「絵本を読む」カテゴリーアーカイブ

R.イザドラ『ベンのトランペット』

 いやー、とにかくかっこよい絵本! 全編モノクロ、まさにクール! しびれます。途中、ジャズバンドのミュージシャンの演奏シーンが一人ずつ大きく描かれるのですが、ピアノ、サックス、トロンボーン、ドラムと楽器に応じて特徴的な描き方になっており、それぞれの音色、そしてそれらが一体となったスウィングが、画面からダイレクトに伝わってきます。

 物語のモチーフは、表紙の絵柄が表しているように、少年ベンとトランペッターの交流です。表紙にはトランペットを吹く二人の姿が二重写しに描かれているのですが、でもよく見ると、少年はトランペットを持たずに両手で吹く仕草をしていることが分かります。それは、この絵本のタイトル「ベンのトランペット」が何を意味しているのかを示しているように思えます。

 ベン自身はトランペットを持っておらず、自分の手でトランペットを吹くまねをする。それが「ベンのトランペット」。いつでもどこでも「じぶんのトランペット」をベンは吹きます。本物ではないけれども、少しでも近付きたい。トランペッターに対する少年の一途な憧れですね。それは、描かれたベンの手の繊細な「表情」にも表れているように思いました。

 でも、その「じぶんのトランペット」のゆえに、ベンは、友だちからからかわれてしまう……。失意と悲しみの緊張感のある表現、そのあとの解放は、とても印象的です。最後のページのセリフと絵(とりわけトランペッターの手、そして帽子をとった初めての表情!)、なんとも言えないあたたかさがじんわり伝わってきます。

 もう一つ、ベンの家族の描写も、さりげないながら、印象に残りました。ベンが、「ママとおばあちゃんとおとうと」、そして「パパとパパのともだち」にトランペットを吹くとき、みなはどうしているか。ベン、あるいはベンの家族のおかれた境遇、家族のまわりに広がる社会の姿が、それとなく示唆されていると思います。逆に、この背景の描写があるからこそ、トランペッターとの交流のかけがえのなさが心に迫ってくると言えるかもしれません。

 巻末の紹介によると、作者のレイチェル・イザドラさんは、もとプロのバレリーナだそうです。足のけがのため引退してから作家となられ、ジャズを愛するところから、この絵本が生まれたとのこと。また、本書は、1979年、コルデコット賞次席作品に選出されたそうです。

 原書“BEN’S TRUMPET”の刊行は1979年。

▼レイチェル・イザドラ 作・絵/谷川俊太郎 訳『ベンのトランペット』あかね書房、1981年、[印刷:精興社、写植:ゾービ写植、製本:中央精版印刷株式会社]

キャロル・オーティス・ハースト/ジェイムズ・スティーブンソン『あたまにつまった石ころが』

 久しぶりに再読。やっぱりいいなと思うと同時に、この絵本、なんとなく、成功するための指南書のような趣きもあります。

 ハーストさんのお父さんは、最後にはスプリングフィールド科学博物館の館長にまでなられるのですが、その大きな転機となったのは、ジョンソン館長との偶然の出会いでした。そのことによって、「あたまのなかとポケットが石でいっぱい」の専門家として認められ評価されていったわけです。

 このエピソードから、たとえば、人との出会いがいかに大切かといったことを言えるかもしれませんし、あるいは、偶然の出会いに備えて自分の能力や強みをどれだけ鍛えておけるかが重要だ、自分の道を貫いていればいつか誰かが認めてくれるのだ、といったことを引き出せるかもしれません。いわば成功するためのヒントですね。

 でも、たぶん、そうじゃないなとも感じます。ハーストさんは巻末で「父ほど幸福な人生を送った人を、わたしはほかに知りません」と書かれていますが、それは、ハーストさんのお父さんが最終的に社会的に成功したからではないように思えます。そうではなく、どんな状況にあっても、自分の関心を追い求め、そのために「学ぶ」ことを尊重し続けていたからなのでしょう。

 じっさい、この絵本を読んでいると、たとえハーストさんのお父さんがジョンソン館長に出会うことがなく、そのため、仕事でずっと苦労し続けたとしても、それでも、ハーストさんのお父さんは「学び」をやめることはなく、その意味において「幸せ」であったように思います。社会的成功といった何か他のことのためではなく、それ自体が喜びであるような「学び」。それをハーストさんのお父さんは、なにより大事にして生きていたということ。

