「絵本を読む」カテゴリーアーカイブ

武田英子/清水耕蔵『八方にらみねこ』

 まずは、裏表紙と一つになった表紙の絵が目を引きます。目をぎりっと見開き、口をぐっと一文字に結び、両手足をしっかりと踏みしめたねこ、まわりはメラメラと赤黒く燃え上がる炎、そして、白く筆で書いたように荒々しい「八方にらみねこ」のタイトル。

 この表紙からもうかがえますが、物語は日本の昔ばなしのスタイルをとっています。「じいさ」と「ばあさ」に拾われた子ねこの「みけ」。「じいさ」と「ばあさ」はおかいこを飼っているのですが、ねずみに食い荒らされてたいへん困っていました。そこで、「みけ」は、ねずみからおかいこを守ろうとするのですが、まったく歯が立ちません。

「ねこだと いうのに、こんな ことでは
なさけない。ねずみどもが こわがっていた
やまねこさまに、 にらみの じゅつというのを
おそわろう。」

 こうして、「みけ」は「やまねこさま」のもとで厳しい「にらみの しゅぎょう」に入ります。

 この絵本は、絵もまた純和風。とくに修行の場面の描き方はたいへんな迫力です。「やまねこさま」が登場するところでは、まるで歌舞伎の隈取りをしたような顔だけが黒い画面に浮かびます。そして、ごうごう燃えさかる炎のなか、「みけ」の顔つきがだんだんと引き締まっていく様子が、黒と赤を基調にして強烈に描きだされています。

 それから、この絵本では遠景の使い方も印象的。

 たとえば最初の場面、子ねこの「みけ」が登場するところ。雪の降る山里の景色が2ページいっぱいに広がり、その右下に本当に小さく、とぼとぼと歩く子ねこの姿が描かれています。子ねこの真上の木の枝には赤い葉が一枚だけ残っており、それが、モノクロのような画面のなかで目を引きます。

 あるいは、「みけ」が「やまねこさま」に「にらみの術」を教わろうと山に分け入っていくところ。ここでも、2ページいっぱいに暗く深い山々が黒々と描写され、「みけ」は左ページの上の方にごく小さく描かれています。それは「みけ」の無力さを表していて、と同時に、それでも前を向いて山を登っていく姿に「みけ」の強い決意が伝わってきます。

 もう一つ新鮮に感じたのは、「みけ」の修行が終わって「ばあさ」と「じいさ」のもとに帰るときの場面転換です。

 修行の場面は黒と赤、そして「みけ」が「にらみの術」を身につけたシーンでは、左ページのはしから光が差し込むように描かれています。ページをめくって「みけ」がうちに戻るシーンになると、黄色や緑やピンクを使い、春の山々があたたかく明るく鮮やかに描写されています。読み聞かせをしていて、この色の移り変わりには、ほっとため息が出ます。

 文を担当された武田英子さんのあとがき(「この物語について」)には、養蚕が日本人の生活や社会を支えてきたことにふれ、次のように書かれていました。

美しい絹の糸を吐くおかいこが元気に育ってくれるようにと、人々は、日夜見守り、心身をつかい、とりわけ主婦の働きは大きいものでした。
[中略]
今日では、いろいろな化学繊維が開発され、この物語のじいさやばあさが経験したような養蚕の苦労は、だんだん忘れられていくようです。だからこそ、そのことを伝えたくて、清水耕蔵さんの絵に託して、この絵本を心をこめてつくりました。

 たしかに、この絵本、絵のすばらしさはもちろんですが、養蚕という人びとの営みを伝えていることも大事ですね。絵本をもっぱら教育のためのものとは思いませんが、でも、絵本を通じて人びとのさまざまな営みや世界について知ることができるなら、それは、子どもにとって(また大人にとっても)有意義と思います。

 ただちょっと考えてしまうのは、読み聞かせをしている大人自身の生活体験が貧弱かもということです。たとえば、うちの子どもも「じいさ」と「ばあさ」が働いている場面を見ながら「おかいこさまって何?」と聞いてくるのですが、私自身、養蚕のことを実地に知っているわけではありません。子どもに話せることは、どうしても頼りないものになってしまいます。

