「絵本を読む」カテゴリーアーカイブ

片山健『タンゲくん』

 ある日の晩ご飯のとき、小学生の「わたし」の家にのっそりと入ってきた一匹のネコ。それが「タンゲくん」です。この絵本では、その「タンゲくん」と「わたし」のかかわりあいが描かれています。

 この絵本で魅力的なのは、なにより「タンゲくん」のたたずまい。

 絵本に登場するネコというと、きれいで人なつこくてかわいいネコを思い浮かべるもしれませんが、「タンゲくん」はまったく正反対。表紙と裏表紙で一枚の絵になった「タンゲくん」をみても、世間一般で言うところのかわいさとは無縁です。名前のとおり、左目は大きな傷跡でつぶれていて片目、右目でぎょろりにらんでいます。毛並みもぼさぼさで、トカゲやバッタや気味の悪い虫を取ってきては「わたしたち」を驚かせます。お世辞にもきれいとは言えません。

 しかも、人にこびるところがありません。「タンゲくん」は一応「わたし」の家のネコになるのですが、でも完全に飼い猫になるわけではありません。たとえばこんな感じ。

わたしは タンゲくんが だいすきです。
だから わたしは いいます。
「タンゲくんは わたしのねこだよね」
でも そんなとき、タンゲくんは「カ、カ、」と
へんなこえで ないて、すっと そとへ でていって
しまいます。

 「わたし」が外で「タンゲくん」に会っても、「タンゲくん」は知らんぷりしたり隠れたりします。声をかけても、他のネコといっしょにどこかに逃げてしまいます。

 そんな「タンゲくん」ですが、どこかにくめないんですね。まちでネコのケンカの声がすると、「わたし」は「タンゲくん」じゃないかなと心配になります。夜になると「タンゲくん」は家に帰ってきて「わたし」の上でまるくなります。「わたし」は「タンゲくん」を起こさないように、いつまでもじっとしているのです。

 この「タンゲくん」と「わたし」の関係は、適度な距離がありながら、しかし深いところで通じ合っているようで、魅力的です。ベタベタしているだけより風通しがよくて、こういう関係が絵本のなかに描かれるのは、子どもにとっても(大人にとっても)けっこう大事なんじゃないかなと思いました。

 また、そもそもネコは(野良ネコならなおさら)そんなに人なつこくないのが普通と思います。だから、へんにかわいく描かれたネコより、この絵本の「タンゲくん」の方がよほどリアルに感じます。

 もう一つ、この絵本で気になったのが、「わたし」のお父さんとお母さん。この二人の関係もなかなか良いです。細かなところですが、たとえば、晩ご飯の場面でお父さんがお母さんにビールをついでいたり、別の場面ではお父さんが台所に立って炊事か晩ご飯の後かたづけをしている姿が描かれています。これらは物語の背景にすぎず、さりげない描写なのですが、「わたし」の家族の居心地のよさが伝わってきます。こんなお父さんとお母さんだからこそ、「タンゲくん」がはじめて家にやってきたときも何も言わずに受け容れたんじゃないかなと思いました。

 絵はあざやかな水彩で、まずは「タンゲくん」がど迫力です。また、「わたし」が「タンゲくん」のことを心配したり気にかけたりする様子が繊細に描き出されていて、その気持ちの動きがよく伝わってきます。

▼片山健『タンゲくん』福音館書店、1992年

いとうひろし『どろんこ どろちゃん』

 子どもは土いじりが好きですね。私の子どももそうで、砂場遊びとかけっこう好きです。でも、近くの公園(というほどのものでもないですが)の砂場は、カンとかビンとかプラスチックのかけらとか、いろいろゴミが捨てられていて、あまり安心して遊べません。幼稚園では存分に土いじりを楽しんでいるようですが。

 この絵本、そんな土いじり、どろんこ遊びの楽しさを描いています。といっても、登場人物(?)は子どもではなく、どろんこの「どろちゃん」、つまり、どろそのものです。頭も手足もあって、眼と鼻と口、それからボタン(?)のようなものも付いていますが、すべてがどろで出来ていて、全身どろ色です。

