木村裕一/あべ弘士『あらしのよるに』

 あらためて説明する必要もない超有名シリーズの第一作目。うちの子どもにはまだ難しいかなとも思ったのですが、図書館から借りて読み聞かせをしました。けっこうおもしろかったようです。

 荒れ狂う嵐の夜、ヤギとオオカミが小さな小屋でいっしょになります。暗闇でしかも2匹とも風邪をひいていて匂いが分からず、相手がオオカミ/ヤギであることに気が付きません。そのためもあって、(誤解しながら)なぜか話が合ってしまい、互いに意気投合します。

「なんか、わたしたちって、にてると、おもいません?」
「いよっ、じつは おいらも いま、きが あうなあ~って。」
「そうだ。どうです、こんど てんきの いいひに
おしょくじでも。」
「いいっすねえ。ひどい あらしで さいあくの
よるだと おもってたんすけど、
いい ともだちに であって、こいつは
さいこうの よるかも しんねえす。」

 というわけで、次の日のお昼に小屋の前で待ち合わせをすることにして2匹は別れます。合い言葉は「あらしの よるに」。

あくるひ、この おかの したで、なにが おこるのか。
このはの しずくを きらめかせ、ちょっぴりと かおを
だしてきた あさひにも、そんなこと、わかる はずも ない。

 これがラスト。読み聞かせが終わると、うちの子どもはとたんに「えーっ、続きは? 続きは? 続きはないの?」と聞いてきました。続きがあることを教えると「読みたい! 読みたい!」とせがんできました。うん、うん、私も読みたい。

 実は私もこのシリーズははじめて読むので、このあとどんなふうにストーリーが展開するのか、まったく知りません。というわけで、来週以降、子どもといっしょにシリーズの続編を順々に読んでいこうと思います。

 で、この第一作目についてですが、まず、読み聞かせのしがいのある絵本だなあと思いました。というのは、ヤギとオオカミでセリフの口調がはっきりと違うんですね。どちらかというとヤギはていねいな口調で、これに対し、オオカミは少しくずれた感じの口調になっています。だから、読み聞かせのときも、このセリフの表現の違いに合わせて、(ヤギは少し高い声でオオカミは逆に低い声にするとか)声音を工夫できます。子どもにとっても、内容上少しむずかしいところがあっても、口調と声音の違いは分かりやすいし、楽しめるのではないでしょうか。

 絵は黒を基調としており、暗闇での出会いを印象深く描写しています。モノクロページもありました。基本的にどのページも、見開きの右ページにヤギ、左ページにオオカミを配置し、まんなかに文章がおかれていて、この文章の部分がヤギの絵とオオカミの絵を分断しています。これは、ヤギとオオカミの楽しい(?)会話と、でも両者が本当のことを知らない様子をあざやかに表しているような気がします。

 また、ストーリーと密接に結びつき、絵もとてもスリリングな展開になっています。たとえば、最初の見開きページ、文章では嵐のなかヤギが小屋にたどりついたことだけが書かれているのですが、絵では左ページのはじにオオカミの姿がすで描かれています。ここのオオカミは暖色系の色になっており、その上空の雨もまた暖色系でちょっと見たところでは(文章にオオカミが出てこないこともあり)オオカミの存在には気が付かなかったりします。私も最初、見落としました。

 そして、オオカミが小屋に入ってくる場面では、最初はオオカミが使っている杖だけ、ページをめくるとオオカミの足と口、さらにめくった次のページでついにオオカミの顔が現れるようになっています。文章のなかでも、オオカミの顔が出てくるのと同時にオオカミという言葉がはじめて使われており、なかなかスリリングです。

 それから、先にふれた、見開き2ページでヤギとオオカミの絵が分断されていることですが、一つの絵のなかにヤギとオオカミがいっしょに描かれるのは4回だけかと思います。そのうちの3回は、オオカミの足がヤギの腰にあたったり、稲妻の光で小屋のなかが昼間のように明るくなったり、雷の音で2匹が体を寄せ合ったりと、互いの正体を知ってしまうかもしれない緊迫した場面です。4回目は、結局互いの正体を知らずに2匹が左右に別れていく場面です。