 そんなに難しく考えなくてもよいのかもしれません。でも、この絵本の読み聞かせをしながら、これでいいのかなあ、なんて少し気になりました。

▼武田英子 文/清水耕蔵 絵『八方にらみねこ』講談社、1981年(新装版:2003年)

イブ・スパング・オルセン『つきのぼうや』

 この絵本のおもしろさは、なんといっても絵本のかたち。タテ35cmにヨコ13cmという、ちょっと他にない縦長です。本棚に入れるのも一苦労。でも、この縦長の紙面がストーリーと密接に結びついて非常に効果的に使われています。いったん読み終えると、むしろ、タテにながーい造本が自然に思えてくるほどです。

 池に映った自分の姿が気になるお月さま、ある晩、月の坊やを呼び出します。

ちょいと ひとっぱしり
したへ おりていって、
あの つきを つれてきてくれないか。
ともだちに なりたいのだ。

 お月さまは、自分の姿が映っていることが分からず、もう一つ別の月が地上にいるんだと思っているわけです。月の坊やもまた素直にお月さまの頼みをきき、かごをさげて元気よく地上に向かって駆け下りていきます。

 ここで、この絵本の縦長のつくりが生きてきます。高い高い空の上から地上に向かってどんどん下りてゆく様子が、縦長の紙面を使って描かれます。一つのページに複数のエピソードが上から下へと順番におかれていて、そのエピソードのたびに月の坊やもまた2回も3回も登場するのです。上から下への移動が縦長の紙面にそのまま表現され、読み聞かせをしていると、月の坊やといっしょに地上へ下りてゆくような気持ちになれます。

 また、空から地上に駆け下りるとはいっても、一本調子なものではなく、かごを上に持ってふんわり飛んだり、風にふかれて横に飛んだり、仰向けだったりうつぶせだったり、おもしろく描かれています。

 下りていく間に月の坊やは、お月さまのように、まあるいものにたくさん出会うのですが、どれもお月さまとはちょっと違います。最後は、まちの通りをすぎて水のなかに飛び込み、さらに下りていきます。そして海の底で見つけたのが手鏡。この手鏡をかごに入れて、月の坊やはもときた道を帰っていき、お月さまのところに戻ります。奥付のページには、手鏡に映った自分に話しかけるお月さまの姿が描かれています。

 ちょっとナルシシズムな結末ですが、お月さまだからよいのかもしれませんね。

 あと、「月の坊や」とはいっても、見た目は人間の子どもとまったく変わらずに描かれているのもおもしろいところです。

 原書の刊行は1962年。デンマークの絵本です。

▼イブ・スパング・オルセン/やまのうち きよこ 訳『つきのぼうや』福音館書店、1975年

バージニア・リー・バートン『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』

 バージニア・リー・バートンさんの絵本といえば、アメリカ絵本の定番の一つと思います。うちの子どもも大好きです。この『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』はもともと1943年に刊行されたそうですが、まったく古さを感じさせない、おもしろさです。

 「じぇおぽりす」という町の道路管理部で働いているトラクターの「けいてぃー」。ある冬の日、大雪に埋もれた「じぇおぽりす」ではなにもかもがマヒしてしまいます。

だれもかれも、なにもかも、じっとして
いなければなりませんでした。
けれども、そのとき ただひとり……
けいてぃーは うごいていました

 「けいてぃー」は「ちゃっ!ちゃっ!ちゃっ!」と、どんどん雪をかきのけていきます。警察も郵便も電気も水道も病院も消防も飛行場も、雪で困っている人たちみんなを助け、「わたしに ついていらっしゃい」と言って、道をつけていきます。大通りも横町も雪をすっかりかきのけます。