 まず、「どろちゃん」の作り方。

ぼくの つくりかたは かんたんだよ。
つちを コップに 5はい。
みずを コップに 2はい。
よく かきまぜて、
よく こねて。
はい、できあがり。

 この文章の付いている絵では、「どろちゃん」自身がどろの入った容器のなかに立って自分でかき混ぜています。よく考えてみると、なかなかシュールな絵柄です。

 どろんこ遊びでは、もちろん、土と水のバランスが大事。水が少なすぎても多すぎても、うまく「どろちゃん」はできません。そのあたりをこの絵本では、筆(?)のタッチの違いで印象的に表現しています。土が固すぎてぽろぽろの「どろちゃん」はザラザラしたタッチで描かれ、逆に水分が多すぎてべちゃべちゃの「どろちゃん」は水をたっぷり含ませてぺったりと描かれています。

 どろんこを落としたり投げたりしてドカーンと爆発する様子や、足でけってピュッピュッとどろはねする様子も、「どろちゃん」のアクションと筆使いで表されていて、これもおもしろい。

 そして、どろんこ遊びの一番の楽しみといえば、どろ団子。この絵本は、「どろちゃん」がころころ転がってどろ団子になり、それを子どもの手が上からつかもうとするところで終わります。このラストからは、「さあ、どろんこ遊びを楽しもう!」という誘いのメッセージがよく伝わってきます。

 あと、この絵本ですごいなと思ったのは、どうやら指を使って描かれているところです。全部かどうかはちょっと分かりませんが、画面のあちこちに作者のいとうさんの指紋が付いています。表紙・裏表紙の見返しは、いとうさんの指紋だらけ。絵の具(もしかして本物のどろだったりして?)を指に直接つけて、真っ白い画面に「どろちゃん」を描いていく、これ自体、一種のどろんこ遊びかなと思いました。まさにどろんこ遊びのように、楽しんでこの絵本は描かれたのかもしれませんね。

 カバーにはいとうさんからのメッセージがありました。引用します。

どろんこ あそびは
たのしいね
ぎゅっと にぎれば
ゆびの あいだを
どろんこが どろどろ
きみも どろんこあそびを
やってみよう
きっと どろちゃんと
ともだちに なれるよ

▼いとうひろし『どろんこ どろちゃん』ポプラ社、2003年

いちかわなつこ『リュックのおしごと』

 実は私、子どものころパン屋さんになりたいと思っていた時期がありました。パン屋さんのあのにおいがとても好きだったのです。もはや、こんなオヤジには似合わない話ですが(笑)。

 そんなわけで(どんなわけ?)、この絵本の舞台はパン屋さん。リュックは、「まちいちばん おいしい パンを つくる」ジーナの飼っている黒いぬです。この絵本では、ジーナとリュックが朝おきて、パンを焼き、お店を開けるまでの様子が描かれています。

 タイトルで「おしごと」といっているのは、お店をあけるまでにリュックもいろんな「しごと」をするからです。ねぼすけのジーナを起こしたり、開店前のショーウインドーのチェックに、焼きたてパンの味見、やってきたお客さんのお出迎えと大活躍します。

 このリュックがとにかくかわいい。ぱたぱたとしっぽをふったり、ちょっとした仕草もよいです。焼きたてパンの味見のシーンでは、

ばりばり。むしゃむしゃ。
ああ、なんて しあわせな しごと!

