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五味太郎『きみは しっている』

 岩陰に隠した肉を取られてしまったコンドル君、いったい誰が盗んだんだろうと犯人を捜す物語。

 この絵本、かなり凝っています。一つは読者参加型であること。地の文の多くはコンドル君の語りなのですが、読者に話しかける調子になっており、それが面白い効果を生んでいます。読み聞かせをしていて、コンドル君になりきる感じで楽しいです。

 絵も、コンドル君が読者の方を真正面から向いているページがあったり、読者(子ども)の反応を前提にして作られているページがあったりして、ユニーク。絵本としては珍しい表現かもしれません。

 で、読者は、コンドル君の肉を見張っていたという設定になっています。だから、タイトルの通り「きみは しっている」というわけなのですが、ここがとても重要なポイントです。

 これ以上はネタバレになるので書けません。ぜひ、読んでみてください。あっ!と驚くこと請け合いです。うちの子どもも大受けでした。いや、面白い絵本です。

▼五味太郎『きみは しっている』岩崎書店、1979年、[印刷所:光陽印刷株式会社、製本所:小高製本工業株式会社]

五味太郎さんデザインの廣榮堂「元祖きびだんご」

 先日、岡山に出張したですが、岡山駅でおみやげを探していて見つけたのが廣榮堂の「元祖きびだんご」。店員さんの話では、岡山で数ある「きびだんご」のなかでも廣榮堂のが一番とのこと。買って帰って家族みんなで食べました。けっこうおいしかったです。それはともかく、注目はパッケージ。なんと五味太郎さんオリジナルのパッケージデザインなんですね。

 廣榮堂のウェブサイトはこちら。安政3年(1856年)創業とのこと。「元祖きびだんご」のページを見ると、いろんな種類があります。そのすべてが五味さんオリジナルのパッケージ。「桃太郎」の登場人物をモチーフにして、それ以外のキャラクターも加えられています。

 箱のなかに入っている説明書きのしおりや、一つ一つのきびだんごの包み紙にも、五味さんのイラストをあしらったオリジナルのデザイン。昔話の自由で楽しい雰囲気が出ていて、「きびたんご」という商品によく合っていると思います。

 ウェブサイトでは五味太郎さんと廣榮堂代表取締役の武田さんの対談も載っていました。五味太郎さんに依頼した経緯なども触れられています。

 五味太郎さんのお話でなるほどなと思った点が2つ。1つは子どものまわりにあるものこそデザインをよく考えないといけないということ。この点で日本はかなり遅れていていい加減であることが指摘されています。一例として通信簿のデザインが挙げられていました。うーむ、これはたしかにそうですね。子どもにとって、あたかも自分のすべてを数値化してしまうような、とんでもなく乱暴なもの。そのデザインをほんのちょっとでも神経を使って丁寧に作れば、違った世界が開けるんじゃないかということ。

 もう1つは、おとぎ話の同時代性を図るということ。五味さんのデザインでは「桃太郎」のもともとのキャラクター以外も取り入れられているのですが、その理由が説明されています。おとぎ話はそもそも語り継がれるものであり、したがって、そこでは常に新しい要素がミックスされ、いつも同時代であり続ける。逆に言えば、おとぎ話を「名作」として固定化した時点で、それはもはや「おとぎ話」ではなくなっており、その本来のポテンシャルを喪失してしまうということかなと思いました。読み継がれる、語り継がれる、というのは、すでに出来上がったものをそのまま受け継ぐことではなく、常に同時代においてアレンジし再生していくこと。

 なんと、廣榮堂にはこのパッケージに対してファンレターが届いているそうです。すごいですね。

五味太郎『がいこつさん』

 主人公はタイトルの通り「がいこつさん」。どうもよく眠れません。

───はて なんだか 気になることがある……
───なにか 忘れているような気がする……

 というわけで、「がいこつさん」は何を忘れているのか思い出そうと、散歩に出かけます。いろいろ歩き回ってもなかなか思い出せなかったのですが、ふとデパートのトイレットに入ると「あっ 思い出したぞ!」。というわけで、ようやく「がいこつさん」は眠ることができたというストーリー。

 この絵本、そのまんま骨の「がいこつさん」がまちなかを歩きまわる、しかも何か忘れていて思い出せないという、とてもシュールな設定です。ふつうのまちなかのふつうの人間たちのなかに「がいこつさん」がたたずんでいて、思い出せなくて困ったような顔をしている(もちろんじっさいには表情はありませんが)、そんな絵の描写もおもしろいです。「がいこつ」とはいっても、こわいことはなく、むしろ、ひょうひょうとしていて顔つきもユーモラス。思い出して家に帰る場面では、なんとなくすっきりとして楽しそうです。

 深読みしてみると、この「がいこつさん」はもうすでに亡くなっていて、でも世間に未練があり、それを思い出そうとしているのかなあとも思えてきます。たとえば「がいこつさん」を「待っていた人もいたけど、それはもうずっと昔の話」なんて書かれています。で、ようやく思い出して、すっきりと永遠の眠りにつくことができたというわけです。忘れていたことがそんなに大したことではなくて安心ですが、話の展開によってはとてもこわいストーリーになっていたかも。

 うちの子どもが教えてくれたのですが、そもそも、まちなかをてくてく歩く「がいこつさん」に誰も気がつきません。唯一、ソーセージ屋さんだけが話しかけています。うーん、やっぱり、幽霊なんでしょうか。

 それはともかく、思い出せそうで思い出せないのは、隔靴掻痒というか、落ち着かない気分ですよね。私もだんだん年齢を重ねるにつれ、そんなことが増えました(笑)。この絵本ではその様子を、それが「がいこつさん」であることと絡めてとてもユーモラスに描いています。たとえばこんな感じ。