 いや、本当のところは分かりません。本当にそれだけだったら、はたして科学博物館の館長になれたかどうかは、何とも言えないかもしれません。館長という仕事は、当然ながら、組織を内外に対してマネジメントしなければならず、自分の「学び」の追求だけで務まるものではないでしょうから。

 だから、やはりこれは一種のファンタジーなのでしょう。しかし、それでも、「学び」をそれ自体として大事にするというメッセージは、心に響きます。なんだか、いまの自分に一番足りないものかもしれない……。自分にはそんな「学び」の対象は何かあるのだろうか……。

 まあ、ちょっと考えすぎですね。人生訓を読み込みすぎているかも(^^;)。

▼キャロル・オーティス・ハースト 文/ジェイムズ・スティーブンソン 絵/千葉茂樹 訳『あたまにつまった石ころが』光村教育図書、2002年、[装丁:桂川潤、印刷:協和オフセット印刷株式会社、製本:株式会社石毛製本所]

長谷川義史『いいから いいから』

 うーむ、これは面白い。「いいから、いいから」が口癖(?)の「おじいちゃん」と、「ぼく」が、雷と一緒にやってきた「かみなりのおやこ」をもてなす物語。

 「おじいちゃん」は相手が「かみなり」でもまったく気にせず、「いいから、いいから」と手厚くもてなします。その桁外れのホスピタリティ(?)が、とても可笑しい。ラストのオチも爆笑間違いなしです。うちの子どももウヒウヒ受けていました。

 この絵本、とびきりユーモラスで大笑いなのですが、実はかなり奥が深いと思いました。タイトルにもなっている「いいから、いいから」は、考えてみると、非常に含蓄のある言葉です。自分とは異なるものを安易に拒否するのではなく、大らかに受け入れていく、そんな懐の深さを表しています。たとえ人間ならざるものであっても、それを平気で迎え入れる度量と言ってよいかもしれません。

 「いいから、いいから」は、いいかげんでちゃらんぽらんにも聞こえます。けれども、今の世の中にあって、もっとも必要とされることがらを表している気がします。目くじら立てて視野狭窄に陥りがちな私の日常において、一番欠けているものかもなあと思いました。もう少し、ゆったり構えてもいいんじゃないか、そんなメッセージが聞こえてくるようです。

 関連しますが、子どもと一緒に読むとき、「おじいちゃん」のこのセリフ、「いいから、いいから」をどんなふうに声に出せるか、割と大きなポイントかもしれません。けっこう難しいんですよ、これ。すべてを肯定し歓待していく、そういう読み語りは、一朝一夕には出来ないと思うのですが、どうでしょう。何かというとすぐ早口にまくしたてて、相手の言うことも遮ってしまうような人(つまり私です^^;)には、とても困難。読む人の人となりが試される絵本かもしれません。

 あと思ったのは、「おじいちゃん」だけでなく、「おかあさん」がけっこう、すごいんじゃないかということ。文中には一つのセリフもなく、絵のなかに少ししか登場しないのですが、この「おかあさん」、「おじいちゃん」以上の傑物かも。なんでも受け入れてしまう「おじいちゃん」を叱ったり疎んじたり、そんなそぶりは微塵も見せません。ほとんど驚いたりもしません。にっこり笑って普段通りなのです。

 いや、もちろん、絵本だから当然そうなのだと言えるかもしれません。でも、どことなく浮世離れした「おじいちゃん」にこのように接していることは、それ自体すごいことだし、けっこう重要な意味があるんじゃないかと思いました。例によって考えすぎかもしれませんが……(^^;)。

▼長谷川義史『いいから いいから』絵本館、2006年、[装丁デザイン:広瀬克也、印刷・製本:荻原印刷株式会社]

バーバラ・マクリントック『ダニエルのふしぎな絵』

 絵を描くのが好きな女の子「ダニエル」と「おとうさん」の物語。「ダニエル」は、写真家の「おとうさん」の写真のように、目に見える通りに描こうとするのですが、いつもうまくいきません。不思議な絵ばかり描いています。そのうち、「おとうさん」の写真は売れなくなり、病気で寝込んでしまいます。「ダニエル」はなんとかしようとするのですが……。

