「絵本を読む」カテゴリーアーカイブ

平田昌広/井上洋介『かあちゃんのせんたくキック』

 テレビとか家電製品が調子悪くなると、ついつい、バシッとたたいてしまいますよね。テレビならまだしも、フリーズしたパソコンまで「このやろう!」ってたたくことがあります。もちろん、それで直ったことは一度もありませんが……(当たり前!)

 この絵本は、壊れた家電製品をどついて直す「かあちゃん」のお話。洗濯機にテレビに冷蔵庫、壊れた家電製品は「かあちゃん」が技を入れれば元通りに動き出します。

うちの かあちゃんは
どんな おんぼろでも
きあい いっぱつで なおす。

 暴力的と言えなくもありませんが、全体を通じて明るく楽しい雰囲気の絵本です。

 まずおもしろいのは、この「かあちゃん」が見るからに強そうなところ。腕も足も太くて、がっちりと筋肉がついています。これなら、壊れた家電製品がキック一発で直るのも納得できます(笑)。

 「かあちゃん」の繰り出す技がまたすごい。「せんたくキック」「テレビチョップ」「れいぞうこパンチ」「ウルトラじどうはんばいキック」といった感じで、笑えます。

 なかでも、うちの子どもに一番受けていたのが「やぁードライヤヤヤヤー!」。うちの子ども曰く「そのままだねえ」。たぶん、念を込めているのでしょう(笑)。

 キックやチョップのかまえも堂に入っていて、目にも気合いがみなぎっています。宙返りまでしているのもすごい。バシッと技が入ると星(★)が飛び出るのも楽しい描写です。「やややややややー!」と技を繰り出す画面は、なんとく昔のマンガ『北斗の拳』を思い出しました。

 そんな「かあちゃん」を「ぼく」は頼もしげに楽しそうに見ていて、絵の描写からは「かあちゃん」が大好きという様子がよく伝わってきます。

 それから、絵に付けられた文章も魅力的です。簡潔な文をリズムよく重ねていて、しかもユーモラス。「かあちゃん」が技をきめる文では、読み聞かせにも気合いが入りました。

 あと、最後のシーンもなかなか粋です。いろんなものを直して「かあちゃん」と「ぼく」が家に帰ると、「とうちゃん」がおんぼろ洗濯機のように「がぁーがががが」といびきをかいて寝ています。

まずい……
かあちゃんの キックが とびでるぞ。
ぼくは どきどきして
かあちゃんを みた。

 このあとどうなるか、これはぜひ読んでみて下さい。とてもアットホームなラストシーンです。

 ところで、カバーには、文を担当している平田昌広さんの案内文が記されていました。少し引用します。

 子どものころ、家電製品は新しい機能をもって次から次へと現われていました。とはいえ各家庭で次から次へと買い替えるなんてことができるわけもなく、洗濯機がガタガタいっていれば、テレビがザーザー映らなければ、頼もしい母ちゃんがバシッとたたく。と、なぜだか調子がよくなって、まったく不思議なものでした。子どもごころからいえば、それはもちろん新しいテレビが欲しかったりするのですが、母ちゃんのまねをして、たたいたり、ゆすったり、それはそれで楽しい思い出です。

 この絵本、ある意味、家電製品のみならず、いろんなことがシンプルで分かりやすい時代を描いているのかもしれませんね(とはいえこの絵本に出てくる洗濯機は全自動みたいですが)。よく壊れるけれども簡単に直る……人びとも家族もいまよりはずっとおおらかな時代だったのかなと思います。

 そして、家電製品の複雑さが増すとともに、社会も人間も見通しにくくなったような……キックやチョップの一発で何かが調子よくなることはもはやありえません。まあもちろん、時代の移り変わりはそんなに単純じゃないでしょうが、この絵本のおおらかな描写を見ていると、なんとなくそんな気がしてきます。

▼平田昌広 文/井上洋介 絵『かあちゃんのせんたくキック』文化出版局、2003年

長 新太『みみずのオッサン』

 この絵本、最近読んだ絵本のなかで一番好きです。奇妙奇天烈なナンセンスが爆発していて、すごい!の一言。

 「みみずのオッサン」が散歩していると、空からペンキが落ちてきました。ペンキと絵の具とクレヨンの工場が爆発して、なにもかもベタベタになり動かなくなってしまいます。「みみずのオッサン」は、そのペンキと絵の具とクレヨンをどんどん食べていき、そして地上は「みみずのオッサン」のおしりから出てくる「きれいなどろ」に覆われていきます。

 よく考えてみると、このストーリー、実に破滅的です。地球上のあらゆる文明と生命がペンキと絵の具とクレヨンで「ベタベタ」「ドロドロ」「ヌルヌル」「ベトベト」に塗り込められてしまうのです。しかも、その塗り固められたペンキと絵の具とクレヨンを「みみずのオッサン」が全部食べてしまい、なにもかもが「きれいなどろ」のうんちになってしまう。本当にすごい! これほど破壊的なイメージもそうないでしょう。

