「絵本を読む」カテゴリーアーカイブ

酒井駒子『ロンパーちゃんとふうせん』

 まちでふうせんをもらった「ロンパーちゃん」、家でいっしょに楽しく遊ぶのですが、風にふかれ木にひっかかってしまって……

 この絵本でまず印象的だったのは色彩の美しさ。全体にわたってグレーと白と黒を中心にした彩色で、かすれた筆致で描かれています。まるでモノクロ映画のようです。このかすれた色合いがたいへん美しいのですが、そのなかにあってなにより目を引くのが、ふうせんの明るい黄色。ふうせんに付いているひもが青であることも、黄色をより鮮やかにしていると思います。

 と同時に、ふうせんの明るい黄色は、たぶん「ロンパーちゃん」自身にとってそのように見えているんじゃないかなと思いました。自分のまわりの世界から浮かび上がってくる黄色。それがすべてであるかのように、視線がくぎづけになってしまう。

 というのも、「ロンパーちゃん」にとって、ふうせんはただのふうせんではなく、友だちというか、いわば自分と同じ生を宿したものです。「ロンパーちゃん」は、浮いているふうせんに花を見せてあげ、ままごと遊びをします。いっしょにふとんで寝ようと思い自分の寝間着の帽子をかぶせてあげるつもりでした。帽子をかぶったふうせんはまるで人間のように見えます。

 この彩色と描写からは、作者である酒井さんの視点がつねに「ロンパーちゃん」に寄り添っていることを感じます。いわばカメラのピントが「ロンパーちゃん」におかれているというか、じっさい絵の枠はほとんどいつも「ロンパーちゃん」を中心にしていて、他のものは枠の外にはみ出ています。ふうせんもまた、ちょうどロンパーちゃんの背丈ほどに浮かんでいます。中心に置かれた「ロンパーちゃん」の一つ一つのしぐさと様子は実に繊細に描かれていて、うれしさや悲しみといった感情の動きが伝わってきます。

 こういう子どもの日常のこまやかな描写は、酒井さんならではのものかもしれません。というのは、以前紹介した『この絵本が好き! 2004年版』のなかに酒井さんのエッセー(56~57ページ)が収録されていたのですが、これが非常に印象深かったのです。

 「手帳から、みっつ……」と題されており、酒井さんの身のまわりの3つのエピソードがスケッチされていました。短い文章ですがどれもとても魅力的です。2つは酒井さんが出会った子どもたちの様子を描いており、読んでいると、まるで映画を見ているかのようで、ふっと映像が立ち上がってきます。絵本作家に対してあるいは失礼かもしれませんが、酒井さんの(絵本のみならず)エッセーをもっと読んでみたいと思いました。

 あと、酒井さんのエッセーで興味深かったのは、それぞれのエピソードの終わり方。うまく言えませんが、ありがちな安易なむすびになっていないんですね。紋切型をはずすというか、そんな感じがしました。

 そのことは、この『ロンパーちゃんとふうせん』にも当てはまるかもしれません。読み聞かせを終えたとき、うちの子どもは「え、続きはないの?」と聞いてきました。たしかに、先のストーリーがまだあるかのような終わり方です。他の方の絵本ならもう少し物語を続けるかもしれません。でも、こういう終わり方も余韻があってよいと思います。

 もう一つ印象深かったのは、「ロンパーちゃん」の「おかあさん」。最初、ふうせんがすぐに天井に上がってしまい、そのつど「ロンパーちゃん」に取ってくれるようせがまれます。そのとき「おかあさん」はにっこり笑って喜んで取ってくれるかというと、そうではありません。

