クォン・ジョンセン/チョン・スンガク『あなぐまさんちのはなばたけ』

 強烈なつむじ風がふいた日のこと、あなぐまおばさんはまちの市場まで吹き飛ばされてしまいます。家に帰る途中の学校でみつけたお花畑に、あなぐまおばさんはうっとり。そこで、峠の家でもお花畑を作ろうとします。言われたとおり、あなぐまおじさんが、くわであたりを掘り起こしはじめると、

「あー、おまえさん! それは なでしこよ。ほっちゃ だめ!」
「アイゴー! それは つりがねにんじんよ。ほっちゃ だめ!」

 家のまわりをよく見ると、そこにはいろんな花が咲き乱れていて、そのままお花畑。冬だって白い雪の花が山一面に咲きます。あなぐまおばさんは、日ごろ見落としていた大事なものにあらためて気づくのです。

 このストーリーに加えて、この絵本の魅力は絵の美しさです。使われている黒色はたぶん墨書きだと思うのですが、たとえば力強い山々の稜線など、その躍動感あふれる筆使いは一見の価値ありです。また、墨色以外の彩色も非常にあざやかで魅力的。たとえば、あなぐまおばさんが自分たちの家のまわりの花畑に気づく画面はとても幻想的に描かれています。あるいは、アメリカの画家ポロックを彷彿とさせる画面もあり、アクション・ペインティングと墨書きが融合したかのような独特の美しさです。

 もう一つ注目されるのが、彩色されている紙(?)の質感です。日本でいえば和紙のような感じでしょうか。あたたかで味わい深くまた微妙な色合いで、墨書きによくマッチしています。この紙(?)に水分を含ませてその上で彩色してあるようなところもあり、色のにじみがとても美しいです。

 著者紹介によると、絵を担当したチョン・スンガクさんは、韓国古来の絵画の持つ美しさを取り入れた絵本づくりに力を注いでおられるとのこと。私は韓国の絵画はまったく知らないのですが、この絵本の筆使いや紙面の独特の質感は本当に美しいと思いました。

 原書の刊行は1997年。

▼クォン・ジョンセン 文/チョン・スンガク 絵/ピョン・キジャ 訳『あなぐまさんちのはなばたけ』平凡社、2001年

長谷川集平さん関連のウェブサイト

 昨日紹介した『トリゴラス』の作者、長谷川集平さん関連のウェブサイトです。

 まずは、長谷川集平さんとロックバンド、シューヘーのウェブサイト、SHUHEI’S GARAGE。無知でぜんぜん知らなかったのですが、長谷川集平さんは、チェロとギターのライブ・ユニット「シューヘー」で音楽活動もされているんですね。これまでの遍歴やライブレポート、スケジュール、歌詞集など詳細な情報が掲載されています。長谷川集平さんの著作リストもあり、本やCD、絵はがきやTシャツは通販もされています。本については、内容紹介や書評などの情報もたくさん掲載されていて、とても充実しています。ただ、絶版が多いのが少々悲しいですね。あと、3ヶ月に1度、「シューへー通信」というニュースレターを発行されていて、その案内もありました(一部は記事も読めます)。掲示板には長谷川さんご自身も登場されて、活発なやりとりになっています。

 続いて、長谷川集平さんが講師となって1995年から2ヶ月に一度おこなわれている自主的な連続文化講座、長崎絵本セミナリヨのウェブページ。SHUHEI’S GARAGE と同じcojicoji.com のなかにあります。この講座は、「絵本について」「絵本と映画について」「絵本と音楽について」の三つのテーマを順番に取り上げながら、絵本を文化という観点から取り上げていくものだそうです。すでに52回を数えています。スタッフの方のレポートもありました。ここのサイトに掲載されている、「長崎絵本セミナリヨ七ヶ条」は必見です。

 そして、復刊ドットコム『長谷川集平』復刊特集ページ以前紹介したスズキコージさんもそうでしたが、長谷川集平さんも、数多くの著作が絶版で、復刊リクエストのあったものがリストになっています。絵本ガイドでもしばしば目にする『はせがわくんきらいや』も三度も絶版になり、復刊ドットコムでようやく復刊が決まったそうです。他にも『映画未満』や『絵本未満』といった割と有名な著作も絶版のようです。この機会に私も幾つか復刊のリクエストを投票しました。