なんて文章がついています。食べているリュックの表情をみていると、なんだかうらやましくなります。

 それから、この絵本では、パン屋さんの開店前の仕事が割と具体的に描かれていて、これもおもしろいです。ジーナの得意なシナモンロールについては、材料を混ぜるところから焼き上がるまで、一つ一つのステップが詳しく描写されています。このあたりは、子どもにとって(また大人にとっても)興味が引かれるところと思います。

 また、ジーナのお店では、パン職人のトマや接客のアンも働いていて、みんなで仕事を分担し協力して店を運営している様子がうかがえます。

 絵は、とてもあたたかみのある色調で、まちがだんだん明るくなって色合いが変化するところも丁寧に描かれています。焼き上がったパンを並べたお店の様子は、本当にパンの香りが広がってきそうです。描かれているパンは種類も豊富で、どれもとてもおいしそう。絵を見ているとパンが食べたくなってきます。

 店内をよーく見ると、たなのすみに「ジーナつうしん No.12」というチラシがかかっていて、リュックのイラストも付いています。工房ではパンを作るための機械や道具もきちんと描き込まれ、壁には手を消毒するためのアルコールも置いてあって、こういう細部の描写も魅力的。

 また、表紙と裏表紙の見返しには、シナモンロールをはじめとして、いろんなパンのイラストもあって、これも楽しい。

 私はこの絵本、かなり好きです。うちの子どもも読み聞かせを楽しんでいました。けれども、どうしても気になることが一つだけあります。それは、お話の舞台についてです。

 この絵本の舞台は、まちなみや登場人物をみるかぎり、日本ではありません。そういえば、ジーナの寝室にはイタリアの暖房器具デロンギがあって、机の上には映画『アメリ』のCDかDVD、壁にはトリュフォー監督の映画『突然炎のごとく』のポスターが貼ってあります。

 ところが、工房に貼ってあるメモや容器のラベルはほとんどが日本語、お店で売られているパンの値札もすべて日本語。そのなかに「カレーパン」もあったのですが、(間違いかもしれませんが)「カレーパン」なんて日本にしかないような気がします。しかも、ジーナの本棚には「えいわじてん」「こくごじてん」「わえいじてん」まで揃っています。

 ここは外国なんだろうか、それとも日本なんだろうか、もしかしてジーナは実は日本人で外国のまちでパン屋さんを開いているという設定なんだろうか、と?マークが浮かんできます。

 作者紹介によると、いちかわさんは、日本のパン屋さんでアルバイトをされていたとのこと。であれば日本を舞台にして描かれてもよいような気がします。なぜヨーロッパならヨーロッパ、日本なら日本と舞台を統一しないのか、ちょっと不思議です。

 もちろん、字が読めない子どもからすると、そんなに気にする必要はないかもしれません。また、パンの値札とかは日本語の方が親しみやすいことはたしかです。でも、読み聞かせのとき子どもに聞かれたらなんとも答えようながないなあと思いました。

 そんなに気にする必要はないんでしょうが、ただ、この絵本では朝のパン屋さんの様子が割と具体的でリアルに描かれていて、だから上記のようなことが特に目立つのかもしれませんね。

▼いちかわなつこ『リュックのおしごと』ポプラ社、2002年

『絵本の素』

 インターネットをさまよっていたら、おもしろいものを見つけました。
 個性的な絵本を出版されているビリケン出版から昨年(2003年)の12月に刊行された『絵本の素』です。

 案内文を引用します。

この本は「ビリケン出版」から出ている絵本と同じサイズ、同じページ数です。
表紙、見返し、扉と続き いよいよ本編のはじまりです。ルールは 何もありません。
さあ まっ白な世界に はじめの一歩を踏み出しましょう。

 これ、表紙も裏表紙も見返しも本文も何も描かれていない真っ白い絵本です。つまり、表紙からはじまってすべて自分だけの手作り絵本を作ることができるわけです。

 子どもといっしょに絵本を描いてみたりとか、楽しい使い方がいろいろ考えられそうです。上製本(サイズは260×220㎜)で全部で32ページあるので、かなり本格的な絵本作りもできますね。絵本に関するサークルや学校や図書館などのワークショップで使ってみてもいいかもしれません。

 ちょっと思ったのですが、何も描かないまま持っていても、なんだか楽しそうな気がします。真っ白い絵本をぱらぱらめくってみる、まだこの世にない絵本を想像してみる、それ自体が楽しいかもです。