「やれやれ どうぞ」
「やれやれ これじゃあ かなわない」

 このセリフ、本当にささいなものですが、とてもリアルに感じました。なんとなく「しょうがないなあ」という感情がにじんでいます。

 しかし、だからといってイライラしたりせず、ちょっとした工夫をするんですね。ああ、すごいなあと思いました。

 自分のことを振り返ってみると、日ごろ親としてこのように大らかにまた機知に富んだ豊かな対応をしているだろうかと少し気になりました。何かというとイライラしてしまったり、言わなくてもいいことを子どもに言っていないかどうか。あまり自信がないです。

 さりげない描写ですが、この「おかあさん」のように子どもに接することができたらなと思いました。

▼酒井駒子『ロンパーちゃんとふうせん』白泉社、2003年

アネット・チゾン、タラス・テイラー『おばけのバーバパパ』

 「バーバパパ」シリーズ、図書館から借りて読んでいるのですが、うちの子どもは大好きです。ほとんど毎晩、読み聞かせ絵本に選ぶほどです(うちでは寝る前の絵本はたいてい子供が自分で選びます)。

 『おばけのバーバパパ』はシリーズの第一作目。まだ「バーバママ」や子どもたちは登場しません。「バーバパパ」の誕生が描かれています。フランソワの家の庭で生まれた「バーバパパ」、一度は動物園に入れられるのですが、まちで大活躍して人気者になり、再びフランソワの家に戻っていっしょに暮らしはじめるというストーリー。

 「バーバパパ」シリーズは図書館でも大人気で、全巻そろっていたことは一度もありません。何度も貸し出されているのでけっこう本が傷んでいたりしますが、それは、このシリーズが愛されている証かもしれませんね。

 ところで、たいてい貸し出し中になっているので、実はわが家ではシリーズを順番通りに読んでいません。シリーズのかなり後のものから読みはじめました。あまりよくないのかもしれませんが、うちの子どもにとってはそんなに違和感はないようで楽しんでいます。

 で、そんなふうに読んでいくなかで、以前うちの子どもに「バーバパパって何?」とたずねてみました。間髪を入れずに返ってきた答えは、

「ねんど。すっごくやわらかい、ねんど」(!)

 なるほどーと思いました。色もカラフルだし、自分のからだを自由自在に変えられるところは、たしかに、ねんどみたいです。

 でも、たしか「バーバパパ」は「おばけ」じゃなかったかなと思い、この第一作目を読んでみました。それで気が付いたのですが、お話のなかでは「バーバパパ」が「おばけ」であるとは一言も書かれていないんですね。

 本文のとびらに記されている原本のタイトルも BARBAPAPA だけで、日本語の「おばけ」に対応する言葉は見あたりません。邦訳のタイトル『おばけのバーバパパ』は訳者の山下明生さんのアイデアなんじゃないでしょうか。そんな気がします。

 そもそも庭の土のなかから生まれてきますし、うちの子どもの言うとおり、やっぱり元は「ねんど」なんじゃないかなーと親ばかな私は思ってます(苦笑)。うちの子どもは、この『おばけのバーバパパ』を読んだあとも、「バーバパパ」はやっぱりねんどだと言っています(笑)。あ、もしかして「ねんどのおばけ」かもしれませんね。

 しかしまあ、少なくとも「おばけ」というよりは「生き物」。シリーズの他の絵本でも、自然を大切にし、人間はもちろん、他の動物や植物も深く愛している姿が描写されていたかと思います。地球のなかから生まれ、生きとし生けるものすべてを慈しむグレートな「生き物」、それがバーバパパとその家族。

 とはいえ、シリーズの絵本をすべて読んでいるわけではないので、他のところで「おばけ」の話が出てくるのかもしれません。

 それはともかく、「バーバパパ」シリーズの絵はなかなか興味深いなと今回あらためて思いました。

 一つは彩色。すべてに色を付けず、ばあいによっては着色しないで白いままにしている(?)のが、おもしろいです。たとえば木々も、緑に彩色しているところと、白いまま輪郭だけになっているところがあります。昼間の建物もあまり色が付いていません。これは、画面ごとの色のバランスやストーリーの意味合いを考えてのことかなと思いました。