 この絵本はいろんな読み方が出来ると思いますが、私がなにより引き込まれたのは、二人きりの家族のきずな。写真が売れなくてカフェに入ったとき、「おとうさん」を元気づけようとする「ダニエル」、そしてページをめくると、二人が路地をだまって歩く姿が描かれています。ここを読んでいて、なんだか切なくなりました。その後、「おとうさん」が病に伏せってから「ダニエル」が奮闘する姿にも心動かされました。

 どちらにも、少し離れた視点から俯瞰する構図が見られるのですが、それは、親子の姿が小さく描かれるがゆえに逆に、そのきずなの強さを伝えているように思います。二人が互いを思いやる様子が画面の端々に表されており、気持ちが引き込まれます。

 また、「ダニエル」のけなげで懸命な様子からは、落胆、絶望、希望、喜びといった心の動きが鮮やかに浮かび上がってきて、ラストでは「ダニエル」と一緒にこちらまでうれしくなります。画面のなかの「ダニエル」はいつも小さいのですが、本当に多くのことを物語っています。非常にエモーショナルな絵本だと思います。

 そういえば、カフェの場面は物語のラストと呼応していますね。ささいなことですが、同じものが別の意味を込めて再び現れています。これも、ある意味で家族のきずなの掛け替えのなさを表現しているように感じました。

 ところで、この絵本のもう一つの大きなモチーフは、「ダニエル」が自分の居場所を見つけること。目に見える通りに写真を撮る「おとうさん」と自在にイマジネーションの翼を広げる「ダニエル」がまさに対照をなしており、そのために物語の前半で「ダニエル」はいつも自分で自分を否定しています。

 そんな「ダニエル」がある出会いによって、自分がありのままでいていいことを理解し、そして「おとうさん」もそれを認めていきます。一つの才能が見出され生かされていくことの幸福が描かれているように思いました。別の角度から見るなら、子どもの自由を周りの大人がきちんと評価し受け入れることの重要性を表していると言えるかもしれません。

 絵は端正で、クラシカルな雰囲気。スペースを広くとり、細部にまで丁寧に筆が入れられ、静謐でとても美しい画面です。また、全体を通して、くすんだセピア色の色調は、どことなくノスタルジック。「ダニエル」と「おとうさん」のつつましくも幸せな暮らしを浮かび上がらせていると思います。

 と同時に、比較的抑えた画面のなかで、「ダニエル」の描く絵だけが非常にカラフルに彩色されています。この対比は、「ダニエル」の「空想のつばさ」が自由自在に羽ばたく様を感受させるように思いました。

 カバーには「作者のことば」が記されています。それによると、作者のバーバラ・マクリントックさんのお父さんも写真家だったそうです。「ダニエル」と同じように、マクリントックさんも子どもの頃から不思議な動物の絵を描いていたとのこと。マクリントックさんのお父さんは、いつも励ましてくれたそうです。この絵本は、そんなお父さんとお母さんに捧げられています。

 原書“The Fantastic Drawings of DANIELLE”の刊行は1996年。

▼バーバラ・マクリントック/福本友美子 訳『ダニエルのふしぎな絵』ほるぷ出版、2005年、[日本語版装丁:湯浅レイ子、印刷:共同印刷株式会社、製本:株式会社ハッコー製本]

マレーク・ベロニカ『ブルンミのたんじょうび』

 タイトルの通り、「ブルンミ」の誕生日をみんなでお祝いする物語……。

 のはずなんですが、でも、読みようによっては、少しブラックな趣きがあります。だってさー、なんで、そんなに「ひみつ」「ひみつ」なのよ? どうして「ブルンミ」の鼻先で「バターン」とドアを閉めちゃうわけよ? 「ブルンミ」を泣かすなよー!