 この特集ページには、長谷川さん自身のメッセージも掲載されていました。少し引用します。

作品には時として作者の思惑を越えたものが埋め込まれることがあります。作者も受け手のひとりとして、長い時間をかけて宝探しを続けることになります。せっかちな商売の仕組みと落ち着きのない精神生活の中で、ぼくらに必要な「長い時間」が失われがちになっているのを残念に思います。

 いまや本が消耗品になってしまったことは、ずいぶん以前から指摘されてきたかと思います。絵本もまたどんどん絶版になっているのが現状なのでしょう。でも、絵本はもともと、瞬間風速的に受容されるものではなく、長い時間をへて繰り返し読まれていくもののような気がします。私も自分が小さいころに読んだ絵本を自分の子どもたちに読み聞かせたりし、そのとき私は長い時間をへてもう一度絵本に出会い、あらたな感動を得たりします。何十年も前に描かれたものでも、まったく古びることのない絵本はたくさんあります。長谷川さんの「長崎絵本セミナリヨ七ヶ条」を読みながら、絵本のまわりに「ぼくらに必要な長い時間」が流れるには何が大事なんだろうと考えてしまいました。

長谷川集平『トリゴラス』

 大風が「びゅわん びゅわん」と鳴る夜のこと、少年はこの音が「トリゴラス」という怪獣の飛ぶ音に違いないと妄想します。少年の話では、「トリゴラス」はまちを破壊し、「かおるちゃん」をさらっていくのです。

 この絵本、少年の暴力衝動と性衝動、そのいい意味での焦燥感を余すところなく表現していると思います。多くの元少年が身に覚えのある感覚をよびさまされてしまう、そんな絵本です。

 「暴力と性? じゃあ、小さい子どもには読ませられない!」、なんてことはまったくありません。さらにプラスして、ユーモアとペーソスがあります。

 うちの子どもも、この絵本を非常に楽しんでいました。何がいいって、まずは「トリゴラス」、この怪獣がそれ自体、実に魅力的。ビルの上を低く飛び、口から「ひみつへいき」の「トリゴラ・ガス」を吐き、戦闘機やミサイルの攻撃をものともしない、圧倒的な強さです。これが子どもにとってはたまりません。いや、昔「子ども」だった大人にとっても、です。そういえば、はじめの方のページで、少年の机の上にはウルトラマンと怪獣の人形がかざってあり、ふすまにはスター・ウォーズのポスターが貼ってありました。

 そして、うちの子どもがもっとも受けていたのが、関西弁の文章。ユーモラスでしかもリズミカル。ついつい自流の関西弁で読み聞かせも楽しめます。たとえば、こんな感じ。

もう、めちゃくちゃや。
まち、ぐちゃぐちゃや。
もう、わやくちゃなんや。

 この文章がついた画面には、列車を口にくわえたトリゴラスが、燃え上がる(?)街と飛び交う戦闘機やミサイルを背景に力強くそびえ立っています。読み聞かせでここのページになると、うちの子どもはいつも、ウハハハと大受けしていました。

 それから、少年のお父さんが絶妙の突っ込みキャラクターになっています。もともと「なにゆうとんじゃ!」といった表情をしているのですが、妄想がエスカレートする少年に対し最後にがつんと一言、

あほか、おまえは。
あの音は、ただの風の音じゃ。
そんな しょうもないこと ごちゃごちゃゆわんと、
はよねえ!

と言って電気を消します。次のぺージで少年は暗い顔をして「かおるちゃん……」。このお父さんの突っ込みがあるのとないのでは大違いじゃないかなと思います。この突っ込みがあるからこそ、少年のどうしようもない煩悶がくっきりと浮かび上がってきます。

 絵は鮮やかな色彩はまったくなく、あたかもモノクロ映画のようです。じっさい「トリゴラス」が少年の分身であることを同じ構図の絵で暗示したり、映画のような画面構成もおもしろいです。たとえば「トリゴラス」がまちを破壊するシーンは映画『ゴジラ』の第一作を彷彿させますし、「かおるちゃん」をさらっていくところは『キングコング』です。

 とくに電気を消す画面では、見開き2ページで寝室を描くかたちになっているのですが、左のページにはお父さんが電気に手をのばすシーンが描かれ、右のページには電気が消え暗くなったなかじっと闇を凝視している少年の姿が描かれています。このページのつくりは、電気を消すという時間の流れとお父さんと少年の対比を印象深く表していて、とてもおもしろいと思いました。