 もう一つは、(最後のページを除いて)すべて縦に輪切りにして横から描くようになっているところ。土のなかにいる「バーバパパ」の様子や木の根っこも横から見えます。家や動物園の施設も縦に輪切りになっています。視覚的に楽しめます。

 あと、画面にほとんど奥行きがないのもおもしろいです。最後のページも上から見下ろすようなかたちで描かれているのですが、ここでもあまり立体感はありません。だからといっておかしいわけではなく、むしろ軽快で心地よい感じです。

 絵本だから当然かもしれませんが、誰かが名前を付けたわけでもなく生まれたときから「バーバパパ」、しかも子どももまだいないのに「パパ」というのも、おもしろいですね。

▼アネット・チゾン、タラス・テイラー/山下明生 訳『おばけのバーバパパ』偕成社、1972年

穂高順也/荒井良二『さるのせんせいとへびのかんごふさん』

 動物村に新しくできた病院、「さるのせんせい」と「へびのかんごふさん」が開きました。「へびのかんごふさん」は清楚でかわいく、「さるのせんせい」も目が笑っていてやさしそう。ところが、その診察と治療がすごいのなんの、ぶっとんでます。

 とくに「へびのかんごふさん」の活躍ぶりに、唖然、呆然、間違いなし。口あんぐりのあとは何も考えずに大笑いです。

 我が家で一番うけていたのは、薬を作るところと注射の場面。「ぶた」や「ぞう」の治療もすごかった。最後の最後まで大活躍していて、ここまでやってくれると、なんだかすがすがしくなってきます。

 一見むちゃくちゃなのですが、でも考えてみると筋はちゃんと通っているんですね。論理的といえば論理的。それが逆におかしさを増しています。また、お医者さんらしい妙に冷静なセリフも笑えます。

 絵はとてもカラフルで楽しい雰囲気。よく見ると、場面によっては花がぼんやりと顔になっていたり、見ようによっては少し不気味なところもあります。でも、それも全体のアクセントになっています。

 ところで、今日の記事ではこの絵本の何がそんなにおかしいのか、ぜんぜん具体的に書いてませんが、これはぜひ一度、読んでみて下さい。種明かしをしたらつまらないなと思いました。

▼穂高順也 文/荒井良二 絵『さるのせんせいとへびのかんごふさん』ビリケン出版、1999年

サイモン・ジェームズ『ふしぎなともだち』

 ママとこの町に引っ越してきた男の子、レオン。パパは軍隊に入って遠くの地に離ればなれ。そんなレオンにもボブという新しい友だちができ、レオンの部屋でいっしょにくらします。実はボブは誰にも見えないのですが、レオンにはボブがそこにいることが分かります。

だから、レオンは かならず ボブの
せきを よういする。あさごはんの ときも、
「ボブ、もっと ミルク どう?」

 ある日のこと、隣の家に引っ越してきた男の子を見かけます。会いに行こうと決めたレオンは(見えない)ボブといっしょに隣の家のドアに続く階段を上るのですが、途中でボブが消えてしまって……といったストーリー。

 多くの画面でレオンは一人ぼっちです。寝て、朝起きて、着替えて、歯をみがき、朝食をとる、すべて一人きりです。学校に行くときも家に帰ってからも一人。いっしょにいるはずのボブの姿は描かれていません。誰も座っていないイス、広い空間がボブを取り囲んでいます。また、ママが登場するのは、レオンに上着を着せている一場面だけ。レオンはサッカーボールを持っていますが、部屋のなかに置いたきりで、友だちといっしょに遊ぶ場面はありません。街路樹の葉が落ちていることからすると、季節は冬のようです。