 ラストの一文では、「ブルンミ」はこんなふうに言っています。

そして ブルンミの たんじょうびを みんなでたのしく すごしました。
ああ なんてすてきなんだろう! ありがとう アンニパンニ!――

 けなげな「ブルンミ」……。でも、「ブルンミ」、君はだまされていると思うよ……(なんちゃって^^;)。

 いやまあ、マレーク・ベロニカさんの絵は明るい色彩とセンスのよい造形で、とてもおしゃれですし、ハッピーエンドであることは間違いないのですが、少々意地悪な物語にも読めてしまうのです。

 やっぱり考えすぎでしょうか? こちらの性格が歪んでいるからかなあ。素直に読めない自分が悪いのかしらん。

 とはいえ、ほんの少しの翳りがあるところも、マレーク・ベロニカさんの絵本の魅力なのかもしれないなと思いました(ちょっと無理があるかな?)。

▼マレーク・ベロニカ/羽仁協子 訳『ブルンミのたんじょうび』風濤社、2003年、[印刷:吉原印刷株式会社、製本:榎本製本株式会社、装幀・組版:文京図案室]

パク・ジェヒョン『とらとほしがき』

 ううむ、これはすごい! 韓国で語りつがれてきた昔話を元にした絵本。自分はこの世の王であると信じていたトラが、ある日、とんでもなく恐ろしいやつに出会うという物語。

 後書きで訳者の大竹聖美さんが書かれていますが、日本の昔話にもよく似たお話しがあります。もともとはインドの説教説話集『パンチャタントラ』にさかのぼるとのこと。最初のページに作者のパク・ジェヒョンさんの説明が少し記されているのですが、パクさんは、この昔話を小さいころ、おばあちゃんから繰り返し聞いたそうです。

 物語そのものはクラシカルと言えそうですが、とにかく、この絵本のすごさは、絵です。表紙と裏表紙が合わせて1つの絵になっているのですが、実に力強い描写。本文でも、色彩といい造形といい、圧倒的な迫力です。細かなタッチが幾重にも重ねられ、まるで匂い立つかのような濃密な画面が続きます。なんとなくですが、筆が入れられる紙そのものが普通とは違うように感じました。色のノリが独得なのです。これは、ぜひ一度、原画を見てみたいですね。

 作者のパク・ジョヒョンさんの説明によると、この絵本では「韓国の伝統的な美しさを表現するために、絵をかく道具や紙、かき方にもくふうを」されたそうです。民画と呼ばれる韓国の伝統的な絵画の手法が用いられているとのこと。

 これまでに読んできた韓国の絵本を振り返ってみても、絵のすごさが強く印象に残っています。それは、韓国絵画の伝統を生かしたものと言えるのかもしれません。

 絵本の絵におけるこうした伝統との対話は、日本の場合には少し希薄な気がしますが、どうでしょう。私もそんなにいろいろ読んでいるわけではありませんが、たとえば赤羽末吉さんの絵本には、日本の絵画の歴史を生かした部分がかなりあると思います。しかし、現在において、赤羽さんがされていたことを引き継ぐような方は、あまりいらっしゃらない気がします。

 それはともかく、この絵本、迫力があると同時にとてもユーモラス。とくに主人公「とら」の表情がよいです。気持ちの変化が如実に表れていて、可笑しい。なんだかマンガのようと言ったら言い過ぎかな。

 あと、子どもと一緒に読んでいて楽しかったのが「アイゴ」。いろんなニュアンスで出てくるのですが、場面に応じて声音を変えると、なかなか面白いです。表紙カバーの説明によると、「びっくりした気持ちや悲しい気持ち、思わず出てしまう叫びやつぶやきを表す韓国の言葉」とのこと。日本語だと、これに類する言葉はあまりないかもしれませんね。

 原書の刊行は2002年。作者のパクさんはカナダ在住。この絵本はパクさんの初めての絵本で、カナダ総督文学賞の候補作になったそうです。

▼パク・ジェヒョン 再話・絵/大竹聖美 訳『とらとほしがき』光村教育図書、2006年、[装丁:城所潤、印刷所:株式会社精興社、製本所:株式会社ブックアート]

内田麟太郎/竹内通雅『へいき へいき』

 これは面白い! 天下に恐いものなしのオオカミと子分のイタチが入り込んだのは、いろんな恐い「き」が生えている山だったというお話。

 いったいどんな「き」だったのかは、読んでのお楽しみ。かなり「き」ています。ページをめくるたびに、思わず吹き出し、そして、へなへなと脱力してしまう感じ。うちの子どもも、だいぶ、うけていました。

 内田麟太郎さんのテンポのよい軽妙な文はもちろんのこと、竹内通雅さんの絵がまたすごい。一種の言葉遊びをどうやって絵で表現するかがポイントです。力のこもったど迫力の描写。しかも、よーく見ると、ページによってはいろいろ遊びがあって、笑えます。