 あと、この絵本のもっとも不思議なところが表紙です。写真に彩色したかのようになっていて、映画ポスター『トリゴラス』の看板が小さく空き地に立っています。映画のポスター風なのはおもしろいのですが、中身とギャップがあって、この表紙は何を意味しているんだろうと思いました。あるいは少年の妄想のどうしようもなさ・いかんともしがたさを表しているのかしれませんね。

 この絵本、改版が2003年10月に同じく文教出版から刊行されているようです。「改版」とのこと、もしかして絵や文章が変わっているのでしょうか。機会があったらぜひ見てみたいと思います。

▼長谷川集平『トリゴラス』文教出版、1978年

竹内オサム『絵本の表現』

 著者の竹内オサムさんは、奥付の著者紹介によると、マンガ史と児童文化が専門の大学の先生で、『手塚治虫論』や『戦後マンガ50年史』といった著作があります。

 「あとがき」を読むと、大学の幼児教育学科と児童学科の学生に、絵本の読み聞かせを指導したり、紙芝居の実演、さまざまな絵本の紹介などに取り組んでこられたそうです。そうした経験のなかで考えてこられたことが、この本にまとめられています。

 この本のテーマは、絵本の「表現技法」。つまり、どんなふうにして絵本が描かれているのか、その表現のテクニックを考えてみることです。ただし、絵本を描こうとする人へのハウツー本というわけではなく、日頃から絵本に接している人や絵本に関心を持っている人に、「絵本はこんなふうにも読める」という新しい見方を提供したいとのこと。

 具体的に取り上げられている技法は、たとえば、誰の目からどんな位置から描くのか、その視点を画面と場面でどう連続させていくか、表紙と裏表紙をどのように描くか、絵と絵、場面と場面をどうつなげていくか、絵と言葉のコンビネーションの仕方や語り手の置き方、時間の流れをどのように扱うか、などです。

 この本、少々難しくとっつきにくいところもありましたが、日頃あたりまえに接している絵本を違った角度から見直すことができ、なかなかよかったです。100ページくらいのうすい本ですが、多くの絵本を例に挙げて具体的に説明していて、なるほどなあと思ったところがけっこうありました。

 竹内さんも書かれていますが、私たちは通常、完成品としての絵本に接していて、その絵本がどのような行錯誤の結果できあがったのか、あまり意識しません。でも、表現技法に注目してあらためて絵本を見てみると、作家の方々の創意工夫が多少なりとも感じられるような気がします。

 また、竹内さんは、表現技法を分析することの意味について次のように書かれていました。

ただ楽しむのではなく、分析的に見る見方も身につけてほしい。それが絵本に限らずメディアそのものを対象化し、ときには批判的に見る目を養うことに、きっとつながっていくはずなのだ。
[中略]
ものごとには、ふたつの眼で接するのが一番だと、ぼくなどは思う。「理解しつつ愛する」という態度が大切なんだと。冷静に対象のあり方を理解しつつ、その一方で対象を深く愛すること。そのような二重の接し方が、対象と自分との関係をよりよいものにしていくはずだと信じる。(105ページ)

 これはとても納得がいきます。「技法」や「分析」というとなんだか冷たい印象がありますが、まったく逆で、表現の工夫やその「すごみ」が分かると、ますます絵本が魅力的でおもしろくなってくると思います。子どもに読み聞かせをしたり、子どもと絵本について話したりするときも、もっと楽しくなるんじゃないでしょうか。

 あと、細かなところで「へー」と思ったのは、「幼年童話の三種の神器」です。これは竹内さんが考えたというわけではなく一般に言われているみたいですが、「食べ物」「遊び」「動物」の三つが「三種の神器」なのだそうです。これらのうちの一つか二つ、できれば三つ取り上げると、子どもたちは興味を持って物語に引き込まれるという説です。たしかに、これは当たっているかもと思いました。

 この本は、久山社から刊行されている「日本児童文化史叢書」の第32巻。この叢書、他のもおもしろそうなタイトルが幾つかあります。たとえば、加藤理『<めんこ>の文化史』、上地ちづ子『紙芝居の歴史』、福田誠治『子育ての比較文化』、早川たかし『明日の遊び考』、畑中圭一『街角の子ども文化』など。そのうち、機会があったら他の本も読んでみようと思います。