 とはいえ、画面の端々からうかがえるのは、さびしさというより、まっすぐにけんめいに日々を生きる様子。

 ママは一度しか登場しませんが、その表情としぐさからは、レオンを大事に愛していることがそこはかとなく伝わってきます。また、レオンのベッドわきには笑顔のパパの写真が立てかけてあり、ダイニングにはたぶんレオンが生まれたばかりのころのパパとママとレオンの写真が飾ってあります。パパからはしばしば手紙が届き、それをレオンは楽しみにして何度も読んでいます。

 どれもさりげない描写で、絵に付けられた文も説明を省いて簡潔そのもの。でも、そうであるからこそ、家族の愛情やけなげなレオンの姿が浮かび上がってくるように思います。

 ところで、この絵本の本文には「あっ!」と驚く非常に不思議なラスト、まるでミステリー映画のような結末が用意されているのですが、さらに心を動かされたのが、本文のラストページをめくったその先です。表紙の見返しと裏表紙の見返しが効果的に使われており、なんだかあたたかな気持ちになります。

 それから、この絵本は、縦30センチに横20.5センチと少し縦長。この縦長の画面も物語と密接に結びついていると思いました。たとえばレオンの住んでいる部屋の天井はどれも非常に高く、ドアや窓も縦長で大きく描かれ、これに比してレオンはとても小さく描写されています。レオンが一人であることを如実に物語っていて印象的です。

 また、レオンがとなりの家の階段を上っていく場面でも、階段は縦長に長く大きく、また、登り切った先のドアもレオンの前にそそり立つように描かれています。階段に座り込むレオン、ドアの前に立ちすくむレオン。レオンの不安と逡巡がよく伝わってきます。

 あと、レオンが黒髪の黒人で隣家の男の子が金髪の白人であることも、象徴的かなと思いました。それほど強い主張ではないでしょうが、民族や肌の色の違いを越えることの大切さが示唆されているのかもしれません。

▼サイモン・ジェームズ/小川仁央 訳『ふしぎなともだち』評論社、1999年

ボニー・ガイサート/アーサー・ガイサート『ヘイスタック』

 タイトルになっている「ヘイスタック」とは、干し草をまとめて山のように高々と積み上げたもののこと。北アメリカの大草原地帯(プレーリー)でかつて当たり前に見られたものだそうです。英語のつづりは、haystack。この絵本は、農家が「ヘイスタック」をどのように作り、1年を通じてどんなふうに用いてきたのかを描いたノンフィクションです。

ほんのこの間のことなんだよ。
干し草をかためる便利な機会ができるまでは、わしらの暮らしておった
大平原(プレーリー)にはな、あっちこっちに、でっかい「ヘイスタック」があったものだ。

 この絵本では、まず農家が「ヘイスタック」を作っていく様子が丹念に描写されています。春になり夏になって育ちきった牧場の草は、草刈り鎌をつけたトラクターで刈り取られ、リフトを使って牧場の真ん中にかき集められ、それをさくで囲んで「ヘイスタック」ができあがります。絵をみると、2階建ての家なみに高く、横幅も4,50メートルくらいありそうです。

 巨大な干し草の山は、秋から冬にかけて牛たちの餌となります。冬の終わりが近づいて、お腹が大きくなった雌牛たちが別のかこいに移されたら、今度は豚の親子たちの餌。子牛が生まれたら、牛の親子たちも戻ってきて、みんなで分け合います。食べられるだけでなく、暑い日には涼しい影をつくり、冬の冷たい風からは守ってくれ、子豚や子牛の遊び場にもなります。

 こうして「家になり、えさになって、山ほどのいのちを育ててくれた」ヘイスタックは、どんどん小さくなり、食べのこしやフンに姿を変え、そして肥料として牧場中にばらまかれます。