 おもしろいのが、爆発したペンキにつぶされてしまう「おかあさん」と「おとうさん」の一言。

「キャーッ、たすけてー、でも
きれいないろねえ」

「キューッ、くるしいー、ほんとに
きれいだねえ」

 ペンキでドロドロ、ベタベタにつぶされてしまう二人が「きれいだねえ」とうっとりと語っている……きれいな色に塗り込められて実は幸せなんじゃないかと思えてきます。

 また、「みみずのオッサン」がペンキと絵の具とクレヨンをどんどん食べていく画面は迫力です。見開き2ページで6ページにわたって続きます。あらゆるものを内に飲み込んだペンキと絵の具とクレヨン、これをすべて食べるのが、なにせ「みみず」なのです。「もぐもぐ」「むぐむぐ」「ムシャムシャ」という絵に添えられた手書き文字も、だんだんと大きくなっています。

 そしてこの絵本でもっとも美しい画面が、「みみずのオッサン」のうんち、「きれいなどろ」によって地面がすべて覆われたことを表しているところ。見開き2ページ、画面下から上に7割くらいが蛍光オレンジの一色に塗られ、その「きれいなどろ」の地平線の上には薄青い空が広がっています。

 画面に付けられた「どこまでも どこまでも、」という文と合わせて、なんとなく地上9,000メートルくらいまで「きれいなどろ」で覆われたような印象を受けます。つまり、エヴェレストの頂上の上まで「きれいなどろ」が堆積して、地球上のすべてが埋まってしまったというわけです。

 大げさかもしれませんが、この画面は神々しいというか、なんとなく畏怖すら感じました。

 こうして、なにもかもが消え去った大地は、もう一度、やり直しです。

やがて みどりのだいちになり、
ずうっと むかしにもどってしまった。

 つまり、すべてがリセットされてしまったわけで、これも衝撃的。

 これは考えすぎかもしれませんが、このストーリー、ある意味で長新太さんの願望を表しているのかなと思いました。この社会のすべて、人間の文明のすべてをペンキと絵の具とクレヨンで「ベタベタ」「ドロドロ」「ヌルヌル」「ベトベト」に塗り込んでしまう。そして、すべてを太古に戻してしまう。その方が実は人間たち自身にとっても幸せなんじゃないか、ということです。

 工場からペンキと絵の具とクレヨンが「ドーン」「ドーン」と爆発して飛び出る様子は、長新太さんのそんなラディカルな心の動きを表しているかのように思えました。

 絵は、全体にわたってオレンジやピンクや黄色の蛍光色がガンガンに使われており、非常にカラフルでエネルギッシュ。

 また、絵に付いている文はすべて長さんの手書き。背や表紙、扉のタイトルなども手書きです。この手書き文字がまた、筆跡が微妙にゆれていて、独特の味わいがあります。

 私は長新太さんの絵本に詳しくありませんが、手書き文字になっているものはそんなに多くない気がします。長さんの他の絵本でも、印刷ではなく手書き文字にしたら、けっこう印象が変わるかもしれません。私は、印刷の文字よりも、長新太さんの手書き文字の方が好きです。

 あと、表紙・裏表紙の見返しも注目です。「みみずのオッサン」の背中(?)に帽子をかぶった人間が一人のっています。これって、もしかして長新太さん自身じゃないかと思うのですが、どうでしょう。こういうところからも、ある意味で「みみずのオッサン」は長さんの自画像で、この絵本は長さんの願い(?)を具現しているのではと思えてきます。

 以前読んだ長新太さんの『絵本画家の日記2』のなかにも、なんとなく今回の絵本に相通ずる記述があったような気がしました。

▼長 新太『みみずのオッサン』童心社、2003年

五味太郎『がいこつさん』

 主人公はタイトルの通り「がいこつさん」。どうもよく眠れません。

───はて なんだか 気になることがある……
───なにか 忘れているような気がする……

 というわけで、「がいこつさん」は何を忘れているのか思い出そうと、散歩に出かけます。いろいろ歩き回ってもなかなか思い出せなかったのですが、ふとデパートのトイレットに入ると「あっ 思い出したぞ!」。というわけで、ようやく「がいこつさん」は眠ることができたというストーリー。

 この絵本、そのまんま骨の「がいこつさん」がまちなかを歩きまわる、しかも何か忘れていて思い出せないという、とてもシュールな設定です。ふつうのまちなかのふつうの人間たちのなかに「がいこつさん」がたたずんでいて、思い出せなくて困ったような顔をしている(もちろんじっさいには表情はありませんが)、そんな絵の描写もおもしろいです。「がいこつ」とはいっても、こわいことはなく、むしろ、ひょうひょうとしていて顔つきもユーモラス。思い出して家に帰る場面では、なんとなくすっきりとして楽しそうです。