 あるいは、この白い絵本をじっさいの描かれた絵本を比べてみることで、絵本の表現の技法をあれこれ考えられそうな気もします。

 この絵本、帯はついていて、スズキコージさんが帯のタイトル字と絵を描かれています。サイトの写真をよーくみると、帯の右下には「オンリーワン・アート・ブック」の文字があります。なるほどなーって感じです。

 サイトのニュース記事では、「素敵なのが出来たら見せて下さい? 楽しみにしています」とも書かれていました。本当に受け付けるのかな? もしかして、この『絵本の素』をきっかけに新人絵本作家さんが生まれたりするかもしれませんね。こういう遊び心あふれる企画、なんか、いいです。

▼『絵本の素』ビリケン出版、2003年

飯野和好『ハのハの小天狗』

 飯野和好さんといえば、このウェブログでも以前取り上げた『ねぎぼうずのあさたろう』をはじめとするチャンバラ時代劇絵本の第一人者(?)。その飯野さんの最初のチャンバラ時代劇絵本がこの『ハのハの小天狗』だそうです。

 春もさかりの風もトロトロとあたたかいある日、みすずちゃんといっしょに学校から帰る途中、「ぼくたち」は忍者の一団におそわれます。思わず身構えた「ぼく」は、いつのまにか「ハのハの小天狗」に変身(?)、忍者の一団と戦いを繰り広げます。

 そんなわけで、この絵本では突然、時代劇に突入し、そしてまた突然、現代に戻るというとても不思議なストーリーになっています。「ぼく」や「みすずちゃん」が山の中で「ハのハの小天狗」や「みすず姫」に変身するところは、なんとなく子どものころのチャンバラ遊びを思い出しました。本気でサムライになったつもりで、「エイッ」「ヤアッ」と遊んでいた、あの感じです。

 絵は、たとえば現在の『ねぎぼうずのあさたろう』シリーズと比べると、筆のタッチや色使いが微妙に違っていて、なかなか興味深いです。文章も『ねぎぼうずのあさたろう』のように手書きではありません。現在よりはもう少し淡泊な感じでしょうか。だんだんとあの独特のこゆい作風が完成されていったのかなと思いました。

 とはいえ、もちろん、血湧き肉躍るチャンバラの楽しさとユーモアはこの絵本でもすでに確立されています。

 「タァーッ」「えーいっ、どうだっ」「トアーッ」「チェーイ」といったチャンバラのセリフの数々は読み聞かせでも思わず気合いが入ります。危機また危機の連続は、子どもも思わず身を乗り出します。

 とくにうちの子どもに大受けしていたのが、忍者の頭。「むふふふっ 小天狗やるな」と言って登場し、次から次へと手り剣をとばし、そして一言。

「ムッ
手り剣がなくなった」

 画面は、見開き2ページ、手り剣のなくなった両手を凝視する忍者の頭の上半身を下から仰ぎ見るような構図で、セリフは上述のものだけ。この間合いが実におかしい。

 また、忍者の一団は、緑色の服装といい、まんまるの胴体といい、どうみても木の実か野菜です。頭の上には葉っぱの付いた枝までくっついています。忍者の頭は、頭に漬けもの桶か何かをかぶっているみたいで、これも笑えます。

 そして、決戦の舞台はやはり峠。『ねぎぼうずのあさたろう』にも峠の決戦が何度かあったと思うのですが、峠というのは、向こうから何が現れるか分からないし、切り立った崖もあるし、何か不穏な雰囲気があるんですね。この舞台設定も飯野さんならではでしょうか。

 もう一つ、気になったのが、裏表紙やとびら、表紙・裏表紙の見返しに記されている手書きの謎の文字です。どうもローマ字のようなのですが、独特の字体でなかなか解読できません。『ねぎぼうずのあさたろう』など現在の飯野さんの絵本ではあまり見かけないのですが、こういうところもおもしろいですね。