▼竹内オサム『絵本の表現』久山社、2002年、定価(本体 1,553円+税)

五味太郎さんのウェブサイト

 昨日の記事、『ヘリコプターたち』の作者、五味太郎さんのウェブサイト gomitaro.com です。このウェブサイトは五味太郎さんご自身が運営されていて、あの特徴的な色合いとイラストがサイトを飾っています。サイトの中身も充実しています。

 まず五味太郎さんの全書籍リスト。これは、五十音別、出版社別、年代別に整理されており、使いやすいと思います。何百冊もののリストは圧巻の一言。でも、古いものほど絶版が多いようで、少し悲しくなります。

 それから、書籍以外にも CD-ROM やビデオやカードゲームも制作されていて、そのリストもありました。なんと、お皿(大皿と小皿セット)やシルクスクリーンによる額装画(限定品)もあって、これも購入できるようです。

 あと、「おまけ」として『らくがき絵本 五味太郎50%』(ブロンズ新社)という本の2ページ分が PDF ファイルでダウンロードできるようになっています。プリントアウトして遊べます。

 五味太郎さんからの近況コメント(ちょっとひとこと)も掲載されていました。パリでワークショップをされるとのこと、おもしろそうです。ただ、このコメントは最新のものだけで過去の分のバックナンバーは見つかりませんでした。以前のコメントも見てみたいなと思いました。

五味太郎『ヘリコプターたち』

 長くひとりぼっちだった緑のヘリコプターがピンクのヘリコプターと出会い、いっしょに旅を続け、そして新しい生命が生まれる、というストーリー。

 この絵本、なによりも色の使い方がとても印象的です。緑とピンクのヘリコプター以外、背景の白をのぞくとほとんど黒や茶色のくすんだ色しか使われていません。ヘリコプターたちが上空を飛んでいく森も海も村も、何もかもが暗くどんよりと描かれ、荒涼とした景色が続きます。森の植物(のように見えるもの)には生命の気配がまったく感じられませんし、人間も含めて動物は一つも登場しません。

 だからと言うべきか、緑とピンクのヘリコプターたちには、それが機械であるにもかかわらず、深く命を感じます。見開き2ページの広い紙面のなかでつねに小さく描かれているヘリコプター、人間のように多くの表情があるわけではないのですが、でも、よくみると微妙な表情や身振りを示しています。病気のときには羽がひしゃげているし、子どもたちの生まれる前のピンクのヘリコプターは少しだけおなかがふくらんでいます。

 そして、子どもたちが生まれる場面、この場面だけ、ずっと白か黒だった背景が朝焼けに黄色く染まります。新しい生命の誕生を祝福するかのような彩色です。

 もう一つ、この絵本では、文章の言葉の選び方と並べ方が特徴的。たとえば、こんな感じ。

ヘリコプターが飛んでいる――飛びつづけている――もう だいぶながいこと――ひとりぼっち

ようやく――めぐりあい――たわいなく――めぐりあわせ

輝く朝の光の中――生まれた――稚い――無数の

 一つの文として完結させるのではなく、言葉のかたまりを横線(――)をはさんでつなげるかたちになっています。しかも、改行はいっさいなく、見開き2ページの紙面のなかほどに横一線に言葉が並びます。これは、飛びつづけるヘリコプターたちの移動と一定の間隔で回り続ける羽根の音と、そして一途さを表しているかのようです。

 最後のページには、次のように書かれています。

おや――あのヘリコプターたち――あれから 何処へ行ったのだろう。

 ここに、はじめて句点(。)が打たれています。出会っていっしょに旅をして新しい生命をはぐくむ、その一連のいとなみを一続きのものとしてこの文が表現しているように思います。

 そしてまた、ここに句点が打たれていること、「あのヘリコプターたちはあれから何処へ行ったのだろう」と記されていること、最後のページには子どものヘリコプターが一台(?)だけ描かれていること、これらから受ける印象は、緑とピンクのヘリコプターたちがもういなくなってしまったんじゃないかということです。この理解、間違っているかもしれません。でも、一つの生命のいとなみがあり、それが次の生命へと引き継がれて終わる、そんな読後感を持ちました。

 奥付の説明によると、この絵本ははじめ1981年にリブロポートで出版されたそうです。その後、1997年になって現在の偕成社からあらためて刊行されたとのことでした。実はこの偕成社版は、もともとのリブロポート版を10%縮小しているそうです。リブロポート版の大きさで読むと、また印象が変わるかもしれませんね。