 この絵の構成は、ヤギとオオカミの間の気づきそうで気づかない会話の妙とともに、物語のスリルを高めていると思いました。

 ともあれ、この絵本、続きが本当に楽しみです。なるべく続編の情報をインプットしないで、できるだけ真っさらなまま子どもといっしょに読んでいこうと思います。

▼木村裕一 作/あべ弘士 絵『あらしのよるに』講談社、1994年

つちだのぶこ『カリカリのぼうしやさん』

 この絵本の主人公、「カリカリさん」はハリネズミの帽子屋さんです。お店の帽子はみんな手作りでとても人気があり、いつもお客さんがいっぱい。そんなある日の真夜中のこと、「カリカリさん」がふとんに入ってうとうとしていると、なんと三日月のお月さまが訪ねてきました。

「ふゆのよるは、とてもさむいの。
あったかいぼうしを つくってくれないかしら」
と、おつきさま。

 そこで、「カリカリさん」はお月さまのサイズを測り、帽子づくりに取りかかるのですが、三日月だったお月さまはどんどん太っていきます。いったん完成した帽子も小さくて合いません。困ってしまった「カリカリさん」は、お月さまが太ってもやせても大丈夫な帽子を考えます。

 この絵本、まずはディテールがとてもおもしろい。お店のなかには、いろんな形と色の帽子や手袋があり、毛糸やアクセサリーも売られているようです。なかには、「ムカデのくつした」(18個で1足!)なんてものまであって、なかなかにぎやかで楽しい雰囲気です。

 また、「カリカリさん」は頭のかたちがどんなお客さまでもぴったりの帽子を作ってくれるのですが、たとえばうさぎさんはその長い耳を石こう(?)で型どりしたり、トナカイさんには横になってもらって角のかたちを紙に写したりと、いろいろ工夫している様子がユーモラスに描かれています。じっさいどんな帽子が完成したのかは、うしろの方のページで見ることができます。

 それから、いろんな小物がたくさん描き込まれています。頭のかたちやサイズを記したノート、ベッド脇の机に置いてあるスケッチブック、壁には帽子のデザイン画が貼ってあります。いろんな色や模様の生地、たくさんの毛糸玉、型紙や編み棒や裁縫道具、筆記具やハサミやメジャーや定規など、じっさいに帽子を作るための材料や道具もいっぱい出てきて、他にも、帽子を入れる箱やデザインの文献、仕上がり日を記したノートまであります。こういったたくさんの小物は、「カリカリさん」が充実して働いていることをリアルに物語っているように思います。

 そして、「カリカリさん」が楽しく働きながら、同時に困ったり嘆いたり文句を言ったりしているところもおもしろい。つちださんの他の絵本と同じく、この絵本でも、印刷された文章以外に手書きのセリフがいっぱい書かれていて、たとえば「なんだか いそがしいねぇ」「んまっ、もうねなくちゃね」「はかるのが たいへんだわ、こりゃ」「もう、なんで まいにち ふとるのっ?!」「ハァ たいへんだ こりゃ」とか出てきます。

 働くことを描いた絵本(仕事絵本)はたくさんありますが、たいてい、自分の仕事にいっしょうけんめい真面目に取り組む姿を描いたものがほとんどと思います。でも、ただもくもくと働くなんてことは現実にはあまりないわけで、いろいろ問題にぶつかって「いやんなるよなあ」とか「やってられないよー」と愚痴や文句を言いながら仕事をするのが普通でしょう。その点からすると、この絵本は、従来の仕事絵本の枠をちょっとだけ越えているような気がします。

 キャラクターもストーリーも基本的にはファンタジーなのですが、いっしょうけんめい働いていろんな問題にぶつかり、それに文句を言いながら最後にはいい仕事をする、そんなことが描き出されているように思いました。

 この『カリカリのぼうしやさん』は、つちださんの第一作目の絵本。ところが、非常に残念なことに、現在、出版社に在庫がなく購入することができません。偕成社のウェブサイトでそのように表示されていました。私はこの絵本をはじめ図書館で見つけたのですが、とてもよかったのでぜひ購入したいと思ったときにはすでに在庫なしになっていました。どうしてこんなに楽しい絵本が手に入れられないのか、なんだか悔しいです。この絵本は1998年刊行ですから、そんなに古い絵本でもないのです。