 一つ面白いなと思ったのは、冒頭に登場する、しゃがれ声。「オオカミ」と「イタチ」は、しゃがれ声のからかいに強がって山に入っていくわけですが、このしゃがれ声が誰の声だったのか、文中に説明はありません。しかし、扉、ラストの3ページ、また奥付に付けられた絵を合わせて考えると、声の主がなんとなく分かる気がします。背後のストーリーが浮かび上がってくるような感じですね。なかなか楽しい趣向です。

 それはともかく、この絵本では、最後の最後に、本当に恐ろしい「き」が登場します。見開き2ページにどどーんと描かれた絵は、ちょっとすごいですよ。もちろん、あくまで絵本の表現なのですが、うちの子どもも、この2ページだけは少し恐かったみたいです。

▼内田麟太郎 文/竹内通雅 絵『へいき へいき』講談社、2005年、[印刷所:日本写真印刷株式会社、製本所:大村製本株式会社]

堀内誠一『どうくつをたんけんする』

 この絵本は、福音館書店の「たくさんのふしぎ傑作集」の1冊。テーマは言うまでもなく洞窟です。おそらくは秋吉台を舞台に、洞窟のなかがどうなっているのか、描き出されていきます。

 不思議なかたちの様々な鍾乳石や石筍、洞窟内の珍しい生き物の生態など、「へぇー」と引き込まれます。また、鍾乳洞がどのようにして出来上がっていったのか、カルスト台地の石灰岩は大昔何であったのか、など数億年もの歴史が科学的に説明されており、次の一節にはまさに納得です。

どうくつは、地球の歴史、生物、人間の歴史、水や岩石の性質など、いろいろなことを教えてくれるのだよ

 世界各地の様々な洞窟についても、イラスト付きで解説があって、これも初めて知ることばかり。子どもはもちろん、大人にとっても、かなり興味深いのではないかと思います。うちの子どもは、このページが一番気になったみたいです。

 一応、この絵本は科学絵本に分類されるのでしょうが、それだけではありません。加えて、楽しいのは、タイトルにあるように「たんけん」の醍醐味が盛り込まれているところ。

 とくに冒頭の10ページ。普通のルートではなく、「ちょっと変わったコース」から鍾乳洞に入っていくんですね。狭く暗い洞窟をときには這うように進んでいく主人公たち。下には冷たい川が流れ、ところどころ滝が落ちています。なんとなくワクワクしてくるような導入です。

 他にも、洞窟探検のケービングの技術を解説したページもありました。そして、ラストページ。見ようによってはほの暗くスリリングで良いです。

 裏表紙の見返しには日本地図が載っており、石灰岩地帯と主な鍾乳洞が書き込まれていました。今度、機会があったら、ぜひ、近場の鍾乳洞に子どもと一緒に行ってみたいなと思いました。

▼堀内誠一『どうくつをたんけんする』福音館書店、1985年、[印刷:精興社、製本:大村製本]

スティーヴン・ビースティー/メレディス・フーパー『宝さがしの旅』

 これは面白い! 黄金をめぐって時空をかけめぐる物語。数千年、いや数億年?の時間を超え、大陸をまたにかけて、黄金の有為転変が描かれていきます。フィクションの部分もありますが、多くは実在の場所や事実がもとになっています。

 冒頭ページがまずすごい。なにせ太陽系が誕生するところから説き起こされるのです。金という金属が宇宙のはるか彼方からやってきたことが描かれています。このスケールの大きさに度肝を抜かれました。

 そして、古代エジプトで採掘された金がファラオのマスクとなり、それが墓泥棒たちによって盗掘され、その後、かたちを変え、持ち主を変え、数千年の時間を超えて現代に至ります。黄金の数奇な運命は世界史の様々な出来事と織りなされ、まさに波瀾万丈の物語。

 最初は一つの金マスクだった黄金は、人から人へと渡るなかで全部で7つに分かれていき、それぞれ特異な経緯をたどります。様々な人びとが様々な思いを金に託し、金のまわりにたくさんの人生が現れては消えていきます。なんだかめまいを起こしそうなくらいです。と同時に、金をめぐる人間の多様な営みが描写されており、とても興味深い。