▼飯野和好『ハのハの小天狗』ほるぷ出版、1991年

クォン・ジョンセン/チョン・スンガク『あなぐまさんちのはなばたけ』

 強烈なつむじ風がふいた日のこと、あなぐまおばさんはまちの市場まで吹き飛ばされてしまいます。家に帰る途中の学校でみつけたお花畑に、あなぐまおばさんはうっとり。そこで、峠の家でもお花畑を作ろうとします。言われたとおり、あなぐまおじさんが、くわであたりを掘り起こしはじめると、

「あー、おまえさん! それは なでしこよ。ほっちゃ だめ!」
「アイゴー! それは つりがねにんじんよ。ほっちゃ だめ!」

 家のまわりをよく見ると、そこにはいろんな花が咲き乱れていて、そのままお花畑。冬だって白い雪の花が山一面に咲きます。あなぐまおばさんは、日ごろ見落としていた大事なものにあらためて気づくのです。

 このストーリーに加えて、この絵本の魅力は絵の美しさです。使われている黒色はたぶん墨書きだと思うのですが、たとえば力強い山々の稜線など、その躍動感あふれる筆使いは一見の価値ありです。また、墨色以外の彩色も非常にあざやかで魅力的。たとえば、あなぐまおばさんが自分たちの家のまわりの花畑に気づく画面はとても幻想的に描かれています。あるいは、アメリカの画家ポロックを彷彿とさせる画面もあり、アクション・ペインティングと墨書きが融合したかのような独特の美しさです。

 もう一つ注目されるのが、彩色されている紙(?)の質感です。日本でいえば和紙のような感じでしょうか。あたたかで味わい深くまた微妙な色合いで、墨書きによくマッチしています。この紙(?)に水分を含ませてその上で彩色してあるようなところもあり、色のにじみがとても美しいです。

 著者紹介によると、絵を担当したチョン・スンガクさんは、韓国古来の絵画の持つ美しさを取り入れた絵本づくりに力を注いでおられるとのこと。私は韓国の絵画はまったく知らないのですが、この絵本の筆使いや紙面の独特の質感は本当に美しいと思いました。

 原書の刊行は1997年。

▼クォン・ジョンセン 文/チョン・スンガク 絵/ピョン・キジャ 訳『あなぐまさんちのはなばたけ』平凡社、2001年

長谷川集平『トリゴラス』

 大風が「びゅわん びゅわん」と鳴る夜のこと、少年はこの音が「トリゴラス」という怪獣の飛ぶ音に違いないと妄想します。少年の話では、「トリゴラス」はまちを破壊し、「かおるちゃん」をさらっていくのです。

 この絵本、少年の暴力衝動と性衝動、そのいい意味での焦燥感を余すところなく表現していると思います。多くの元少年が身に覚えのある感覚をよびさまされてしまう、そんな絵本です。

 「暴力と性? じゃあ、小さい子どもには読ませられない!」、なんてことはまったくありません。さらにプラスして、ユーモアとペーソスがあります。

 うちの子どもも、この絵本を非常に楽しんでいました。何がいいって、まずは「トリゴラス」、この怪獣がそれ自体、実に魅力的。ビルの上を低く飛び、口から「ひみつへいき」の「トリゴラ・ガス」を吐き、戦闘機やミサイルの攻撃をものともしない、圧倒的な強さです。これが子どもにとってはたまりません。いや、昔「子ども」だった大人にとっても、です。そういえば、はじめの方のページで、少年の机の上にはウルトラマンと怪獣の人形がかざってあり、ふすまにはスター・ウォーズのポスターが貼ってありました。

 そして、うちの子どもがもっとも受けていたのが、関西弁の文章。ユーモラスでしかもリズミカル。ついつい自流の関西弁で読み聞かせも楽しめます。たとえば、こんな感じ。

もう、めちゃくちゃや。
まち、ぐちゃぐちゃや。
もう、わやくちゃなんや。

 この文章がついた画面には、列車を口にくわえたトリゴラスが、燃え上がる(?)街と飛び交う戦闘機やミサイルを背景に力強くそびえ立っています。読み聞かせでここのページになると、うちの子どもはいつも、ウハハハと大受けしていました。

 それから、少年のお父さんが絶妙の突っ込みキャラクターになっています。もともと「なにゆうとんじゃ!」といった表情をしているのですが、妄想がエスカレートする少年に対し最後にがつんと一言、

あほか、おまえは。
あの音は、ただの風の音じゃ。
そんな しょうもないこと ごちゃごちゃゆわんと、
はよねえ!