▼五味太郎『ヘリコプターたち』偕成社、1997年

キャロル・オーティス・ハースト/ジェイムズ・スティーブンソン『あたまにつまった石ころが』

 この絵本は、文を担当しているハーストさんのお父さんを描いたノンフィクションです。

切手にコイン、人形やジュースのびんのふた。
みなさんも集めたこと、ありませんか?
わたしの父は子どものころ、石を集めていました。
[中略]
まわりの人たちはいったそうです。
「あいつは、ポケットにもあたまのなかにも
石ころがつまっているのさ」
たしかにそうなのかもしれません。

 「大人になったら何になりたい?」と聞かれて「何か石と関係のあることだったらいいなあ」と言っていたハーストさんのお父さん、結局、ガソリン・スタンドをはじめます。当時はちょうどアメリカが自動車社会に突入した時代で、T型フォードが大人気。そこで、T型フォードの部品を集め修理をはじめると、これが大繁盛。

 ところが、1929年の大恐慌が起こり、ガソリン・スタンドも店をたたみます。いっしょうけんめい仕事を探し、どんな仕事でも引き受けたそうです。仕事が見つからないときは、科学博物館に出かけ、石の標本の部屋ですごします。この間もずっと、ハーストさんのお父さんは石を集め続けていました。

 そんなある日、科学博物館の館長グレース・ジョンソンさんに出会います。

「なにか、おさがしのものでも?」
「自分のもっているのより、いい石をさがしてるんです」
「どのくらい見つかりました?」
「10個です」
女の人は、部屋じゅうのガラスケースのなかにある、
何百個という石を見回していいました。
「たったの10個なの?」
「えーと、11個かもしれません」
父はそういって、にっこりしました。
女の人もわらいました。

 そうして、ハーストさんのお父さんは、科学博物館で夜の管理人の仕事につき、その後、ジョンソンさんの推薦で博物館の鉱物学部長になるまでが、この絵本で描かれています。

 この絵本でなによりも魅力的なのは、ハーストさんのお父さんの人柄です。「石ころじゃあ、金にならん」とか「あの石ころが何の役に立つの」とか言われても、「うん、そうかもしれない」とひょうひょうと受け流し、まったく意に介せず自分の大好きな石集めを続けます。ジョンソンさんに鉱物学部長に推挙されるときも、こんな具合です。

「わたしはね、こういったのよ。
ここに必要なのは、あたまのなかとポケットが
石でいっぱいの人だって。
あなたみたいにね」
「ああ、わたしならそうかもしれません」
父は、ポケットからひとつ、石をとりだしていいました。
「ところで、ほら、ちょっと見てください。
いい石を見つけたんですよ」

 ハーストさんのお父さんにとって、自分が鉱物学部長になることより、いい石を見つけたことの方が大事なのかもしれません。自分が本当に心底楽しいと思っていることを続け、そしてそれが他の人たちにも認められていく、そんな幸せな人生がここに描かれていると思います。

 絵はとても素朴で、ハーストさんのお父さんの人生をへんに思い入れもなく、たんたんと描写しています。それはまた、ハーストさんのお父さんの人柄そのものを映し出しているかのようです。

 また、ページのあちこちに、ハーストさんのお父さんが集めていたいろんな石のイラストが散りばめられています。名前が記されているものもあります。白雲母やガーネット、ほたる石、石英、方解石……。

 ほかにも、T型フォードの集めた部品やチェスの駒、石をみがく歯ブラシなど、日常の細々としたもの、でもハーストさんのお父さんの思いが表れているもののイラストも置かれていました。これもまた、小さくても自分が大切にしていることをずっと続けていくというこの絵本のモチーフと密接に結びついているように感じます。

 ハーストさんのあとがきによると、お父さんは、博物館の鉱物学部長になったあと働きながら大学に通い、その後、ジョンソンさんが退職したあとにスプリングフィールド科学博物館の館長に就任したのだそうです。