 絵もまた素晴らしいです。近景から遠景へと深く広く描き出されるダイナミックな構図に、緻密な描き込み。濃密な画面です。ときには建物を輪切りにしてみせる視覚的な面白さもあります。比較的大きめの造本は、この迫力ある絵によく合っていると思いました。

 また、ページをめくるたびに、人びとの服装が変わり、装飾品が変わり、建築物が変わっていきます。歴史の大きな変化を実感することができます。

 文章量はけっこう多く、地名や固有名も次々と出てくるので、小さな子どもにとっては難しいかもしれません。しかし、絵を見ているだけでも、かなり面白いと思います。巻末には、関連する歴史上の出来事について詳しい説明も付いていました。

 金をめぐって一気に数千年の「旅」を体験できるこの絵本、うちの子どももけっこう気に入ったようですが、私自身、知的好奇心を刺激されました。子どものみならず大人にとっても、おすすめできると思います。

 原書”GOLD – a Treasure Hunt Through Time”の刊行は2002年。

▼スティーヴン・ビースティー 絵/メレディス・フーパー 文/山田順子 訳『宝さがしの旅』岩波書店、2002年

村山桂子/堀内誠一『たろうのおでかけ』

 「たろう」と「いぬの ちろー」「ねこの みーや」「あひるの があこ」「にわとりの こっこ」が仲良しの「まみちゃん」の誕生日のお祝いに出かけるという物語。

 この絵本は、一見したところ「交通規則のしつけ絵本」のような趣きがあります。「まみちゃん」の家に行く途中で、道路でふざけてはいけない、走ったりしない、信号は守る、横断歩道をきちんとわたる、といった基本的なルールを「たろう」は学んでいきます。交通ルールをちゃんと守らないといけないよといったメッセージが読み取れます。

 しかし、この絵本のすごいところは、そういうしつけ絵本的な枠をどんどんはみ出していく点だと思います。

 一つには、もちろん、「たろう」と動物たちの実に楽しげな様子。カラフルな色彩とのびやかな線は、堅苦しさをまったく感じさせません。「しつけよう」などという押しつけがましさやわざとらしさからかけ離れた描写です。

 そして、もう一つ、とても印象的なのは、交通ルールというものを、徹頭徹尾「つまらない」ものであり仕方なく従うものとしている点です。

 文中、「たろう」たちの「うれしいことがある」から急ぐという感情に対し、大人たちは常に「だめ だめ だめ」とそれをアタマから否定し、交通ルールを守ることを求めます。「たろう」たちはいつもそれを「つまらない」と言い、でも「けがをするのはいやなので」従います。「だめ だめ だめ」と「つまらない」が何度も繰り返されていくわけです。

 もちろん、危ない目にあわないためには、いやでも応でも交通ルールを守らないといけません。交通ルールとは、そのようなものだと言ってもよいでしょう。

 しかし、たしかにそうではあるのですが、この絵本の描写、とくに文章における「だめ だめ だめ」と「つまらない」の繰り返しは、規則というものが徹底して面白みがなく味気ないことを浮き彫りにしていると思います。

 そのことは、物語の展開にもはっきり表れているように感じました。なにより原っぱに着いてからの開放感が実に鮮やか。気持ちのままに思いっきり駆け出す「たろう」たちです。それに対応するかのように、それまで白みの多かった画面は、明るい緑と青に彩られます。

 そしてラストの一文。

はらっぱの みちでは、もう だれも、「だめ だめ だめ!」って、いいませんからね。

 それまでとの落差の激しさは、ルールや規則の存在について、相当にラディカルな見方を示唆していると思うのですが、どうでしょう。

 例によって(?)考えすぎかもしれません。しかし、「しつけ絵本」であるかに見えて「しつけ絵本」からいつの間にか抜け出てしまう、あるいは「外」に出て行ってしまう……まさに「たろう」たちのように、もっと明るく自由な「原っぱ」に駆けていってしまう……そんな絵本になっていると思いました。

 あと、もう一つ、特筆すべきは町の描写。お店さんや様々なクルマの描写がとてもモダンです。これは堀内さんならではと言えるかもしれません。

▼村山桂子 さく/堀内誠一 え『たろうのおでかけ』福音館書店「ものがたりえほん36」、1963年、[印刷・製本:精興舎]