 みんなのためにやるべき仕事を着実にやり抜く「けいてぃー」。たとえば次のように書かれています。

けいてぃーは、はたらくのが すきでした。
むずかしい ちからのある しごとが、
あれば あるほど、けいてぃーは
よろこびました。

 また、飛行場の雪をかきのけるときには、

けいてぃーは、もう、すこし くたびれていました。
けれども しごとを とちゅうで やめたりなんか、
けっしてしません……
やめるものですか。

 こうしたかっこよさには、大人でも、ちょっとあこがれますね。絵本の裏表紙には、雪をかきのけて働く「けいてぃー」の後ろ姿が描かれていて、これも、なかなかよい感じです。

 ところで、この絵本にはストーリーやテーマ以上に楽しい仕掛けがいっぱいあり、そこがまた魅力です。

 最初の数ページでは、ページのまんなかを四角に囲い、「けいてぃー」がいろんなアタッチメントをつけられることが描かれています。そのまわりには働くクルマのたくさんのイラストが付いていて、楽しめます。

 また、「じょえぽりす」全体の地図(建物のイラストつき!)もあり、「けいてぃー」が雪をかきわけていく道をそのつど指でなぞったりもできます。各ページには東西南北の方位も書かれています。終わりの方のページには、「けいてぃー」の大活躍ですっかり雪がかきのけられた「じぇおぽりす」の全体が描かれています。地図と比べてみたりすることもできます。

 そして、「けいてぃー」が雪をかきのけて道をつけていくときの描き方も、注目です。

 まず、雪がどんどん積もっていくことを文章で説明したところ。ここでは、ページのはじをぐるっと四角にとりかこむように何本もの電柱を置き、その電柱がどんどん雪にうずもれていく様子を順々に描くことで、時間の流れを表しています。これも、おもしろい表現です。

 次に、雪の「じぇおぽりす」に「けいてぃー」が最初に現れるシーンでは、2ページを丸ごと使った白い画面の左のはじに割と小さめに「けいてぃー」が描かれています。この大きな白い空間が大雪のすごさを物語っていて、と同時に、この白い画面を左から右へ、上から下へ、また斜めにジグザグに「けいてぃー」が通っていくことでその後に道がどんどん出来ていき、町がよみがえっていきます。「けいてぃー」の通ったあとに家々や建物が並んでいくかのようで、その煙突からは煙が上がり、人びとが雪かきをはじめ、いろんな働くクルマが動き出すのです。この画面の使い方はとても印象的です。

 あと、この本では、とびらの次のページに献辞のようなものがあるのですが、よく見ると、バートンさんの他の絵本の主人公たち(たとえば『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』や『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』)が描かれていました。これも、おもしろいですね。

▼バージニア・リー・バートン/いしい ももこ 訳『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』福音館書店、1978年(新版)

スズキコージ『やまのディスコ』

 「しろうまの みねこさん」と「やぎの さんきちくん」は、新しくオープンした山のディスコに出かけます。みんなで楽しく踊っていると、「ライオンの よしおくん」が蜂に刺されてしまい、そのせいで「ライオンの よしおくんの おとうさん」がクワを振り回して駆け込んできて、ディスコはめちゃくちゃに、といったストーリー。

 この絵本のおもしろいところは、まず登場人物のキャラクターです。

 たとえば「このあたりの やまでは いちばんの おしゃれ」「みねこさん」の登場シーン。体重計にのったまま腰に手を当て、前髪にカーラーを巻いて大きな櫛でお手入れしています。真っ赤なミニスカートのワンピースに、これまた真っ赤なハイヒール、なんだかバブル期の「いけいけのお姉さん」を思い出します。

 みんなディスコははじめてなので、バンドが演奏をはじめても突っ立っていると、「みねこさんは エィッと かけごえを かけて、いちばんに」踊り出します。この踊りがまた、吹っ切れています。

 「さんきちくん」も、おしゃれにきめた帽子のファッションに黒のサングラスをかけ、「みねこさん」を後ろに乗せてオートバイをとばします。ディスコで二人があみ出すのが「うぎやまおどり」。うーん、どんな踊りなんだろう?