そうしてまた、新しい春がきて、すべてがゆっくりとめぐりはじめるんだ。
もう一度、はじめから。

 春、夏、秋、冬、そしてまた春という悠々たる時間の流れ、そして自然のゆったりとした営みを実感するラストです。

 この絵本は、縦18センチに横29センチとかなりの横長。でも、横長の画面だからこそ、北アメリカの大平原が印象深く描写されています。見渡すかぎりの広大な草原、はるか遠くに見える貨物列車、点在する農家の家並み、地平線の上を流れゆく雲、夜の草原に浮かぶ大きな月や一面の雪景色も非常に美しい。

 大自然に抱かれた農民たちの生活もまた引きつけられました。画面のなかではつねに小さく描かれているのですが、よく見ると家族みんなで農業を営んでいる様子がうかがえます。子どもも半分遊びながら手伝っています。「ヘイスタック」の上で一休みして、みんなでのんびり大草原と流れる雲をながめている画面は、ため息が出ます。

 思ったのですが、かつての日本の農村地帯でも、おそらくは同じような営みが見られたのではないでしょうか。秋に刈り取った稲藁もまた、「ヘイスタック」と同様、少しも無駄にせずしかも自然のはたらきにそって活用されてきたのではないかと思います。

 そんな農家の営みや知恵は、近年あらためて注目され評価されているように感じます。絵本の世界でも、昔の農業や農家の暮らしを描いたものがあると思いますが、どうでしょう。

 とはいえ、こういったものはやはり実地にふれることが大事かもしれませんね。

▼文 ボニー・ガイサート/絵 アーサー・ガイサート/訳 久美沙織『ヘイスタック』BL出版、1998年

東 君平『びりびり』

 表紙に描かれているのは、黒い大きな怪獣のようなもの。小さな目が光っています。めくった見返しにはハサミが一つ。そして、本文は(タイトルページなしで)黒いページに白抜き文字の次の一文。

いちまいの くろいかみを びりびり やぶいていたら へんなどうぶつが うまれました。びりびりという なまえを つけてあげたら ひとりで あるきだしました。

 次の見開き2ページは、左が切り取られた黒いページ、右に四つ足で丸まるとした黒い「びりびり」が描かれています。まさにハサミで切り抜いたかのよう。スリリングな導入です。

 歩き出した「びりびり」は何でも食べてしまい、そのつど、食べられたものを取り返すために2つに破られます。破られた「びりびり」は半分の大きさになってそれぞれまた動きだし、1匹が2匹、2匹が4匹、4匹が8匹、8匹が16匹とどんどん増えていきます。

 これが一応のストーリーですが、この絵本のばあい、ストーリーはあってないようなもの。

 おもしろいのは、「びりびり」と手で破っているかのように描かれているところ。破れ目もぎざぎざです。もしかすると、本当に黒い紙を破って描かれている(?)のかもしれません。

 大きさが半分になって数が増えていくところは、破るというアクションがそのまま画面に定着しているような楽しい雰囲気です。本文はすべてモノクロですが、地味ということはまったくなく、躍動感に満ちています。絵本を見ている(読んでいる)私たちも、まるでじっさいに手を動かして「びりびり」「びりびり」黒い紙を破っているかのような気分になってきます。

 「びりびり」は小さな目といい半開きの口といい、表情があるようでないような、どちらかというと不気味です。しかし、破られて数が倍々に増えていき、みな右の方を向いてトコトコ歩いていくのも、なんだか楽しげです。

 また、この絵本の躍動感は文にも表されていると思いました。というか、絵と文が一体になってリズムを刻んでいます。文はたとえば次のような感じ。

ぼくの時計を パクパク食べた
それはビリビリ それはビリビリ
だいじな時計を とりかえせ
こらビリビリ そらビリビリ

 この調子がずっと繰り返され、とてもリズミカル。読み聞かせのときも、拍子をつけてまるで歌うかのようになります。「ビリビリ」という繰り返される言葉の響き、声に出すときの唇と口の動きもなんとなく心地よいです。