 深読みしてみると、この「がいこつさん」はもうすでに亡くなっていて、でも世間に未練があり、それを思い出そうとしているのかなあとも思えてきます。たとえば「がいこつさん」を「待っていた人もいたけど、それはもうずっと昔の話」なんて書かれています。で、ようやく思い出して、すっきりと永遠の眠りにつくことができたというわけです。忘れていたことがそんなに大したことではなくて安心ですが、話の展開によってはとてもこわいストーリーになっていたかも。

 うちの子どもが教えてくれたのですが、そもそも、まちなかをてくてく歩く「がいこつさん」に誰も気がつきません。唯一、ソーセージ屋さんだけが話しかけています。うーん、やっぱり、幽霊なんでしょうか。

 それはともかく、思い出せそうで思い出せないのは、隔靴掻痒というか、落ち着かない気分ですよね。私もだんだん年齢を重ねるにつれ、そんなことが増えました(笑)。この絵本ではその様子を、それが「がいこつさん」であることと絡めてとてもユーモラスに描いています。たとえばこんな感じ。

───病院に 予約してあったかな。
まさか。がいこつさんに 病気するところ どこもない。
───それもそうだな。

───はて おなかがすいているの 忘れていたかな。
まさか。がいこつさん おなかもないくせに。

 引用からも分かりますが、絵に付けられている文章は、客観的な描写のところもあるのですが、多くは「がいこつさん」と誰かが会話をするというかたちになっています。会話をしているわけですから純粋に物語の外の語り手ではないし、でも客観的な描写もあるので完全に物語のなかの登場人物でもない。物語の内と外との境界にあって、読んでいる私たちを誘っている、そんな微妙な立ち位置も興味深いです。

 うちの子どもによると、この絵本のおもしろいのは思い出そうと考えているところだそうです。また、トイレットの二つ並んだドアの取っ手が目みたいで「がいこつさん」をぎろっと見ているとのこと。私はぜんぜん気がつかなかったのですが、言われてみればその通り。子どもは見るところが違うなあと思いました。

 それはそうと、「がいこつさん」は結局、何を忘れていたのでしょうか? 実はヒントがこの絵本の表紙・裏表紙の見返しに隠されているのですが、とりあえずここでは秘密にします(笑)。ぜひ読んでみて下さい。

▼五味太郎『がいこつさん』文化出版局、1982年

タイガー立石『とらのゆめ』

 タイトルのとおり、眠っている「とらの とらきち」の夢を描いた絵本。

 表紙にはりっぱなトラがすくっと立っているのですが、よくみると宙に浮いています。また、後方には、一見したところ木々のようにみえて実はトラが2匹つかまっているだまし絵があります。

 このなんとも不思議な表紙をめくると、次から次へと奇妙な「夢の世界」が広がっていきます。なにせ夢をみているのは人間ならぬトラですから、私たちの想像の限界を軽々と飛び越えていきます。

 影が左右逆に映る池、身をまるめてだるまさんに変身したりくるくる回るひもから浮かび出る「とらきち」、地平線に突然あらわれる迷路、向かい合う切り立ったがけのあなからわいてくるたくさんのトラ、果物のようなかご(?)に入って眠るトラ……だまし絵も何カ所かあり、だんだんめまいがしてきます。このイメージの跳躍力が、なによりこの絵本の魅力と思います。

 たとえば「とらきち」が夢の世界に出てきたり、だるまさんに変身したり、まるまって果物のようになるところでは、その変化を順々に複数の絵で表しています。だんだんかたちが変わっていって、思いもよらぬものが浮かび上がってくる、そんな様子が鮮やかに描き出されています。しかも、夢ですから、これは時間の変化を表しているのではなく、実は異なる時間のものがいっしょに並んでいるかのようにも思えてきます。

 あるいは、終わりの方のページで「とらきち」がリンゴのかたちになるところでは、変身がぐるぐると永遠に続くかのようになっており、もしかして「とらきち」は覚めることのない夢のなかにいるのかなとも思いました。

 実はうちの子どもは最初、この絵本あんまりおもしろくないと言っていたのですが、何回か読むうちに「おもしろいよ、ぼくにとっては」なんて言い出すようになりました。

 だまし絵に気がついたり、あるいは迷路のところを指でなぞったり、だんだん楽しくなってきたようです。うちの子ども曰く、

夢の外の世界はどこにあるのかあ?