 そんなお父さんをハーストさんは次のように書いています。

父が情熱をかたむけたのは、石や鉱物だけではありませんでした。「学ぶ」ということそのものをこよなく愛し、尊重していたのです。

 まわりから何と言われても、一つのことに情熱をかたむけ学び続け、そしてそれが自分の仕事にもなる。こうした生き方は、大人にとっても一つの理想かもしれません。

▼キャロル・オーティス・ハースト 文/ジェイムズ・スティーブンソン 絵/千葉茂樹 訳『あたまにつまった石ころが』光村教育図書、2002年

長 新太『ゴムあたまポンたろう』

 「ゴムあたま」に「ポンたろう」?、この絵本、タイトルに引かれて手に取りました。表紙には、気を付けの姿勢をした丸坊主の男の子が横になって宙に浮いています。

 ページをめくると、冒頭からいきなりナンセンス・ワールドに突入。

とおくの ほうから おとこのこが とんできました。
あたまが ゴムで できている
「ゴムあたまポンたろう」です。
やまに ポン! と ぶつかると、
ボールのように とんでいきます。

 「どこから来たの?」「どうして飛んでるの?」「なぜ頭がゴムなの?」、読んでいる方のアタマのなかもゴムみたいにぐにゃぐにゃになってきます。もうこの不思議な世界に身をゆだねるしかありません。

 この「ポンたろう」、ずっと直立不動で無表情、気を付けの姿勢のまま、グングン飛んでいき、おかしなものにどんどん当たります。大男の頭に生えた野球のバットとかお化けのお父さんの頭、木々にはバレーボールのボールにされ、ハリネズミにはサッカーのボールにされます。ゴムのあたまはどんなものに当たっても痛くないんだそうです。

 おかしいのは、全体を通じてとってもナンセンスなのに、妙に論理的なところ。たとえば、花はやわらかいから当たっても飛んでいくことができないとか、アタマの当たるいいところを探していたりとか、針に刺さると飛んでいけなくなるとか、言われてみればたしかに筋が通っていて、それがおかしい。

 絵は、全編にわたってオレンジやピンクのカラフルな蛍光色が使われ、桃源郷のようなあやしい雰囲気をかもしだしています。そういえば、古いお寺のはるか上空を「ポンたろう」が飛んでゆく場面もありました。

 一見したところ無表情にみえる「ポンたろう」ですが、微妙に表情があるのがまたおもしろい。たとえばバラの花が咲いているところでは、目を閉じてバラの香りを楽しんでいるようだし、バラの棘やハリネズミの針が出てくるとまゆを少しだけしかめています。

 最後に「ポンたろう」はゴムの木に抱かれて眠ります。遊び疲れた子どもが気持ちよく寝ている、そんな感じで、やさしい気持ちになります。

▼長 新太『ゴムあたまポンたろう』童心社、1998年

読み聞かせの楽しみ

 絵本と育児本をテーマとしたウェブログ、OKI*IKU Note「『読むこと』は目的じゃない」という記事がありました。

「これはいい絵本だ!」自分が読んで感動した絵本ほど、子どもにちゃんと見てほしいとはりきってしまいます。しかし子どもは大人の思うようには絵本を見てくれません。
[中略]
「読んでほしい」という思いが強ければ強いほど、親としてはイライラしてしまいがち。けれど『赤ちゃんと脳科学』(小西行郎:著/集英社新書/2003/05)という本の中で読み聞かせについて書かれた文章を読んで、「絵本を読むこと」が読み聞かせの目的ではないのだなと気づきました。
[中略]
大切なのは絵本を読むことそれ自体よりも、それを使いながらどうコミュニケーションするかということ。

 たしかにそうだなあと思いました。私も、ついつい自分の都合で絵本を選んだり、子どものことを考えないで読み聞かせをしているなと少し反省。

 読み聞かせのとき、うちの子どもはたいてい、私のひざの上に座っているか、ふとんのなかでとなりに横になっているんですね。だから、子どもの表情が見えなくなりがちだなとあらためて思います。

 また、同じ絵本を二人で読んでいるとはいっても、子どもはやはり絵本の画面全体を見ていて、読み聞かせをする私はどうしても文章の文字を追ってしまいます。そうすると、見ているものも違ってきます。

 でも、見ているものが違うから、いろいろ子どもと話しができることもあります。私が気が付かなかったディテールを教えてもらったりもします。これも、一つのコミュニケーションかなと思います。

 最近は私も、読み聞かせをしながら、なるべく子どもの表情を見るようにしています。ニコニコと楽しそうにしていたり、「おもしろいねー」って笑っていたり、はっと緊張していたり、そんな子どもの様子が伝わってきます。そうなると、自分もいっしょになって絵本を楽しめるような気がします。

