「ぼく」の「おじいさん」は銅版画家。年に一度のスタジオセールには「ぼく」も仕事場に呼ばれ、準備を手伝います。「ぼく」の一番の役割は、刷り上がった版画に色を塗ること。この絵本は、そんな「おじいさん」と「ぼく」の銅版画制作を他ならぬ銅版画によって描いています。
ガイサートさんの銅版画はたいへん美しく、とくに「ぼく」が絵のなかに入り込んでいるところはダイナミックで鮮やかな彩色。海の底やジャングルの描写には、うちの子どもも惹かれていました。
また、「おじいさん」と「ぼく」が一緒に作品を制作していく過程からは、二人の間の静かで、しかし深いきずなが感じ取れるようです。準備が終わって、仕事場のすみの床に二人ですわり話している画面が、なんとも印象的。
ところで、献辞には次のように記されていました。
わたしの父とその父と彼らの仕事場(ガレージ)に捧げる
たぶん、作者のガイサートさんのお父さんもお祖父さんも銅版画家なんですね。だから、この絵本に描かれているのは、ガイサートさんが少年だった頃にまさに体験されたことなんじゃないかなと思います。自伝的絵本と言っていいかもしれません。
と同時に、そこで描写されている制作過程は、おそらく、ガイサートさんが現在おこなっているものとそれほど変わりないでしょう。巻末のあとがき(?)にも同趣旨のことが書かれていました。その意味では、銅版画家という自分の仕事を描いた絵本と言えるかもしれません。
というか、父から子へ、子から孫へ、人が変わってもずっと受け継がれてきた銅版画のまさに「仕事場」こそが、真の主人公かな。つまり、そういう一つの空間と、そこで伝えられてきた技芸です。そして、この絵本それ自体、銅版画の「仕事場」と技芸から生まれた、ほかならぬ銅版画なんですね。
そういえば、私も高校のとき美術の時間に銅版画をやった記憶があります。そのときは版画だけで彩色はしなかったのですが、酸が銅を溶かすという化学的プロセスが作品の生成に組み込まれている点に、なんとも不思議な印象を抱きました。いわば化学の実験から一つの美が生み出されていく、そのおもしろさです。
あらためて考えてみれば、銅版画家の仕事場は、見ようによっては何かのラボのようにも見えてきます。各種の化学薬品やバッドがならび、いろいろな道具、プレス機やウォーマーなどの大きな機械も置かれています。制作の過程では、インクの匂いのみならず、おそらく、さまざまな薬品の匂いも満ちているでしょう。
と同時に、このラボは、職人的な手作業の積み重ねの場でもあるわけです。銅版を磨いたり、エッチングニードルで引っ掻いたり、インクをのばしたり拭き取ったり、仕上げの彩色に至るまで、まさに手を動かして進められています。
そして、銅を溶かすというもっとも重要なプロセスが、人間の手をある程度離れた化学的変化に任されているということ。そこには、あらかじめ計算し切れない偶然とスリルとダイナミズムがあると言っていいのかもしれません。
それから銅版を酸につける。どのぐらいの時間つけておくかがとても難しい。
長年やっているおじいさんでも、ちょっとハラハラする。ぼくもいっしょにドキドキする。
この絵本、巻末には「仕事場」の全体が描かれ、一つ一つの道具の名称も記されています。また、銅版画が出来上がるまでのプロセスについても、まさに銅版画で詳しく説明が載っていました。専門的な用語がいろいろ出てきますが、カバーの久美沙織さんの説明によると、この絵本の翻訳にあたっては、銅版画家の佐藤恵美さんにご協力いただいたそうです。
うちの子どもには途中でいろいろ補足しながら読んでいきました。「銅版画、やってみたいなあ」とうちの子ども。うん、そうだよねえ。
原書”The Etcher’s Studio”の刊行は1997年。この絵本、おすすめです。
▼アーサー・ガイサート/久美沙織 訳『銅版画家の仕事場』BL出版、2004年、[協力:佐藤恵美]