夢じゃなく、ほんとのことだったらいいのねえ。
だって、迷路、ちょっとおもしろいから。

だそうです(笑)。

 この絵本、全体を通じて、幻想的なものを割と写実的に描く点がなんとなくサルバドール・ダリを彷彿とさせます。巻末の作者紹介によると、タイガー立石さんはもともと現代美術の作家とのこと。少し引用します。

1963年第15回「読売アンデパンダン」展に大レリーフ作品「共同社会」を発表。1966年“三人の日本人”展(日本画廊・山下菊二、中村宏と)。69年にイタリアのミラノに移り、ヨーロッパ各地で個展を開く。82年帰国。江戸時代から平成までの日本の社会を動かした人びとを描いた連作のほか、新手法のセラミックによる表現を開発し、絵画と彫刻、陶芸を融合した立体作品も制作している。

 こうした芸術家としての活動に加えて、絵本もたくさん描かれているようです。そのうち、機会があったら他のもぜひ読んでみたいと思いました。

 ちなみに、この絵本は、1984年に月刊絵本誌『こどものとも』に掲載され、その後、1999年になって単行本化されたそうです。

▼タイガー立石『とらのゆめ』福音館書店、1999年

ドナルド・クリューズ/たむら りゅういち『はしれ!かもつたちのぎょうれつ』

 実はうちの子どもは電車が大好きで、言葉を多少しゃべりはじめるころにはもう日本全国の特急列車の名前を覚えているほどでした。電車図鑑の写真をみながら「サンダーバード」とか「スーパーあずさ」とか「スーパー北斗」とか「ソニック」とか……これは将来「てっちゃん」(鉄道マニア)になるかなと思ったのですが、そのうち興味関心はどんどん変わり、いまはそれほどでもないようです。

 そんなわけで、この絵本は、走る列車の姿を非常にシンプルに美しく描き出した列車絵本。

 登場するのは蒸気機関車にひかれた貨物列車。一つ一つの貨車は、赤、オレンジ、黄、緑、青、紫の一色に彩色され、そして先頭の石炭車と蒸気機関車は黒色です。走りはじめると、それぞれの貨車の色がうしろに流れるように描かれ、色と色が微妙にまざりあいます。トンネルをくぐり、まちをとおりすぎ、鉄橋をわたり、どんどん走っていく列車の姿が本当に美しい。

 線路や貨車や蒸気機関車はきわめてシンプルなフォルム。また、背景の多くは白い画面で、山々も省略して描かれ、まちなみや鉄橋はある種の幾何学模様のように表現されています。

 そんなふうに表現を削り落としているがゆえに、後方に流れてゆく色彩がこのうえなく美しく、走る蒸気機関車のスピードと疾走感が際立っているように思います。

 そして、この絵本、色彩の美しさは文字の色にも現れています。それぞれの画面に合わせて文字の色も多彩に変化しており、その点でも楽しめます。

 もう一つ、ページの組み立ても凝っているように思いました。最初のページは線路だけ、次に貨車を一つ一つ紹介し、そのうえで貨物列車の全体像を見せています。ここまでで絵本の半分が使われ、そして後半はひたすら疾走する姿。静と動の対比は、色彩の変化はもちろんのこと、ページのつくりにも現れていて、とても印象的です。

 また、最後のページもなかなか感動的。

とうとう ぎょうれつは
みえなくなっちゃった。

 この文の付いた絵では、列車の姿はすでになく、後方にたなびくけむりと線路だけが描かれています。スピードを上げた汽車が遠くにみえなくなっていく、そんな感じかなと思います。

 ところで、うちの子どもによると、貨物列車は消えたわけではないのだそうです。この絵本の表紙と裏表紙には貨物列車の全体が描かれているのですが、本文の最後のページでみえなくなった列車はそのまま裏表紙と表紙に現れ、そしてまた絵本のなかに入って走りはじめるのだそうです。つまり、列車はぐるぐるまわっているというわけです。なるほどねえ、ちょっと感心。

 実は表紙と裏表紙の見返しは白い画面のままなのですが、ここに線路が描いてあったら、うちの子どもの考えているとおりになるなあと思いました。

▼ドナルド・クリューズ/たむら りゅういち 文『はしれ!かもつたちのぎょうれつ』評論社、1980年

奥田継夫/関屋敏隆『はだかんぼうがふたり』

 さむーい冬の日、「一郎」くんと「おとうちゃん」と「おかあちゃん」は近くのお風呂屋さんに行きます。「一郎」くんは「おとうちゃん」といっしょに男湯。お風呂から上がると、外は雪。

「ゆきや おやじ!」
「さむいと おもた。」
「ええ おゆ やったな おとうちゃん。」

 この絵本、地の文章はすべて大阪弁の会話になっていて、なかなかユーモラス。うちの子どもが一番受けていたのは、次のセリフ。

「おやじの チンチン ちょっと おおきめ。」
「みるな ばか。」

 あと、「おとうちゃん」が湯舟のなかでおならをして、

プス プス プス プス プス プス

なんて書いてあるところでも大笑い。ちょっと下ネタ風ですが、でもお風呂屋さんですから、むしろ大らかで楽しくていいんじゃないかなと私は思います。

 「一郎」くんと「おかあちゃん」の次のやりとりも、なかなか味わいがあって、男の子のいるお母さんは実感できるんじゃないでしょうか。

「きょうは どっちへ はいるのん? おとこ? おんな?」
「きまってるやん。おとこ おとこ。」
「おかあちゃん だんだん いらんように なるみたい。」

 絵は主としてモノクロ。うすい色合いの紙か布(?)に刷ったような彩色で、親しみ深くなんだかなつかしさを感じます。表紙は、お風呂屋さんの煙突からもくもくと煙が出ている様子が描かれ、シンプルで印象的。表紙と裏表紙の見返しには、魚屋さんや酒屋さんが並んだ昔ながらの商店街が描かれていて、これもなつかしい雰囲気。