 「ライオンの よしおくんの おとうさん」もすさまじい暴れっぷりでど迫力だし、ディスコがめちゃくちゃになってもすぐ次の商売のことを考える「くまのたいしょう」もおかしい。激しく踊り狂う他の動物たちもおもしろいです。

 他にも笑えるディテールがいろいろ。このディスコの入場料は「くりのみ 10こ」で、自慢はなんとハチの巣のミラーボール。しかも、まだハチが住んでいるのです。当然、ミラーボールが回り出すと、ディスコのなかをハチが飛び回ります。みんなは腰をかがめて踊るのですが、そのうち「くまのたいしょう」が網をかぶって出てきて、

「みなさーん、あと、くりのみ 5こを はらえば、
はちよけの あみを かして あげましょう、
さあ、さあ、はりきって まいりましょう」

 うーん、なんて商売にがめついんだ。しかも、みんな網をかぶって踊り続けるのです。バンドマンも手に網をつけてギターやベースを演奏し続けます。いやー、すごすぎ。

 絵は、いうまでもなく、どこを切ってもスズキコージ印。派手でどぎつく、実ににぎやかな色彩です。たとえば裏表紙、なんの変哲もない森の描き方一つとっても、色の選び方、木々の輪郭の付け方、木々の並べ方など、あやしい雰囲気がただよってきます。あと、描かれている動物たちの多くは、目がまん丸になっていて、これも一種、異様な感じを増しています。嫌いな人はとことん嫌いかもしれませんが、あやしさとユーモアが結びついていて、私はとても好きです。

 それから、もう一つ注目されるのが、文に使われているフォント。これがまた、手書き風のあやしい感じのフォントなんですね。正確には分かりませんが、このフォント、スズキコージさんの絵本でしか見かけないような気がします。スズキコージさん御用達のフォントなのかもしれません。

▼スズキコージ『やまのディスコ』架空社、1989年

むらまつたみこ『みなみのしまのプトゥ』

 舞台はバリ島、主人公のプトゥは生まれて10ヶ月の男の子、赤ちゃんです。表紙では、南国の木々の下、プトゥがプルメリアの花を手に持ち笑顔で振り返っています。そんなプトゥの一日を描いたのがこの絵本です。

 この絵本では、いまの日本ではほとんどありえない子育ての姿が描写されています。三世代同居どころか複数の家族が同居、夫婦共働きで日中はおばあちゃんとおじいちゃん、さらには近所の子どもたちまでが赤ちゃんのめんどうをみています。互いに子育てし合う社会、地域のなかに子育てがしっかりと根付いている、そんな印象を受けます。

 そのあたりのことは、巻末の「作者からのひとこと」でも触れられていました。作者のむらまつさんは、4年間、バリ島で生活したそうです。少し長いですが、引用します。

島で生活していて、ちょっとややこしい事が、ひとつありました。それは、どの子がどの親の子なのか、ときどきわからなくなることです。島では、他人の子も自分の子も、区別があまりありません。私がお世話になったいくつかの民家でも、いつもいっしょに食事をしたり、テレビを見たりしていたのは、実はとなりの子どもだった―――なんてことは、めずらしくありませんでした。これが赤ちゃんの場合、昼は、手から手へとわたされて、夜になると、しぜんに親元にもどっているのです。なんともふしぎなことでした。

 プトゥもまた、おかあさん、おじいちゃん、いとこのワヤンとカデ、隣に住んでいるコマンちゃん、といったふうに手から手へと渡されていきます。こんなおおらかな子育て環境は、いまの日本ではまず成立しませんね。

 それから、もう一つ、この絵本でなにより気になった(?)のが、食べ物の描写です。バリ島でふつうに食べられているものが幾つか登場するのですが、どれも、とてもおいしそうです。

 最初の場面に登場するのは、屋台で売られる朝ご飯のおかゆ。遠景で描かれているので、どんなおかゆなのかはまったく分かりませんが、屋台が朝ご飯を売っているところにそそられます。

 それから、プトゥのおじいちゃんが飲んでいる「コピ」。これは「みなみのしまのコーヒー」とのことですが、ガラスの容器に入れられています。砂糖をたくさん入れて飲むようです。