───病院に 予約してあったかな。
まさか。がいこつさんに 病気するところ どこもない。
───それもそうだな。

───はて おなかがすいているの 忘れていたかな。
まさか。がいこつさん おなかもないくせに。

 引用からも分かりますが、絵に付けられている文章は、客観的な描写のところもあるのですが、多くは「がいこつさん」と誰かが会話をするというかたちになっています。会話をしているわけですから純粋に物語の外の語り手ではないし、でも客観的な描写もあるので完全に物語のなかの登場人物でもない。物語の内と外との境界にあって、読んでいる私たちを誘っている、そんな微妙な立ち位置も興味深いです。

 うちの子どもによると、この絵本のおもしろいのは思い出そうと考えているところだそうです。また、トイレットの二つ並んだドアの取っ手が目みたいで「がいこつさん」をぎろっと見ているとのこと。私はぜんぜん気がつかなかったのですが、言われてみればその通り。子どもは見るところが違うなあと思いました。

 それはそうと、「がいこつさん」は結局、何を忘れていたのでしょうか? 実はヒントがこの絵本の表紙・裏表紙の見返しに隠されているのですが、とりあえずここでは秘密にします(笑)。ぜひ読んでみて下さい。

▼五味太郎『がいこつさん』文化出版局、1982年

五味太郎さんのウェブサイト

 昨日の記事、『ヘリコプターたち』の作者、五味太郎さんのウェブサイト gomitaro.com です。このウェブサイトは五味太郎さんご自身が運営されていて、あの特徴的な色合いとイラストがサイトを飾っています。サイトの中身も充実しています。

 まず五味太郎さんの全書籍リスト。これは、五十音別、出版社別、年代別に整理されており、使いやすいと思います。何百冊もののリストは圧巻の一言。でも、古いものほど絶版が多いようで、少し悲しくなります。

 それから、書籍以外にも CD-ROM やビデオやカードゲームも制作されていて、そのリストもありました。なんと、お皿(大皿と小皿セット)やシルクスクリーンによる額装画(限定品)もあって、これも購入できるようです。

 あと、「おまけ」として『らくがき絵本 五味太郎50%』(ブロンズ新社)という本の2ページ分が PDF ファイルでダウンロードできるようになっています。プリントアウトして遊べます。

 五味太郎さんからの近況コメント(ちょっとひとこと)も掲載されていました。パリでワークショップをされるとのこと、おもしろそうです。ただ、このコメントは最新のものだけで過去の分のバックナンバーは見つかりませんでした。以前のコメントも見てみたいなと思いました。

五味太郎『ヘリコプターたち』

 長くひとりぼっちだった緑のヘリコプターがピンクのヘリコプターと出会い、いっしょに旅を続け、そして新しい生命が生まれる、というストーリー。

 この絵本、なによりも色の使い方がとても印象的です。緑とピンクのヘリコプター以外、背景の白をのぞくとほとんど黒や茶色のくすんだ色しか使われていません。ヘリコプターたちが上空を飛んでいく森も海も村も、何もかもが暗くどんよりと描かれ、荒涼とした景色が続きます。森の植物(のように見えるもの)には生命の気配がまったく感じられませんし、人間も含めて動物は一つも登場しません。

 だからと言うべきか、緑とピンクのヘリコプターたちには、それが機械であるにもかかわらず、深く命を感じます。見開き2ページの広い紙面のなかでつねに小さく描かれているヘリコプター、人間のように多くの表情があるわけではないのですが、でも、よくみると微妙な表情や身振りを示しています。病気のときには羽がひしゃげているし、子どもたちの生まれる前のピンクのヘリコプターは少しだけおなかがふくらんでいます。

 そして、子どもたちが生まれる場面、この場面だけ、ずっと白か黒だった背景が朝焼けに黄色く染まります。新しい生命の誕生を祝福するかのような彩色です。

 もう一つ、この絵本では、文章の言葉の選び方と並べ方が特徴的。たとえば、こんな感じ。

ヘリコプターが飛んでいる――飛びつづけている――もう だいぶながいこと――ひとりぼっち

ようやく――めぐりあい――たわいなく――めぐりあわせ

輝く朝の光の中――生まれた――稚い――無数の

 一つの文として完結させるのではなく、言葉のかたまりを横線(――)をはさんでつなげるかたちになっています。しかも、改行はいっさいなく、見開き2ページの紙面のなかほどに横一線に言葉が並びます。これは、飛びつづけるヘリコプターたちの移動と一定の間隔で回り続ける羽根の音と、そして一途さを表しているかのようです。

 最後のページには、次のように書かれています。

おや――あのヘリコプターたち――あれから 何処へ行ったのだろう。

 ここに、はじめて句点(。)が打たれています。出会っていっしょに旅をして新しい生命をはぐくむ、その一連のいとなみを一続きのものとしてこの文が表現しているように思います。

 そしてまた、ここに句点が打たれていること、「あのヘリコプターたちはあれから何処へ行ったのだろう」と記されていること、最後のページには子どものヘリコプターが一台(?)だけ描かれていること、これらから受ける印象は、緑とピンクのヘリコプターたちがもういなくなってしまったんじゃないかということです。この理解、間違っているかもしれません。でも、一つの生命のいとなみがあり、それが次の生命へと引き継がれて終わる、そんな読後感を持ちました。

 奥付の説明によると、この絵本ははじめ1981年にリブロポートで出版されたそうです。その後、1997年になって現在の偕成社からあらためて刊行されたとのことでした。実はこの偕成社版は、もともとのリブロポート版を10%縮小しているそうです。リブロポート版の大きさで読むと、また印象が変わるかもしれませんね。

▼五味太郎『ヘリコプターたち』偕成社、1997年