武田英子/清水耕蔵『八方にらみねこ』

 まずは、裏表紙と一つになった表紙の絵が目を引きます。目をぎりっと見開き、口をぐっと一文字に結び、両手足をしっかりと踏みしめたねこ、まわりはメラメラと赤黒く燃え上がる炎、そして、白く筆で書いたように荒々しい「八方にらみねこ」のタイトル。

 この表紙からもうかがえますが、物語は日本の昔ばなしのスタイルをとっています。「じいさ」と「ばあさ」に拾われた子ねこの「みけ」。「じいさ」と「ばあさ」はおかいこを飼っているのですが、ねずみに食い荒らされてたいへん困っていました。そこで、「みけ」は、ねずみからおかいこを守ろうとするのですが、まったく歯が立ちません。

「ねこだと いうのに、こんな ことでは
なさけない。ねずみどもが こわがっていた
やまねこさまに、 にらみの じゅつというのを
おそわろう。」

 こうして、「みけ」は「やまねこさま」のもとで厳しい「にらみの しゅぎょう」に入ります。

 この絵本は、絵もまた純和風。とくに修行の場面の描き方はたいへんな迫力です。「やまねこさま」が登場するところでは、まるで歌舞伎の隈取りをしたような顔だけが黒い画面に浮かびます。そして、ごうごう燃えさかる炎のなか、「みけ」の顔つきがだんだんと引き締まっていく様子が、黒と赤を基調にして強烈に描きだされています。

 それから、この絵本では遠景の使い方も印象的。

 たとえば最初の場面、子ねこの「みけ」が登場するところ。雪の降る山里の景色が2ページいっぱいに広がり、その右下に本当に小さく、とぼとぼと歩く子ねこの姿が描かれています。子ねこの真上の木の枝には赤い葉が一枚だけ残っており、それが、モノクロのような画面のなかで目を引きます。

 あるいは、「みけ」が「やまねこさま」に「にらみの術」を教わろうと山に分け入っていくところ。ここでも、2ページいっぱいに暗く深い山々が黒々と描写され、「みけ」は左ページの上の方にごく小さく描かれています。それは「みけ」の無力さを表していて、と同時に、それでも前を向いて山を登っていく姿に「みけ」の強い決意が伝わってきます。

 もう一つ新鮮に感じたのは、「みけ」の修行が終わって「ばあさ」と「じいさ」のもとに帰るときの場面転換です。

 修行の場面は黒と赤、そして「みけ」が「にらみの術」を身につけたシーンでは、左ページのはしから光が差し込むように描かれています。ページをめくって「みけ」がうちに戻るシーンになると、黄色や緑やピンクを使い、春の山々があたたかく明るく鮮やかに描写されています。読み聞かせをしていて、この色の移り変わりには、ほっとため息が出ます。

 文を担当された武田英子さんのあとがき(「この物語について」)には、養蚕が日本人の生活や社会を支えてきたことにふれ、次のように書かれていました。

美しい絹の糸を吐くおかいこが元気に育ってくれるようにと、人々は、日夜見守り、心身をつかい、とりわけ主婦の働きは大きいものでした。
[中略]
今日では、いろいろな化学繊維が開発され、この物語のじいさやばあさが経験したような養蚕の苦労は、だんだん忘れられていくようです。だからこそ、そのことを伝えたくて、清水耕蔵さんの絵に託して、この絵本を心をこめてつくりました。

 たしかに、この絵本、絵のすばらしさはもちろんですが、養蚕という人びとの営みを伝えていることも大事ですね。絵本をもっぱら教育のためのものとは思いませんが、でも、絵本を通じて人びとのさまざまな営みや世界について知ることができるなら、それは、子どもにとって(また大人にとっても)有意義と思います。

 ただちょっと考えてしまうのは、読み聞かせをしている大人自身の生活体験が貧弱かもということです。たとえば、うちの子どもも「じいさ」と「ばあさ」が働いている場面を見ながら「おかいこさまって何?」と聞いてくるのですが、私自身、養蚕のことを実地に知っているわけではありません。子どもに話せることは、どうしても頼りないものになってしまいます。

 そんなに難しく考えなくてもよいのかもしれません。でも、この絵本の読み聞かせをしながら、これでいいのかなあ、なんて少し気になりました。

▼武田英子 文/清水耕蔵 絵『八方にらみねこ』講談社、1981年(新装版:2003年)