 そして、プトゥのおばあちゃんが作る「ジャジャン・ウリ」。これは、もち米とヤシの実と赤砂糖で作るおかしだそうです。その作り方も2ページにわたって説明があります。油で揚げるところからすると、甘い味のせんべいみたいなものかなと思いますが、どうでしょう。

 最後に、学校が終わったあとに子どもたちが屋台で買っている「あつあつのにくだんごいりスープ」。屋台には「BAKSO NYLA」と表記されていますが(意味は分かりません)、これ、とてもおいしそうです。暑い南国の食べ物だから少し辛い味付けでしょうか。

 絵は版画に水彩で彩色したものかなと思っていたら、切り絵だそうです。アリス館新刊情報に説明がありました。顔の眉毛と鼻の描き方が特徴的。全体を通じてあたたかみのある色彩で、南の島のおおらかな日常がよく伝わってきます。

 最後のページ、おかあさんにだっこされて小さな寝息をたてはじめたプトゥを、みんなが実にやさしい笑顔で見守っています。飼いイヌまでニコニコ。「トッケー、トッケー。チ、チ、チ、チ、チ。」というやもりの鳴き声が聞こえてきます。幸せな情景です。

 この絵本は、むらまつさんの第一作目の絵本とのこと。ぜひ第二作目の絵本も読んでみたいと思いました。

 と、ここまで書いていったん投稿したあとでGoogle で検索してみたら、なんと、むらまつさんのインタビュー須玉オープンミュージアムに掲載されていました。このウェブサイトは、特定非営利活動法人 文化資源活用協会が運営しており、「山梨県須玉町の歴史や文化、自然や環境に関する情報をデータベース化し、インターネット上につくられた電子博物館」だそうです。なかなかおもしろい取り組みですね。

 で、むらまつさんは須玉町在住とのことで、インタビューになったそうです。テキストデータはないようですが、Windows Media Player か Quick Time Player で6分くらいのインタビューを視聴できます。バリ島では、赤ちゃんは朝から晩までずっと誰かがだっこしていて「宙に浮いている」そうです。

▼むらまつたみこ『みなみのしまのプトゥ』アリス館、2003年

いとうひろし『ルラルさんのにわ』

 いとうひろしさんのルラルさんシリーズの一作目。ルラルさんシリーズは、うちの子どももとても好きです。

 主人公のルラルさんは、芝生の庭をとても大切にしていて、動物たちが入ろうとすると、パチンコで追い払ってしまいます。誰も庭に入れません。ところが、ある朝、ワニが庭に入り込みます。かみつかれると恐いので様子を見ていると、ワニいわく、

「なあ、おっちゃん。ここに ねそべってみなよ。
きもちいいぜ。しばふが おなかを ちくちくするのが
たまらないよ。」

 試しに寝そべってみると、その気持ちよさにうっとり。自分が大事にしていながら見失っていたものに気が付いたルラルさん、それからは動物たちを追い払ったりせず、みんなでいっしょに芝生に寝そべるようになります。

 このおおらかなストーリーに加えておもしろいと思ったのは色の使い方です。たぶん水彩と色鉛筆だと思うのですが、使われる色が限定されています。たとえば緑色でも、芝生の緑と木々の緑と山の緑がすべて同じ色になっており、動物たちについても、鳥も犬も猫もワニもオレンジと黄色で描かれています。しかも、基本的にベタで均質な色合いです。どのページにも同じ色が同じように現れ、その結果、全体を通じて紙面に安定感があり、と同時にページをめくるごとに色のリズムも生まれているように感じます。

 使用する色が限定される絵本というと、ディック・ブルーナさんのミッフィーシリーズが有名ですが、それほどではないにしても、この絵本もまた意図的に色を限っているのかなと思います。

 あと、主人公のルラルさんがユニーク。客観的にみると、丸底メガネ(ワニを丸太と間違えるほど目が悪い)にはげ頭でちょび髭、一人暮らしで中年のあやしい「おっちゃん」です。でも、とてもユーモラスで(たぶん)おしゃれなおじさんです。