 お風呂屋さんですから、もちろん、子どもからお年寄りまでいろんな裸ん坊が描かれています。割と太い線で描かれ、どことなくユーモラス。そういえば、背中に入れ墨の入ったお兄さんとかも出てきていました。「一郎」くんが遊んで湯舟に潜ったりするところでは、水中のタイルの線を波立たせたりして、おもしろいです。

 湯舟の壁画は当然、富士山。「こんぴら ふねふね おいてに ほかけて しゅら しゅしゅしゅー」なんて歌声も書き込まれ、お風呂から上がったら二人でラムネを飲んでいたり、とても楽しい雰囲気。

 ちょっと不思議なのは、サブタイトル(?)にもなっている「おとなっていいなあ こどもっていいなあ」。本文では大阪弁で「こどもて ええなぁ。どこでも およげて。」「おとなて ええなぁ。けっこん できて。」と書かれているのですが、その次のページは見開き2ページを丸ごと使って、海で存分に泳いで魚をとる「おとうちゃん」さんや、「おとうちゃん」と「おかあちゃん」(?)が純和風の結婚衣装を着て並んでいる様子が描写されています。これが全体のリズムのアクセントになっています。

 たぶん文を担当された奥田さんの文章だと思うのですが、カバーに「風呂屋・考」と題された案内文がありました。少し引用します。

「ふろにいこう」というコトバが消えかかっている。自宅に風呂がつくことによって、風呂に行くのではなく、入いる。「ふろに入いろう」である。
[中略]
お風呂屋さんのいいところをあげれば、キリがない。大きい、広い、ゆったりしている、湯水をそれこそ湯水のごとく使える、人の話が聞ける、人の裸が見られる。それになにより湯あがりのからだに、風が吹くのがいい。

 これを読んで、たしかにお風呂さんのよさには「人の話が聞ける」「人の裸が見られる」ことがあるなあとあらためて思いました。同じ湯舟につかってなんとなく話する、そういったのんびりした付き合いはよいですよね。

 それに、別に変な話ではなく、「人の裸を見られる」のは実は子どもにとってかなり大事なんじゃないかと思います。子どもも大人もお年寄りも、やせた人も太った人も、いろんな人が真っ裸でいっしょにお風呂に入っている、みんなそれぞれ自分の体を持っている、当たり前ですがその厳然とした事実に接する機会は、お風呂屋さん以外ではあまりないでしょう。

 あと、奥田さんの文章によると、この絵本で描かれている湯舟はまわりに腰をかけるところがあり、それは大阪風なのだそうです。東京のお風呂屋さんには腰をかける縁がないとのこと。なるほどなあって感じです。

 ところで、この文章は1979年ごろに書かれたわけですから、もう20年以上たっています。いまでは、昔ながらのお風呂屋さんはほとんど消えかかっているかもしれませんね。私も大学生のころはたまに近くの銭湯に行っていましたが、卒業までにはその銭湯もいつのまにかなくなっていました。

 とはいえ、最近は、たとえば温泉を使ったり、いろいろアミューズメントの設備を整えた銭湯も増えてきているようですね。それは、昔からの銭湯とは違うでしょうが、でも、奥田さんの書かれているお風呂屋さんのよさをある意味で残している気がします。

 ともあれ、この絵本を読んでいると、子どもといっしょにお風呂屋さんや温泉に行きたくなってきます。そのうちまた、うちの子どもと温泉めぐりでもしようかな。

▼奥田継夫 文/関屋敏隆 絵『はだかんぼうがふたり』サンリード、1979年

にしむらあつこ『ゆうびんやさんのホネホネさん』

 「ホネホネさん」は、「ギコギコキーッ」と自転車に乗って動物たちに手紙を配達する郵便屋さん。動物たちはいろんなところに住んでいるので、木に登ったり、土のなかに入ったり、池に潜ったりします。

 この絵本では、動物たちに遠くの友達から夏休みのお誘いの手紙が届きます。たとえば「トリオくん」には「カモメちゃん」から「ぼうしじまに行きませんか」、「ニョロコさん」には「ワニオくん」から「ジャングルのおしゃれコンテストに出ようよ」といった具合です。