 最近は、つちださんも、斎藤孝さんが文を担当した『おっと合点承知之助』で広く注目されているように思います。この機会にぜひ『カリカリのぼうしやさん』を(そしてシリーズ続編の『マニマニのおやすみやさん』も)復刊してほしいです。

▼つちだのぶこ『カリカリのぼうしやさん』偕成社、1998年

片山健『タンゲくん』

 ある日の晩ご飯のとき、小学生の「わたし」の家にのっそりと入ってきた一匹のネコ。それが「タンゲくん」です。この絵本では、その「タンゲくん」と「わたし」のかかわりあいが描かれています。

 この絵本で魅力的なのは、なにより「タンゲくん」のたたずまい。

 絵本に登場するネコというと、きれいで人なつこくてかわいいネコを思い浮かべるもしれませんが、「タンゲくん」はまったく正反対。表紙と裏表紙で一枚の絵になった「タンゲくん」をみても、世間一般で言うところのかわいさとは無縁です。名前のとおり、左目は大きな傷跡でつぶれていて片目、右目でぎょろりにらんでいます。毛並みもぼさぼさで、トカゲやバッタや気味の悪い虫を取ってきては「わたしたち」を驚かせます。お世辞にもきれいとは言えません。

 しかも、人にこびるところがありません。「タンゲくん」は一応「わたし」の家のネコになるのですが、でも完全に飼い猫になるわけではありません。たとえばこんな感じ。

わたしは タンゲくんが だいすきです。
だから わたしは いいます。
「タンゲくんは わたしのねこだよね」
でも そんなとき、タンゲくんは「カ、カ、」と
へんなこえで ないて、すっと そとへ でていって
しまいます。

 「わたし」が外で「タンゲくん」に会っても、「タンゲくん」は知らんぷりしたり隠れたりします。声をかけても、他のネコといっしょにどこかに逃げてしまいます。

 そんな「タンゲくん」ですが、どこかにくめないんですね。まちでネコのケンカの声がすると、「わたし」は「タンゲくん」じゃないかなと心配になります。夜になると「タンゲくん」は家に帰ってきて「わたし」の上でまるくなります。「わたし」は「タンゲくん」を起こさないように、いつまでもじっとしているのです。

 この「タンゲくん」と「わたし」の関係は、適度な距離がありながら、しかし深いところで通じ合っているようで、魅力的です。ベタベタしているだけより風通しがよくて、こういう関係が絵本のなかに描かれるのは、子どもにとっても(大人にとっても)けっこう大事なんじゃないかなと思いました。

 また、そもそもネコは(野良ネコならなおさら)そんなに人なつこくないのが普通と思います。だから、へんにかわいく描かれたネコより、この絵本の「タンゲくん」の方がよほどリアルに感じます。

 もう一つ、この絵本で気になったのが、「わたし」のお父さんとお母さん。この二人の関係もなかなか良いです。細かなところですが、たとえば、晩ご飯の場面でお父さんがお母さんにビールをついでいたり、別の場面ではお父さんが台所に立って炊事か晩ご飯の後かたづけをしている姿が描かれています。これらは物語の背景にすぎず、さりげない描写なのですが、「わたし」の家族の居心地のよさが伝わってきます。こんなお父さんとお母さんだからこそ、「タンゲくん」がはじめて家にやってきたときも何も言わずに受け容れたんじゃないかなと思いました。

 絵はあざやかな水彩で、まずは「タンゲくん」がど迫力です。また、「わたし」が「タンゲくん」のことを心配したり気にかけたりする様子が繊細に描き出されていて、その気持ちの動きがよく伝わってきます。

▼片山健『タンゲくん』福音館書店、1992年

いとうひろし『どろんこ どろちゃん』

 子どもは土いじりが好きですね。私の子どももそうで、砂場遊びとかけっこう好きです。でも、近くの公園(というほどのものでもないですが)の砂場は、カンとかビンとかプラスチックのかけらとか、いろいろゴミが捨てられていて、あまり安心して遊べません。幼稚園では存分に土いじりを楽しんでいるようですが。

 この絵本、そんな土いじり、どろんこ遊びの楽しさを描いています。といっても、登場人物(?)は子どもではなく、どろんこの「どろちゃん」、つまり、どろそのものです。頭も手足もあって、眼と鼻と口、それからボタン(?)のようなものも付いていますが、すべてがどろで出来ていて、全身どろ色です。