 ワニとルラルさんが気持ちよさそうに芝生に寝そべっている様子、また、終わりのページでルラルさんとたくさんの動物たちが芝生にゆったりと寝そべっている様子をみていると、自分も芝生にごろんと横になりたいなあとついつい思ってしまいます。のーんびりした気持ちになれる絵本です。

▼いとうひろし『ルラルさんのにわ』ポプラ社、2001年

にしかわおさむ『おとうさんとさんぽ』

 子どもとの散歩、私は大好きです。子どもと手をつないてゆっくり散歩していると、いろんな「発見」があります。子どもが日ごろ感じていることや考えていることをあらためて聞いたり、いつもは足早に通り過ぎるだけの道も新鮮に感じます。そういえば子どもの手が大きくなったなあ(でもまだ小さいなあ)なんてことも、一つの「発見」です。あるいはまた、まだ通ったことのない道を歩いていくのも、子どもにとっては「冒険」で、自分にとっても楽しいです。

 そんな発見と冒険の「さんぽ」を描いたのが、この絵本です。

「とてもいい てんきだね。
もりへ さんぽに いってみよう」

という「おとうさん」の誘いに「ぼく」はキャラメルを持って散歩に出かけます。

「おとうさん、ぼくと さんぽ たのしい?」
「たのしいよ、きょうは もりの むこうまで いってみよう」

 二人で手をつないで森を歩いていくと、犬やスカンクや熊が通せんぼしていて、それを「おとうさん」と「ぼく」とで工夫して解決していきます。森を抜けると、そこは海。二人でお昼寝です。

 この絵本のおもしろい点は、「おとうさん」と「ぼく」との関係の描写です。

 たとえば大きな犬が通せんぼするところでは、「ぼく」は恐くて「おとうさん」のうしろに隠れてズボンにつかまっています。で、「おとうさん」の機転でそこを抜けると、こんな会話。

「おとうさん、いぬ こわくなかった?」
「ううん、ちっとも」
「ぼくも!」

 お父さんといっしょで安心していて、でも強がる子どもの気持ちがよく表れているように思います。

 それから、熊が大きなホットケーキを焼いて「食べていかないと、この道、通っちゃだめ!」と通せんぼする場面(ここでも「ぼく」は「おとうさん」のズボンをぎゅっとつかんでいます)では、「おとうさん」は自分が食べるつもりで困っていて、「ぼく」がホットケーキが大好きということを知らないのです。自分の子どもの大好物を実は知らないなんてところも、現役のお父さんは実感できるんじゃないかなと思います。

 絵は、色鉛筆やクレヨンなどを使い、それもあまり多くを描き込むのではなく、軽いタッチで白味の多い紙面になっています。それがまた、楽しい散歩の雰囲気をよく伝えていると思います。「おとうさん」のりっぱなおひげもユーモラス。

 奥付のページには、眠った「ぼく」を「おとうさん」がおんぶして帰っていく様子が背後からモノクロで描かれています。楽しかった散歩の余韻にひたって「おとうさん」におんぶされる「ぼく」とそれを背中に感じてゆっくり歩く「おとうさん」。そして、それは、この絵本の表紙の絵にそのままつながっています。この紙面のつくりもおもしろいと思います。

▼にしかわおさむ『おとうさんとさんぽ』教育画劇、1989年

ユリー・シュルヴィッツ『よあけ』

 山すその湖に訪れる夜明け。繊細な水彩画のタッチに読み聞かせの声も静かになる、そんな絵本です。

 この絵本の魅力はなによりも、夜明けに至る色と光の美しさです。深く静かな夜の様子、うっすらと夜が明けて風景が少しずつ色づいていく様子が、ゆっくりと描かれていきます。くろぐろとした山々、月に青く照らされた湖面、それらが夜明けが近づきだんだんと色を変えていく。その色と光の変化の静謐さ。