 そして夏休み。「ホネホネさん」には、いろんなところに出かけたみんなから手紙が届きます。そのなかには、ガールフレンドの「ホネコさん」からの手紙も。

ホネホネさんへ
こんどのおやすみに
じてんしゃの、のりかた
おしえてね。わたしも
ホネホネさんみたいに
ギコギコキーッて、のって
みたいな。
 ホネコより

 これが最後のページ。本を閉じると、裏表紙には「ホネホネさん」がガールフレンドの「ホネコさん」に自転車の乗り方を教えているところが描かれています。いつもの制服(?)とは違って、コウモリの絵柄のついたTシャツを着て、ちょっとおしゃれ(?)。

 この絵本で楽しいのは、まずは細部の描写。たとえば「ホネホネさん」は名前のとおりガイコツですが、とても親しげな顔(?)をしていてユーモラス。乗っている自転車の車輪のフォークは蜘蛛の巣みたいだし、サドルもガイコツのかたちになっていて、おもしろいです。

 他のキャラクターも、ミシンで洋服を作るヘビの「ニョロコさん」とか読書家の「ナマズさん」など、なかなか個性的。「ナマズさん」の本棚には、『いせき』『メキシコ』『インカ帝国』『ツタンカーメン』『アンデス』なんて本が並んでいて、どうも古代史ファンのようです。で、「ナマズさん」を招待する「アンコウさん」の本棚には、『レオ・レオーニ』『ドリトル先生』『ケストナー』『くまのプーさん』が並んでいて、こちらは絵本や児童書が好きなようです。

 夏休みに「ホネホネさん」に届くみんなの手紙も、「ナマズさん」のは俳句が書かれていたり、それぞれ独特のおもしろさ。

 また、最初のページには「ホネホネさん」の配達順路が地図のように描かれており、読み聞かせのとき指でなぞったりもできます。「ニョロコさん」が住んでいる「つちのなかアパート」も地面を輪切りにしたような感じで載っていて、うちの子どもは「どこがニョロコさんの部屋かなあ」と探して楽しんでいました。

 あと、この絵本、本文は一部を除いてすべて白と黒のモノクロで描かれています。とはいえ、表現が地味ということはまったくなく、楽しい雰囲気がよく伝わってきます。

 モノクロでない唯一のページは、夏休みになってみんなが出かけていく場面。モノクロではないとはいっても、青色の一色が加えられているだけ。でも、この青は、夏休みがはじまったことを象徴しているようで、なかなか印象的です。

 本の背は赤色、表紙・裏表紙は黄色、表紙のタイトルは青色と緑色と赤色、表紙・裏表紙の見返しは青色、とびらの前のページは黄色と青色といった具合に本文以外でも使われる色が限定され、しかもかなり目立ちます。本文と対比的で、こういう色彩のつくりもおもしろいです。

 この本はもともと1998年に福音館書店の月刊絵本誌『こどものとも 年中向き』に掲載され、それが「こどものとも傑作集」としてあらためて単行本化されたそうです。同誌には他にも『ゆきのひのホネホネさん』『はるかぜのホネホネさん』が掲載されているとのこと。こちらもぜひ単行本化してほしいなと思いました。

▼にしむらあつこ『ゆうびんやさんのホネホネさん』福音館書店、2003年

スズキコージ『きゅうりさん あぶないよ』

 てくてく歩いていく「きゅうりさん」、クマやシカ、ハリネズミにヤマネコにウシ、イヌにニワトリにカラスにヤギと、いろんな動物から声をかけられます。

きゅうりさん
そっちへいったら あぶないよ
ねずみがでるから

 ところが「きょうりさん」はぜんぜん気にしません。声をかけた動物たちからあれこれものをもらって、どんどん歩いていきます。クマからは帽子、シカからは角と手袋、ハリネズミからはベルトとハリ、ヤマネコからはリュックといった具合で、だんだんすごい格好になっていきます。

 そして、ついに「ねずみ」に出会うのですが、「あぶない」のは「ねずみ」の方なんですね。「きゅうりさん」に出会うと「ねずみ」は「あぶない!!」と大声を上げます。逃げる「ねずみ」を「きゅうりさん」が追いかけているところがラスト。

 この絵本、なんとも不思議なストーリーで、あれこれ謎があって、想像力が刺激されます。

 たとえば「きゅうりさん」は動物たちからいろんなものをもらうのですが、これは本当にもらったんだろうか、それとも奪ったんだろうか? というのも、もらうのは、モノだけでなく、シカの角とかハリネズミのハリとかヤギの髭もあるんです。実は「きゅうりさん」、あんなにやさしそうな顔をしていてとても乱暴だったりとか……

 また、一番の不思議は裏表紙。裏表紙には、大きな銅像の「きゅうりさん」を人びとが見上げている様子が描かれています。銅像の台座には「ORYPEU」と彫られているのですが、これは何語なんだろう? 意味は分かりません。本文には動物しか登場しないので、裏表紙にふつうの人間が出てくるのはちょっと謎です。

 そしてまた「きゅうりさん」が銅像になっているのもなんだか意味深です。もしかして「ねずみ」はとっても悪いやつで、それを「きゅうりさん」が退治したってことかなあと思いました。なんといってもこの「ねずみ」、白いスーツに毛皮を着込み、運転手付きのクルマにのっているみたいなのです。うーん、なんかワルっぽいような気がしてきます。