 この絵と文の一体感、変な話ですが、身体を動かしたくなってきます。みんなでいっしょに紙を「ビリビリ」破りながら歌って踊れそうなくらいです。

 よく見ると、表紙のタイトルと本文の最初のページでは「びりびり」と平仮名になっていますが、それ以外はすべて「ビリビリ」とカタカナ表記。

 「びりびり」が動き出す、「びりびり」と破る、「びりびり」と声を出す、「びりびり」と踊る(笑)、そんなリズムとアクションには「ビリビリ」のカタカタ表記がしっくりくるように感じました。

 ところで、奥付には、この絵本の来歴が説明されています。

本書「びりびり」は、1964年、東君平24歳のときの絵本で至光社より上梓されたものを、原書をできるだけ生かして再構成したものである。

 24歳のときの絵本! すごいですね。著者紹介によると、東さんは16歳で家を出て、22歳で『漫画讀本』でデビュー。翌年渡米し、6ヶ月のニューヨーク生活を経て、帰国後、絵本や童話などの創作活動を開始。1986年に46歳の若さで亡くなられたとのこと。24歳のときということは、ニューヨークから帰ってきてすぐに描かれた絵本ということでしょうか。

 東さんの他の絵本もぜひまた見てみようと思います。

▼東 君平『びりびり』ビリケン出版、2000年

田島征彦『じごくのそうべえ』

 軽業師の「そうべえ」、歯抜き師の「しかい」、医者の「ちくあん」、山伏の「ふっかい」の4人が地獄で大暴れするというストーリー。

 この絵本、以前から読んでみたいと思っていたのですが、読み聞かせで親子ともども大笑いして、実に楽しめました。いやー、これは最高ですね。

 やはり子どもに大受けしていたのは、汚い話ですみませんが「ふんにょうじごく」。これは、おもしろい! 私も読み聞かせのとき、思わず吹き出してしまいました。

 それから、「じんどんき」に呑み込まれてお腹のなかをいろいろいじるところ。これも大笑い!

 いやー、こう言っては顰蹙を買いそうですが、やっぱりねー、「ふんにょう」とか「おなら」とか「こちょこちょ」とか、人間の生理にはたらきかけます。子どもだけじゃなく、誰にとっても根源的におもしろいものじゃないかなあと思います。こぎれいにしていても、身体の反射にはかないません。大らかで楽しいです。

 絵は、迫力があってしかもユーモラス。とくに地獄に行ってからの4人は、鬼などに比してとても小さく描かれているのですが、そのことで逆に、ふんどし一丁の身体全体を使った大活躍、アクションに次ぐアクションが目を引きます。

 興味深いと思ったのは、絵が描かれている素材。見たところ、紙ではなく布のようなのです。布に筆で直接描かれてるのか、あるいは版画でしょうか。それとも、染色かもしれませんね。

 それから、文は全編すべて関西弁の会話調、読み聞かせでも得体の知れない「なりきり関西人」で楽しめました。でも、やっぱり、この絵本は本当の関西弁で聞きたいですね。たぶん、イントネーションとかリズムとか、本場の関西弁だったら、おもしろさ倍増じゃないかなと思います。

 あと、おもしろいのは、お話の舞台は江戸時代あたりですが、文のなかに「ピンク」「トイレ」「ホーク」といったカタカナが少しだけ出てくるところ。もちろん、読み聞かせをしていて別に違和感はないのですが、ちょっと不思議ですね。

 ところで、この絵本には「桂米朝・上方落語・地獄八景より」というサブタイトル(?)が付いています。もともとは落語のお話とのこと。

 カバーには、桂米朝さんの一文が掲載されています。なかなか興味深いので、引用します。

 上方落語<地獄八景亡者戯>───古来、東西で千に近い落語がありますが、これはそのスケールの大きさといい、奇想天外な発想といい、まずあまり類のない大型落語です。
[中略]
 むかしは、地獄極楽のおはなしは老人が孫に説いてきかせたものでしたが、今日では、もはや断絶……という状態ですね。
 えんまが舌をぬいたり、三途の川や針の山の知識が消滅してしまったら、落語もやりにくくなります。この絵本がその穴埋めをしてくれたら……と念願している次第です。