と言って電気を消します。次のぺージで少年は暗い顔をして「かおるちゃん……」。このお父さんの突っ込みがあるのとないのでは大違いじゃないかなと思います。この突っ込みがあるからこそ、少年のどうしようもない煩悶がくっきりと浮かび上がってきます。

 絵は鮮やかな色彩はまったくなく、あたかもモノクロ映画のようです。じっさい「トリゴラス」が少年の分身であることを同じ構図の絵で暗示したり、映画のような画面構成もおもしろいです。たとえば「トリゴラス」がまちを破壊するシーンは映画『ゴジラ』の第一作を彷彿させますし、「かおるちゃん」をさらっていくところは『キングコング』です。

 とくに電気を消す画面では、見開き2ページで寝室を描くかたちになっているのですが、左のページにはお父さんが電気に手をのばすシーンが描かれ、右のページには電気が消え暗くなったなかじっと闇を凝視している少年の姿が描かれています。このページのつくりは、電気を消すという時間の流れとお父さんと少年の対比を印象深く表していて、とてもおもしろいと思いました。

 あと、この絵本のもっとも不思議なところが表紙です。写真に彩色したかのようになっていて、映画ポスター『トリゴラス』の看板が小さく空き地に立っています。映画のポスター風なのはおもしろいのですが、中身とギャップがあって、この表紙は何を意味しているんだろうと思いました。あるいは少年の妄想のどうしようもなさ・いかんともしがたさを表しているのかしれませんね。

 この絵本、改版が2003年10月に同じく文教出版から刊行されているようです。「改版」とのこと、もしかして絵や文章が変わっているのでしょうか。機会があったらぜひ見てみたいと思います。

▼長谷川集平『トリゴラス』文教出版、1978年

五味太郎『ヘリコプターたち』

 長くひとりぼっちだった緑のヘリコプターがピンクのヘリコプターと出会い、いっしょに旅を続け、そして新しい生命が生まれる、というストーリー。

 この絵本、なによりも色の使い方がとても印象的です。緑とピンクのヘリコプター以外、背景の白をのぞくとほとんど黒や茶色のくすんだ色しか使われていません。ヘリコプターたちが上空を飛んでいく森も海も村も、何もかもが暗くどんよりと描かれ、荒涼とした景色が続きます。森の植物(のように見えるもの)には生命の気配がまったく感じられませんし、人間も含めて動物は一つも登場しません。

 だからと言うべきか、緑とピンクのヘリコプターたちには、それが機械であるにもかかわらず、深く命を感じます。見開き2ページの広い紙面のなかでつねに小さく描かれているヘリコプター、人間のように多くの表情があるわけではないのですが、でも、よくみると微妙な表情や身振りを示しています。病気のときには羽がひしゃげているし、子どもたちの生まれる前のピンクのヘリコプターは少しだけおなかがふくらんでいます。

 そして、子どもたちが生まれる場面、この場面だけ、ずっと白か黒だった背景が朝焼けに黄色く染まります。新しい生命の誕生を祝福するかのような彩色です。

 もう一つ、この絵本では、文章の言葉の選び方と並べ方が特徴的。たとえば、こんな感じ。

ヘリコプターが飛んでいる――飛びつづけている――もう だいぶながいこと――ひとりぼっち

ようやく――めぐりあい――たわいなく――めぐりあわせ

輝く朝の光の中――生まれた――稚い――無数の

 一つの文として完結させるのではなく、言葉のかたまりを横線(――)をはさんでつなげるかたちになっています。しかも、改行はいっさいなく、見開き2ページの紙面のなかほどに横一線に言葉が並びます。これは、飛びつづけるヘリコプターたちの移動と一定の間隔で回り続ける羽根の音と、そして一途さを表しているかのようです。