 また、紙面構成も工夫されていると思います。夜明けの移り変わりは、四角いページの真ん中に丸く描き出されます。まわりの紙面は白いまま。そして、ついに湖に朝の光が差しこみ「やまとみずうみがみどりになった」ところだけ、2ページすべての紙面を丸ごと使って描写されます。しかも、その数ページ前から、(たとえば映画でカメラが引いていくかのように)湖のほとりにいるおじいさんと孫や湖の上のボートからだんだんと視点を引いていき、山々と湖が一気に緑に染まる様子を広く遠く見せるのです。この紙面構成と色彩の効果にはため息が出ます。

 夜明けの風景のなかに登場する人間は、おじいさんとその孫の2人だけ。父と子じゃなくて、祖父と孫。この取り合わせがまたよい感じです。少し距離があるけどだから逆に居心地のいい関係かなと思います。その2人が湖のほとりの木の下で夜をすごし、夜明けを前にボートでこぎ出していく。2人の会話はとくになくて、おじいさんは静かな笑みを浮かべています。

 そして、もう一つの魅力が訳文の美しさ。たとえば、

つきが いわにてり、
ときに このはをきらめかす。
やまが くろぐろと しずもる。
うごくものがない。

おーるのおと、しぶき、
みおをひいて……
そのとき
やまとみずうみが みどりになった。

 作者紹介によると、ユリー・シュルヴィッツさんは東洋の文芸・美術に造詣が深く、この絵本のモチーフは唐の詩人柳宗元の詩「漁翁」から取られたのだそうです。この訳文は、
「漁翁」の詩も念頭におきながら作られたんじゃないかなと思います。

 原書の刊行は1974年。

▼ユリー・シュルヴィッツ/瀬田貞二 訳『よあけ』福音館書店、1977年

槇ひろし/前川欣三『くいしんぼうのあおむしくん』

 「あおむし」で「くいしんぼう」というと、エリック=カールさんの『はらぺこあおむし』という非常に有名な絵本が思い浮かびます。この槇さんと前川さんの絵本は、『はらぺこあおむし』とはまったく性格が違う、でも間違いなく傑作です。

 ただ、この絵本、おそらく好き嫌いが分かれると思います。一般の絵本のイメージを打ち破った「ブラック」で寓話的なストーリー、黙示録的と言っていいような展開。これまでに私が読んだ絵本のなかで、もっとも印象が強烈だった一冊です。

 主人公の「まさおくん」は、帽子を食べている「そらと おなじいろをした へんなむし」を見つけます。

「わかったぞ。おまえは ぼうしを たべる わるい むしだろう」
「ごめんね。 ぼく……くいしんぼうの あおむしなの」

 この「あおむしくん」は、心底くいしんぼうで、なんでも食べてどんどん大きくなっていきます。しかも、いくら食べても、すぐにおなかがすいてしまいます。町じゅうのゴミを食べても満足できず、はては「まさおくん」の住んでいた町のすべて、パパもママも友達も、建物も緑も、文字通りなにもかも食べてしまいます。

「あのねえ、ぼくが みんな たべちゃったの」
「えっ! ぱぱや ままは どこ?」
「あのう……やっぱり ぼくが たべちゃった。
でも まさおくんだけは たべたなかったよ。
だって ぼくたち ともだちだもんね」
「なんだって! ばか ばか ひどいよう!」
[中略]
「ごめんね、ごめんね。
まさおくんが そんなに かなしむなんて
ぼく しらなかったの」

 旅に出た「あおむしくん」と「まさおくん」ですが、「あおむしくん」は、おなかがすくと本当にダメで、通った町のすべてを食べてしまいます。どんどん食べるからずんずん大きくなり、ずんずん大きくなるからどんどん食べ、あっちの国からこっちの国まで残らず食べてしまいます。そして、

もう なんにも ありません

 夕日に照らされた何にもない大地が地平線まで広がります。雲よりも高く巨大になった「あおむしくん」と豆粒のように小さな「まさおくん」だけがこの地上に残されてしまいます。

 そして、衝撃のラスト。驚天動地とはまさにこのことで、あまりのすごさに腰が抜けそうになります。これは、ぜひ、読んでみて下さい。裏表紙の「あおむしくん」にも注目。さらなる展開が待っています。