 「地獄八景亡者戯」(じごくはっけいもうじゃのたわむれ)、うーん、すごいタイトルですね。おもしろそうです。それに、この絵本では地の文はすべて会話調ですが、落語ではたぶん違うじゃないかなと思いました。他にもいろいろアレンジされているでしょうし、これは一度、もともとの落語を聞いてみたいところです。

 落語をもとにした絵本は他にもけっこうあるような気がしますが、どうでしょう。そういえば、川端誠さんの落語絵本のシリーズがありましたね。じゅげむじゅげむの人気で図書館ではいつも貸し出し中です。

 それはともかく、桂米朝さんが書かれているように、地獄極楽とか閻魔大王とか三途の川とか、たしかにいまの子どもたちにはなじみがうすいかもしれませんね。あ、でも、NHK教育で放送されている「おじゃる丸」で知っていたりするかも。

 しかしまあ、私も、子どものとき祖父や祖母から地獄の話しとか聞かされたことがありますが、これはやっぱりとても恐い話だったと記憶しています。この種の恐さは、もしかすると、いまの子どもたちには縁遠いかもしれません。いや、そうでもないかな、別のかたちの恐い話が身近にあるのかも……

 ともあれ、地獄にしても鬼にしても、本当はとても恐いからこそ、それをひっくりかえしたときのユーモアが増すわけで、背景となる文化はけっこう大事かなと思います。

 もう一つ、気になったのが、カバーに小さく記されていた次の一文。

1985年5月、装丁を改版しました。

 どんなふうに変わったんでしょうか。気になります。機会があったら確認してみたいと思います。

 装丁といえば、裏表紙の絵もなかなか楽しいです。眼鏡をかけたふんどし一丁の男の人が恐そうな鬼の絵を筆で豪快に描いています。これは、たぶん作者の田島さんの自画像ですよね。ふんどし一丁というところが最高です。この絵本にぴったりです。いや、ほんとに。

▼田島征彦『じごくのそうべえ』童心社、1978年

きむら ゆういち/はた こうしろう『ゆらゆらばしのうえで』

 「うさぎ」とそれを追いかける「きつね」は、丸太橋にさしかかります。ところが、大雨で一本の丸太だけになっていた橋は、2匹が乗ったとたんに土手からはずれ、フラフラとシーソーのようにゆれはじめます。「うさぎ」と「きつね」は「ゆらゆらばし」の上で立ち往生。うっかり動いたら2匹とも逆巻く川に落ちてしまい、助かりません。動きの取れない2匹は話をすることしかできず、やがて心を通わせはじめます。

 このストーリー、同じく木村裕一さんが文を担当した『あらしのよるに』とよく似ています。もちろん、『あらしのよるに』のオオカミとヤギは互いの勘違いから友達になるわけですし、細部はぜんぜん違います。とはいえ、本来は食べる/食べられる関係にある2匹が特異な状況のなかで不思議な友情を育んでいくというモチーフはまったく同じです。うちの子どもも、読み聞かせのあと「似てるねえ」と言っていました。

 そういえば、タイトルも少し似てますね。『あらしのよるに』と『ゆらゆらばしのうえで』ですから、同じく「の」をはさんでの助詞止めです。

 それはともかく、この絵本でおもしろいと思ったのは、まずは縦長の造本。

 縦31センチ、横19センチという縦長の紙面がとても効果的に生かされています。「ゆらゆらばし」はほとんどいつも紙面の上方に描かれており、その下の広く白い空間が、橋の高さ・谷の深さを物語っています。