 最後のページには、次のように書かれています。

おや――あのヘリコプターたち――あれから 何処へ行ったのだろう。

 ここに、はじめて句点(。)が打たれています。出会っていっしょに旅をして新しい生命をはぐくむ、その一連のいとなみを一続きのものとしてこの文が表現しているように思います。

 そしてまた、ここに句点が打たれていること、「あのヘリコプターたちはあれから何処へ行ったのだろう」と記されていること、最後のページには子どものヘリコプターが一台(?)だけ描かれていること、これらから受ける印象は、緑とピンクのヘリコプターたちがもういなくなってしまったんじゃないかということです。この理解、間違っているかもしれません。でも、一つの生命のいとなみがあり、それが次の生命へと引き継がれて終わる、そんな読後感を持ちました。

 奥付の説明によると、この絵本ははじめ1981年にリブロポートで出版されたそうです。その後、1997年になって現在の偕成社からあらためて刊行されたとのことでした。実はこの偕成社版は、もともとのリブロポート版を10%縮小しているそうです。リブロポート版の大きさで読むと、また印象が変わるかもしれませんね。

▼五味太郎『ヘリコプターたち』偕成社、1997年

キャロル・オーティス・ハースト/ジェイムズ・スティーブンソン『あたまにつまった石ころが』

 この絵本は、文を担当しているハーストさんのお父さんを描いたノンフィクションです。

切手にコイン、人形やジュースのびんのふた。
みなさんも集めたこと、ありませんか?
わたしの父は子どものころ、石を集めていました。
[中略]
まわりの人たちはいったそうです。
「あいつは、ポケットにもあたまのなかにも
石ころがつまっているのさ」
たしかにそうなのかもしれません。

 「大人になったら何になりたい?」と聞かれて「何か石と関係のあることだったらいいなあ」と言っていたハーストさんのお父さん、結局、ガソリン・スタンドをはじめます。当時はちょうどアメリカが自動車社会に突入した時代で、T型フォードが大人気。そこで、T型フォードの部品を集め修理をはじめると、これが大繁盛。

 ところが、1929年の大恐慌が起こり、ガソリン・スタンドも店をたたみます。いっしょうけんめい仕事を探し、どんな仕事でも引き受けたそうです。仕事が見つからないときは、科学博物館に出かけ、石の標本の部屋ですごします。この間もずっと、ハーストさんのお父さんは石を集め続けていました。

 そんなある日、科学博物館の館長グレース・ジョンソンさんに出会います。

「なにか、おさがしのものでも?」
「自分のもっているのより、いい石をさがしてるんです」
「どのくらい見つかりました?」
「10個です」
女の人は、部屋じゅうのガラスケースのなかにある、
何百個という石を見回していいました。
「たったの10個なの?」
「えーと、11個かもしれません」
父はそういって、にっこりしました。
女の人もわらいました。

 そうして、ハーストさんのお父さんは、科学博物館で夜の管理人の仕事につき、その後、ジョンソンさんの推薦で博物館の鉱物学部長になるまでが、この絵本で描かれています。

 この絵本でなによりも魅力的なのは、ハーストさんのお父さんの人柄です。「石ころじゃあ、金にならん」とか「あの石ころが何の役に立つの」とか言われても、「うん、そうかもしれない」とひょうひょうと受け流し、まったく意に介せず自分の大好きな石集めを続けます。ジョンソンさんに鉱物学部長に推挙されるときも、こんな具合です。

「わたしはね、こういったのよ。
ここに必要なのは、あたまのなかとポケットが
石でいっぱいの人だって。
あなたみたいにね」
「ああ、わたしならそうかもしれません」
父は、ポケットからひとつ、石をとりだしていいました。
「ところで、ほら、ちょっと見てください。
いい石を見つけたんですよ」

