大なカマキリ、壁抜け、まったく同じ姿形の3人のインディアン……。まさに魔法工場というタイトルがぴったり。

 お話は、先の展開がまったく読めず、まるでジェットコースターに乗っているかのよう。「ダイスケ」と共に一気に冒険の世界に入っていけます。それにしても、「ダイスケ」、沈着冷静で、なかなか大したもの。まったく臆することなく、地下の工場を進んでいきます。

 魔法(?)ですので、ありえないことがたくさん起こるのですが、何より謎なのはラストページ。最初の扉の絵とラストの絵を比べてみると、この物語の不可思議さが際立つように思います。

 ところで、うちの子どもは、今回、だいぶ緊張して聞いていました。読み終わると、フーっと大きくため息。曰く「この絵本、おもしろいねえ」(^^;)。

▼太田大八『まほうこうじょう』大日本図書、1975年、[日本イラストレイター会議・大日本図書 共同編集、編集委員:太田大八・長新太・穂積和夫・大日本図書書籍部]

ウーリ・ステルツァー『「イグルー」をつくる』

 北極地方に暮らすイヌイットの父子がイグルーを作る様子を撮影した写真絵本。イグルーというのは、雪のブロックで作った家のことです。場所を決め、雪を切り出し、積み上げ、入り口を開け、全体を仕上げていく……。出来上がるまでの一つ一つのプロセスが、モノクロ写真で淡々と描かれていきます。

 イグルーの作り方、私はこの絵本ではじめて知りました。なるほどなーと驚きが幾つもあります。非常に合理的で洗練された建築術。しかも、それは、ノコギリとナイフという必要最小限の道具で作られているわけです。

 一面、岩と雪だらけの平原に忽然と姿を現す雪の家……。白く輝く大地に対し、黙々と作業する二人の姿は黒々としており、そのコントラストの強さは、人間の営みの強靱さを伝えているような気がしました。

 その一方で、イグルーを作ることは、自然についての深い理解に基づき、自然と一体になった営為。なにしろ、目の前にある雪と氷だけが材料です。最初のページに記されていましたが、イグルーのなかの明かりや燃料も自然のなかから採られているのだそうです。そして、移動して空き家になったイグルーは、夏になれば溶けて消えてしまう。自然に無理に力を加えない、汚さない、そんなイヌイットの生き方が感じられます。

 また、この絵本のもう一つのモチーフは、おそらく親子のきずな。黙々と作業する「トゥーキルキー」さんを息子の「ジョビー」さんが手伝っています。「トゥーキルキー」さんもまた、父親からイグルーの作り方を教わったのだそうです。親から子へと世代を超えて伝承されていく知恵と技術。

 そもそもイヌイットの猟師は一人で遠出することはなく、たいてい息子を連れて行くとのこと。獲物を求めて移動するなかで、そのつど親子で協力してイグルーを作るわけです。そんなイグルーは、狩りの途中の仮住まいであるのみならず、厳寒の地を生き抜くための学びの場と言えるかもしれません。

 扉の裏には、並んだ二人のポートレートが載っていました。これが、実にいい顔なんですね。なんだか、きらきら輝いているように感じます。千葉さんの訳者あとがきにも記されていましたが、イヌイットの祖先は私たち日本人と同じくモンゴロイドなのだそうです。たしかに、二人の顔つきには、どことなく日本人と共通するところがあります。

 ところで、うちの子どもは、工作が大好きなんですが、この絵本は図書館で借りるときから気に入ったようです。曰く「僕は作るのが好きだから、この絵本はいいねえ」(^^;)。

 原書”Building an Igloo”の刊行は1981年。この絵本、おすすめです。

▼ウーリ・ステルツァー 写真と文/千葉茂樹 訳『「イグルー」をつくる』あすなろ書房、1999年

アストリッド・リンドグレーン/イングリッド・ヴァン・ニイマン『こんにちは、長くつ下のピッピ』

 有名な「長くつ下のピッピ」の物語。この絵本の原書は、なんと「長くつ下のピッピ」をスウェーデンではじめて絵本化したものだそうです。児童文学としての『長くつ下のピッピ』が刊行されたのは1945年。2年後の1947年にこの絵本が出版されています。

 実は私は「長くつ下のピッピ」を読むのは、これがはじめてだったんですが、かなり楽しめました。物語はもちろんですが、絵がまた魅力的です。まるでピッピの生きるエネルギーがそのまま定着したかのような明るく鮮やかな色彩。そして、どの画面にも飛び跳ねるような勢いがあります。多くの画面で「ピッピ」たちのアクションがいわばストップモーションで切り取られており、それが軽やかさと楽しさを生んでいると思います。

 うちの子どもは「ピッピ」が何でも自分でやることに感心していました。とくにパンケーキを焼いているところでは、「すごいねえ」と心から感嘆。サーカスで「ピッピ」と力比べをする「怪力アドルフ」のパンツにも大受けでした。曰く「ぽよぽよのパンツだねー」。この絵本、相当おもしろかったようです(^^;)。

 思ったのですが、「ピッピ」は子どもにとって一つの理想の姿かもしれませんね。お父さんもお母さんもいないから、いつでも、したいことができるし、しかも生活力は完璧で、何でも自分でやってしまう。加えて、怪力でお金持ち。いやはや、文字通り「世界一強い女の子」です。

 あえて弱点を挙げるなら、学校に行ってないから字を書くのが苦手なところかな。でも、「ピッピ」ののびのびとした開放的な様子を見てると、字が書けないなんて、たいしたことではない気がしてきます。「生きる力」というのが、しばらく前まで日本の初等教育のキーワードになっていましたが、「ピッピ」こそ、「生きる力」の体現者じゃないかな。

 それはともかく、「訳者あとがき」には、刊行当時の状況や、挿絵を担当したイングリッド・ヴァン・ニイマンさんとアストリッド・リンドグレーンさんの交流などが記されていました。こちらも興味深いです。

 あと、この絵本、巻末には「長くつ下のピッピとニルソン氏のきせかえ人形」という厚紙が付いており、「ピッピ」と「ニルソン氏」の姿や衣装を切り抜いて遊べるようになっています。うちの子どもは、紙を使って工作するのが好きなので、この付録にもかなり心惹かれていました(^^;)。

 原書、”KANNER DU PIPPI LANGSTRUMP?”(スウェーデン語の綴り記号が付くので正確ではありません)の刊行は1947年。

▼アストリッド・リンドグレーン 作/イングリッド・ヴァン・ニイマン 絵/石井登志子 訳『こんにちは、長くつ下のピッピ』徳間書店、2004年、[カバーデザイン:鈴木ひろみ、カバーフォーマット:前田浩志・横濱順美]