 また、見開き2ページの中央に丸太を支える橋脚が描かれ、左に「きつね」、右に「うさぎ」が配置されています。2匹が動いてバランスが崩れると丸太がシーソーのように上下し、この描写は、2匹が「お互いの重さ」を必要としいわば運命共同体であることを鮮明に表していると思います。

 それから、「ゆらゆらばし」の下の逆巻く川の描写もおもしろいと思いました。「うさぎ」や「きつね」、それから「ゆらゆらばし」は、たとえば切り絵のように輪郭がくっきりと鋭角的に描かれています。これに対し、紙面の一番下に描き出されている川の流れは、とても荒々しいタッチで、色の飛沫が飛び散ったかのような彩色もされています。激しく荒れ狂う川面と水しぶきを感じ取ることができます。

 あと、カバーには、木村裕一さんと秦好史郎さんの写真が載っているのですが、これがお二人の幼稚園・保育園時代のものなのです。かわいい男の子のモノクロ写真です。これもおもしろい趣向ですね。

▼きむら ゆういち 文/はた こうしろう 絵『ゆらゆらばしのうえで』福音館書店、2003年

島田ゆか『バムとケロのおかいもの』

 「バムとケロ」、あらためて説明の必要のない大人気シリーズです。うちではこの『バムとケロのおかいもの』を持っていて、シリーズの他の絵本は図書館から借りて読みました。うちの子どもも大好きです。

 このシリーズの魅力は、なによりディテールの楽しさ。

 ページごとに「あっ!」というディテールがたくさん描き込まれており、何度読んでもあきません。『バムとケロのおかいもの』でも、市場にお買い物に行くというメインストーリーに加えて、サイドストーリーが幾つもあります。それらは画面のあちこちに散りばめられており、あれこれ見つけて楽しめます。そういう細部について、読み聞かせのとき子どもといろいろ話ができるのもよいですね。

 それから、登場する日用品や小物がとてもおしゃれ。この点も人気の理由の一つと思います。作者の島田さんは、もともとパッケージデザインなどをされていたとのこと。ファッション雑誌に載っていてもおかしくないくらい、洗練されている気がします。いわゆる「おしゃれ」とは無縁な生活を送っている私にとっては、ちょっとこぎれいすぎるというか、こういうのは苦手なのですが、好きな人にとってはたまらない魅力かなと思います。

 あと、バムとケロ以外のキャラクターもシリーズのなかで共通していて、これも読んでいて楽しめます。しかも、島田さんのもう一つのシリーズ「カバンうりのガラゴ」ともキャラクターが重なっています。「バム」と「ケロ」は「ガラゴ」シリーズのなかにも少しだけ登場しますし、たしか「ガラゴ」も「バムとケロ」シリーズのどこかに出ていたと思います。うちの子どもに教えてもらったのですが、『バムとケロのおかいもの』には、「ガラゴ」シリーズに出ていたキャラクターが何匹も登場しています。

 だんだんとキャラクターが増えていき、それぞれのサイドストーリーが加わり、絵本のなかの世界が広がっていく、そんな印象があります。

 全体の物語は、どちらかと言うと、ほほえましくなごめるものですが、これに対し、サイドストーリーや小物やキャラクターなど画面の情報量はとても多く、非常に濃密に作り込まれています。この落差のおもしろさが「バムとケロ」シリーズの特徴ではないでしょうか。

 もう一つ注目したいのが、島田さんの作風の変化です。「バムとケロ」シリーズを最初から順番に読んでいくと、少しずつ描き方やタッチが変わってきていることが分かります。かなり微妙な違いなのですが、たとえば芝生や草原の描写一つとっても、第一作と現在とでは違うと思います。それはサイドストーリーの描き込みにも言えて、はじめはいまほどディテールが細かくないような気がするのですが、どうでしょう。徐々にいまの作風が完成されていった様子を見て取ることができ、これもおもしろい点かなと思います。

▼島田ゆか『バムとケロのおかいもの』文溪堂、1999年