まずは、裏表紙と一つになった表紙の絵が目を引きます。目をぎりっと見開き、口をぐっと一文字に結び、両手足をしっかりと踏みしめたねこ、まわりはメラメラと赤黒く燃え上がる炎、そして、白く筆で書いたように荒々しい「八方にらみねこ」のタイトル。
この表紙からもうかがえますが、物語は日本の昔ばなしのスタイルをとっています。「じいさ」と「ばあさ」に拾われた子ねこの「みけ」。「じいさ」と「ばあさ」はおかいこを飼っているのですが、ねずみに食い荒らされてたいへん困っていました。そこで、「みけ」は、ねずみからおかいこを守ろうとするのですが、まったく歯が立ちません。
「ねこだと いうのに、こんな ことでは
なさけない。ねずみどもが こわがっていた
やまねこさまに、 にらみの じゅつというのを
おそわろう。」
こうして、「みけ」は「やまねこさま」のもとで厳しい「にらみの しゅぎょう」に入ります。
この絵本は、絵もまた純和風。とくに修行の場面の描き方はたいへんな迫力です。「やまねこさま」が登場するところでは、まるで歌舞伎の隈取りをしたような顔だけが黒い画面に浮かびます。そして、ごうごう燃えさかる炎のなか、「みけ」の顔つきがだんだんと引き締まっていく様子が、黒と赤を基調にして強烈に描きだされています。
それから、この絵本では遠景の使い方も印象的。
たとえば最初の場面、子ねこの「みけ」が登場するところ。雪の降る山里の景色が2ページいっぱいに広がり、その右下に本当に小さく、とぼとぼと歩く子ねこの姿が描かれています。子ねこの真上の木の枝には赤い葉が一枚だけ残っており、それが、モノクロのような画面のなかで目を引きます。
あるいは、「みけ」が「やまねこさま」に「にらみの術」を教わろうと山に分け入っていくところ。ここでも、2ページいっぱいに暗く深い山々が黒々と描写され、「みけ」は左ページの上の方にごく小さく描かれています。それは「みけ」の無力さを表していて、と同時に、それでも前を向いて山を登っていく姿に「みけ」の強い決意が伝わってきます。
もう一つ新鮮に感じたのは、「みけ」の修行が終わって「ばあさ」と「じいさ」のもとに帰るときの場面転換です。
修行の場面は黒と赤、そして「みけ」が「にらみの術」を身につけたシーンでは、左ページのはしから光が差し込むように描かれています。ページをめくって「みけ」がうちに戻るシーンになると、黄色や緑やピンクを使い、春の山々があたたかく明るく鮮やかに描写されています。読み聞かせをしていて、この色の移り変わりには、ほっとため息が出ます。
文を担当された武田英子さんのあとがき(「この物語について」)には、養蚕が日本人の生活や社会を支えてきたことにふれ、次のように書かれていました。
美しい絹の糸を吐くおかいこが元気に育ってくれるようにと、人々は、日夜見守り、心身をつかい、とりわけ主婦の働きは大きいものでした。
[中略]
今日では、いろいろな化学繊維が開発され、この物語のじいさやばあさが経験したような養蚕の苦労は、だんだん忘れられていくようです。だからこそ、そのことを伝えたくて、清水耕蔵さんの絵に託して、この絵本を心をこめてつくりました。
たしかに、この絵本、絵のすばらしさはもちろんですが、養蚕という人びとの営みを伝えていることも大事ですね。絵本をもっぱら教育のためのものとは思いませんが、でも、絵本を通じて人びとのさまざまな営みや世界について知ることができるなら、それは、子どもにとって(また大人にとっても)有意義と思います。
ただちょっと考えてしまうのは、読み聞かせをしている大人自身の生活体験が貧弱かもということです。たとえば、うちの子どもも「じいさ」と「ばあさ」が働いている場面を見ながら「おかいこさまって何?」と聞いてくるのですが、私自身、養蚕のことを実地に知っているわけではありません。子どもに話せることは、どうしても頼りないものになってしまいます。
そんなに難しく考えなくてもよいのかもしれません。でも、この絵本の読み聞かせをしながら、これでいいのかなあ、なんて少し気になりました。
▼武田英子 文/清水耕蔵 絵『八方にらみねこ』講談社、1981年(新装版:2003年)