 そんなわけで、この絵本、同じセリフが繰り返され、文章の説明がまったくないのですが、そうだからこそ、いろいろ想像して楽しめます。

 絵は見開き2ページをいっぱいに使い、どぎつくど派手な色づかい。あやしい雰囲気に満ちています。最初は手足がひょろひょろでやせっぽちの「きゅうりさん」、少しずついろんなモノを身につけ、ページをめくるごとにどんどん姿を変えていくのが、おもしろいです。

 読み聞かせのときは、動物たちの同じセリフを、高い声や低い声、しゃがれ声やくぐもった声など、声音を変えて読んでみたら、うちの子どもは大喜びしていました。同じセリフの繰り返しでも、繰り返しそのものがリズムになっておもしろいし、いろいろ工夫できて楽しめます。

▼スズキコージ『きゅうりさん あぶないよ』福音館書店、1998年

木村裕一/あべ弘士『あらしのよるに』

 あらためて説明する必要もない超有名シリーズの第一作目。うちの子どもにはまだ難しいかなとも思ったのですが、図書館から借りて読み聞かせをしました。けっこうおもしろかったようです。

 荒れ狂う嵐の夜、ヤギとオオカミが小さな小屋でいっしょになります。暗闇でしかも2匹とも風邪をひいていて匂いが分からず、相手がオオカミ/ヤギであることに気が付きません。そのためもあって、(誤解しながら)なぜか話が合ってしまい、互いに意気投合します。

「なんか、わたしたちって、にてると、おもいません?」
「いよっ、じつは おいらも いま、きが あうなあ~って。」
「そうだ。どうです、こんど てんきの いいひに
おしょくじでも。」
「いいっすねえ。ひどい あらしで さいあくの
よるだと おもってたんすけど、
いい ともだちに であって、こいつは
さいこうの よるかも しんねえす。」

 というわけで、次の日のお昼に小屋の前で待ち合わせをすることにして2匹は別れます。合い言葉は「あらしの よるに」。

あくるひ、この おかの したで、なにが おこるのか。
このはの しずくを きらめかせ、ちょっぴりと かおを
だしてきた あさひにも、そんなこと、わかる はずも ない。

 これがラスト。読み聞かせが終わると、うちの子どもはとたんに「えーっ、続きは? 続きは? 続きはないの?」と聞いてきました。続きがあることを教えると「読みたい! 読みたい!」とせがんできました。うん、うん、私も読みたい。

 実は私もこのシリーズははじめて読むので、このあとどんなふうにストーリーが展開するのか、まったく知りません。というわけで、来週以降、子どもといっしょにシリーズの続編を順々に読んでいこうと思います。

 で、この第一作目についてですが、まず、読み聞かせのしがいのある絵本だなあと思いました。というのは、ヤギとオオカミでセリフの口調がはっきりと違うんですね。どちらかというとヤギはていねいな口調で、これに対し、オオカミは少しくずれた感じの口調になっています。だから、読み聞かせのときも、このセリフの表現の違いに合わせて、(ヤギは少し高い声でオオカミは逆に低い声にするとか)声音を工夫できます。子どもにとっても、内容上少しむずかしいところがあっても、口調と声音の違いは分かりやすいし、楽しめるのではないでしょうか。

 絵は黒を基調としており、暗闇での出会いを印象深く描写しています。モノクロページもありました。基本的にどのページも、見開きの右ページにヤギ、左ページにオオカミを配置し、まんなかに文章がおかれていて、この文章の部分がヤギの絵とオオカミの絵を分断しています。これは、ヤギとオオカミの楽しい(?)会話と、でも両者が本当のことを知らない様子をあざやかに表しているような気がします。

 また、ストーリーと密接に結びつき、絵もとてもスリリングな展開になっています。たとえば、最初の見開きページ、文章では嵐のなかヤギが小屋にたどりついたことだけが書かれているのですが、絵では左ページのはじにオオカミの姿がすで描かれています。ここのオオカミは暖色系の色になっており、その上空の雨もまた暖色系でちょっと見たところでは(文章にオオカミが出てこないこともあり)オオカミの存在には気が付かなかったりします。私も最初、見落としました。

 そして、オオカミが小屋に入ってくる場面では、最初はオオカミが使っている杖だけ、ページをめくるとオオカミの足と口、さらにめくった次のページでついにオオカミの顔が現れるようになっています。文章のなかでも、オオカミの顔が出てくるのと同時にオオカミという言葉がはじめて使われており、なかなかスリリングです。