 ストーリーは「すごい!」の一言ですが、絵は、むしろユーモラス。何でも食べてしまうとはいっても、おそろしいシーンは全くありません。本当に親しみのある絵で、「あおむしくん」もとてもかわいく描かれています。

 そのかわいい「あおむしくん」がなさけない顔をして「ごめんね、ごめんね」と言いながら、すべてを食べ尽くしてしまう……。うーん、やっぱり、こわいかな。

 とはいえ、これほど強い印象を与える絵本もそうありません。ちょっと大げさですが、ある意味、絵本の表現の可能性を広げていると思います。

 この絵本は、最初、福音館書店の月刊絵本誌『こどものとも』に1975年に掲載されたそうですが、25年後の2000年に「こどものとも傑作集」としてはじめて単行本化されました。25年をへてはじめて単行本になるなんて、実はこの絵本、けっこうファンが多いのかなと思います。

▼槇ひろし 作/前川欣三 画『くいしんぼうのあおむしくん』福音館書店、2000年

荒井良二『はっぴいさん』

 当たり前ですが、絵本は、絵と文からできています。だから、文の何をどこまで絵にするかが、けっこう大事なんじゃないかと思います。逆に、文には書いてないことも絵によって伝えることができます。絵がメッセージになって、文の意味内容が変わってきたり、深まったりもすると思います。

 そんなことをあらためて考えたのが、この荒井良二さんの『はっぴいさん』を読んだときでした。

 困ったことや願い事をきいてくれるという「はっぴいさん」は、山の上の大きな石の上にときどき来るそうです。そこで、朝早くから「ぼく」と「わたし」の2人は、「はっぴいさん」に会いにそれぞれ別々に山を登っていきます。2人の願いというのは、「ぼくは、のろのろじゃなくなりたい」「わたしは、あわてなくなりたい」という小さな、でも本人にとっては切実な願いです。

はっぴいさん はっぴいさん
どうぞ ぼく/わたしの ねがいを きいてください
はっぴいさん!

 2人は、山のてっぺんで大きな石の上の端と端に座り、それぞれ「はっぴいさん」がやってくるのを待つのですが、待っても待っても「はっぴいさん」は来ません。そのうち、2人はそれぞれの願い事を打ち明けます。そして、「のろのろなのは何でも丁寧だからだよ」「あわてるのは何でもいっしょうけんめいだからだよ」とお互いに話すのです。

はっぴいさんは きませんでしたが
たいようを みているうちに ふたりは
なんだか はっぴいさんに あえたように おもいました

 この絵本で「すごい」と思ったのは、そのストーリーだけではありません。手文字の文のなかには何も書かれていませんし、荒井さんの絵はとても淡くカラフルなのですが、その背景の絵が強いメッセージを伝えています。

 「ぼく」と「わたし」が山登りに出発するまちは、破壊され荒廃している様子が描かれています。また、山の上で2人は「おおきな たいように むかって たくさん ねがいを 」言うのですが、その山のふもとでは戦車が何台も通り、家々は壊され、電柱は折れ曲がり、人びとが右往左往している様子が、大きな大きな黄色い太陽にてらされた遠い小さな風景として描かれています。そして、表紙と裏表紙の見返しには、荒涼とした景色が乱暴な鉛筆書きで広がっています。

 「ぼく」と「わたし」が「たくさん」願ったことが何だったのか、文章には何も書かれていません。でも、荒井さんの絵をみていると、「ぼくらのねがい」が何よりもはっきりと分かるような気がします。

 そして、それはまた、「はっぴいさん」が来なかった理由や、それでも2人が「はっぴいさん」に会えたように思ったことの意味を、もう一度あらためて考えさせるようにも思います。

 この絵本が刊行されたのが2003年の9月ということも、一つの意味をもっていると思います。

 絵だけではないし、文だけでもない。絵と文がいっしょになって、新しいメッセージを伝える。それが、この絵本の魅力と思います。

▼荒井良二『はっぴいさん』偕成社、2003年