 ハーストさんのお父さんにとって、自分が鉱物学部長になることより、いい石を見つけたことの方が大事なのかもしれません。自分が本当に心底楽しいと思っていることを続け、そしてそれが他の人たちにも認められていく、そんな幸せな人生がここに描かれていると思います。

 絵はとても素朴で、ハーストさんのお父さんの人生をへんに思い入れもなく、たんたんと描写しています。それはまた、ハーストさんのお父さんの人柄そのものを映し出しているかのようです。

 また、ページのあちこちに、ハーストさんのお父さんが集めていたいろんな石のイラストが散りばめられています。名前が記されているものもあります。白雲母やガーネット、ほたる石、石英、方解石……。

 ほかにも、T型フォードの集めた部品やチェスの駒、石をみがく歯ブラシなど、日常の細々としたもの、でもハーストさんのお父さんの思いが表れているもののイラストも置かれていました。これもまた、小さくても自分が大切にしていることをずっと続けていくというこの絵本のモチーフと密接に結びついているように感じます。

 ハーストさんのあとがきによると、お父さんは、博物館の鉱物学部長になったあと働きながら大学に通い、その後、ジョンソンさんが退職したあとにスプリングフィールド科学博物館の館長に就任したのだそうです。

 そんなお父さんをハーストさんは次のように書いています。

父が情熱をかたむけたのは、石や鉱物だけではありませんでした。「学ぶ」ということそのものをこよなく愛し、尊重していたのです。

 まわりから何と言われても、一つのことに情熱をかたむけ学び続け、そしてそれが自分の仕事にもなる。こうした生き方は、大人にとっても一つの理想かもしれません。

▼キャロル・オーティス・ハースト 文/ジェイムズ・スティーブンソン 絵/千葉茂樹 訳『あたまにつまった石ころが』光村教育図書、2002年

長 新太『ゴムあたまポンたろう』

 「ゴムあたま」に「ポンたろう」?、この絵本、タイトルに引かれて手に取りました。表紙には、気を付けの姿勢をした丸坊主の男の子が横になって宙に浮いています。

 ページをめくると、冒頭からいきなりナンセンス・ワールドに突入。

とおくの ほうから おとこのこが とんできました。
あたまが ゴムで できている
「ゴムあたまポンたろう」です。
やまに ポン! と ぶつかると、
ボールのように とんでいきます。

 「どこから来たの?」「どうして飛んでるの?」「なぜ頭がゴムなの?」、読んでいる方のアタマのなかもゴムみたいにぐにゃぐにゃになってきます。もうこの不思議な世界に身をゆだねるしかありません。

 この「ポンたろう」、ずっと直立不動で無表情、気を付けの姿勢のまま、グングン飛んでいき、おかしなものにどんどん当たります。大男の頭に生えた野球のバットとかお化けのお父さんの頭、木々にはバレーボールのボールにされ、ハリネズミにはサッカーのボールにされます。ゴムのあたまはどんなものに当たっても痛くないんだそうです。

 おかしいのは、全体を通じてとってもナンセンスなのに、妙に論理的なところ。たとえば、花はやわらかいから当たっても飛んでいくことができないとか、アタマの当たるいいところを探していたりとか、針に刺さると飛んでいけなくなるとか、言われてみればたしかに筋が通っていて、それがおかしい。

 絵は、全編にわたってオレンジやピンクのカラフルな蛍光色が使われ、桃源郷のようなあやしい雰囲気をかもしだしています。そういえば、古いお寺のはるか上空を「ポンたろう」が飛んでゆく場面もありました。

 一見したところ無表情にみえる「ポンたろう」ですが、微妙に表情があるのがまたおもしろい。たとえばバラの花が咲いているところでは、目を閉じてバラの香りを楽しんでいるようだし、バラの棘やハリネズミの針が出てくるとまゆを少しだけしかめています。

 最後に「ポンたろう」はゴムの木に抱かれて眠ります。遊び疲れた子どもが気持ちよく寝ている、そんな感じで、やさしい気持ちになります。

▼長 新太『ゴムあたまポンたろう』童心社、1998年