 それから、先にふれた、見開き2ページでヤギとオオカミの絵が分断されていることですが、一つの絵のなかにヤギとオオカミがいっしょに描かれるのは4回だけかと思います。そのうちの3回は、オオカミの足がヤギの腰にあたったり、稲妻の光で小屋のなかが昼間のように明るくなったり、雷の音で2匹が体を寄せ合ったりと、互いの正体を知ってしまうかもしれない緊迫した場面です。4回目は、結局互いの正体を知らずに2匹が左右に別れていく場面です。

 この絵の構成は、ヤギとオオカミの間の気づきそうで気づかない会話の妙とともに、物語のスリルを高めていると思いました。

 ともあれ、この絵本、続きが本当に楽しみです。なるべく続編の情報をインプットしないで、できるだけ真っさらなまま子どもといっしょに読んでいこうと思います。

▼木村裕一 作/あべ弘士 絵『あらしのよるに』講談社、1994年

つちだのぶこ『カリカリのぼうしやさん』

 この絵本の主人公、「カリカリさん」はハリネズミの帽子屋さんです。お店の帽子はみんな手作りでとても人気があり、いつもお客さんがいっぱい。そんなある日の真夜中のこと、「カリカリさん」がふとんに入ってうとうとしていると、なんと三日月のお月さまが訪ねてきました。

「ふゆのよるは、とてもさむいの。
あったかいぼうしを つくってくれないかしら」
と、おつきさま。

 そこで、「カリカリさん」はお月さまのサイズを測り、帽子づくりに取りかかるのですが、三日月だったお月さまはどんどん太っていきます。いったん完成した帽子も小さくて合いません。困ってしまった「カリカリさん」は、お月さまが太ってもやせても大丈夫な帽子を考えます。

 この絵本、まずはディテールがとてもおもしろい。お店のなかには、いろんな形と色の帽子や手袋があり、毛糸やアクセサリーも売られているようです。なかには、「ムカデのくつした」(18個で1足!)なんてものまであって、なかなかにぎやかで楽しい雰囲気です。

 また、「カリカリさん」は頭のかたちがどんなお客さまでもぴったりの帽子を作ってくれるのですが、たとえばうさぎさんはその長い耳を石こう(?)で型どりしたり、トナカイさんには横になってもらって角のかたちを紙に写したりと、いろいろ工夫している様子がユーモラスに描かれています。じっさいどんな帽子が完成したのかは、うしろの方のページで見ることができます。

 それから、いろんな小物がたくさん描き込まれています。頭のかたちやサイズを記したノート、ベッド脇の机に置いてあるスケッチブック、壁には帽子のデザイン画が貼ってあります。いろんな色や模様の生地、たくさんの毛糸玉、型紙や編み棒や裁縫道具、筆記具やハサミやメジャーや定規など、じっさいに帽子を作るための材料や道具もいっぱい出てきて、他にも、帽子を入れる箱やデザインの文献、仕上がり日を記したノートまであります。こういったたくさんの小物は、「カリカリさん」が充実して働いていることをリアルに物語っているように思います。

 そして、「カリカリさん」が楽しく働きながら、同時に困ったり嘆いたり文句を言ったりしているところもおもしろい。つちださんの他の絵本と同じく、この絵本でも、印刷された文章以外に手書きのセリフがいっぱい書かれていて、たとえば「なんだか いそがしいねぇ」「んまっ、もうねなくちゃね」「はかるのが たいへんだわ、こりゃ」「もう、なんで まいにち ふとるのっ?!」「ハァ たいへんだ こりゃ」とか出てきます。

 働くことを描いた絵本(仕事絵本)はたくさんありますが、たいてい、自分の仕事にいっしょうけんめい真面目に取り組む姿を描いたものがほとんどと思います。でも、ただもくもくと働くなんてことは現実にはあまりないわけで、いろいろ問題にぶつかって「いやんなるよなあ」とか「やってられないよー」と愚痴や文句を言いながら仕事をするのが普通でしょう。その点からすると、この絵本は、従来の仕事絵本の枠をちょっとだけ越えているような気がします。

 キャラクターもストーリーも基本的にはファンタジーなのですが、いっしょうけんめい働いていろんな問題にぶつかり、それに文句を言いながら最後にはいい仕事をする、そんなことが描き出されているように思いました。

 この『カリカリのぼうしやさん』は、つちださんの第一作目の絵本。ところが、非常に残念なことに、現在、出版社に在庫がなく購入することができません。偕成社のウェブサイトでそのように表示されていました。私はこの絵本をはじめ図書館で見つけたのですが、とてもよかったのでぜひ購入したいと思ったときにはすでに在庫なしになっていました。どうしてこんなに楽しい絵本が手に入れられないのか、なんだか悔しいです。この絵本は1998年刊行ですから、そんなに古い絵本でもないのです。

 最近は、つちださんも、斎藤孝さんが文を担当した『おっと合点承知之助』で広く注目されているように思います。この機会にぜひ『カリカリのぼうしやさん』を(そしてシリーズ続編の『マニマニのおやすみやさん』も)復刊してほしいです。

▼つちだのぶこ『カリカリのぼうしやさん』偕成社、1998年