 まず、「どろちゃん」の作り方。

ぼくの つくりかたは かんたんだよ。
つちを コップに 5はい。
みずを コップに 2はい。
よく かきまぜて、
よく こねて。
はい、できあがり。

 この文章の付いている絵では、「どろちゃん」自身がどろの入った容器のなかに立って自分でかき混ぜています。よく考えてみると、なかなかシュールな絵柄です。

 どろんこ遊びでは、もちろん、土と水のバランスが大事。水が少なすぎても多すぎても、うまく「どろちゃん」はできません。そのあたりをこの絵本では、筆(?)のタッチの違いで印象的に表現しています。土が固すぎてぽろぽろの「どろちゃん」はザラザラしたタッチで描かれ、逆に水分が多すぎてべちゃべちゃの「どろちゃん」は水をたっぷり含ませてぺったりと描かれています。

 どろんこを落としたり投げたりしてドカーンと爆発する様子や、足でけってピュッピュッとどろはねする様子も、「どろちゃん」のアクションと筆使いで表されていて、これもおもしろい。

 そして、どろんこ遊びの一番の楽しみといえば、どろ団子。この絵本は、「どろちゃん」がころころ転がってどろ団子になり、それを子どもの手が上からつかもうとするところで終わります。このラストからは、「さあ、どろんこ遊びを楽しもう!」という誘いのメッセージがよく伝わってきます。

 あと、この絵本ですごいなと思ったのは、どうやら指を使って描かれているところです。全部かどうかはちょっと分かりませんが、画面のあちこちに作者のいとうさんの指紋が付いています。表紙・裏表紙の見返しは、いとうさんの指紋だらけ。絵の具(もしかして本物のどろだったりして?)を指に直接つけて、真っ白い画面に「どろちゃん」を描いていく、これ自体、一種のどろんこ遊びかなと思いました。まさにどろんこ遊びのように、楽しんでこの絵本は描かれたのかもしれませんね。

 カバーにはいとうさんからのメッセージがありました。引用します。

どろんこ あそびは
たのしいね
ぎゅっと にぎれば
ゆびの あいだを
どろんこが どろどろ
きみも どろんこあそびを
やってみよう
きっと どろちゃんと
ともだちに なれるよ

▼いとうひろし『どろんこ どろちゃん』ポプラ社、2003年

いちかわなつこ『リュックのおしごと』

 実は私、子どものころパン屋さんになりたいと思っていた時期がありました。パン屋さんのあのにおいがとても好きだったのです。もはや、こんなオヤジには似合わない話ですが(笑)。

 そんなわけで(どんなわけ?)、この絵本の舞台はパン屋さん。リュックは、「まちいちばん おいしい パンを つくる」ジーナの飼っている黒いぬです。この絵本では、ジーナとリュックが朝おきて、パンを焼き、お店を開けるまでの様子が描かれています。

 タイトルで「おしごと」といっているのは、お店をあけるまでにリュックもいろんな「しごと」をするからです。ねぼすけのジーナを起こしたり、開店前のショーウインドーのチェックに、焼きたてパンの味見、やってきたお客さんのお出迎えと大活躍します。

 このリュックがとにかくかわいい。ぱたぱたとしっぽをふったり、ちょっとした仕草もよいです。焼きたてパンの味見のシーンでは、

ばりばり。むしゃむしゃ。
ああ、なんて しあわせな しごと!

なんて文章がついています。食べているリュックの表情をみていると、なんだかうらやましくなります。

 それから、この絵本では、パン屋さんの開店前の仕事が割と具体的に描かれていて、これもおもしろいです。ジーナの得意なシナモンロールについては、材料を混ぜるところから焼き上がるまで、一つ一つのステップが詳しく描写されています。このあたりは、子どもにとって(また大人にとっても)興味が引かれるところと思います。

 また、ジーナのお店では、パン職人のトマや接客のアンも働いていて、みんなで仕事を分担し協力して店を運営している様子がうかがえます。

 絵は、とてもあたたかみのある色調で、まちがだんだん明るくなって色合いが変化するところも丁寧に描かれています。焼き上がったパンを並べたお店の様子は、本当にパンの香りが広がってきそうです。描かれているパンは種類も豊富で、どれもとてもおいしそう。絵を見ているとパンが食べたくなってきます。

 店内をよーく見ると、たなのすみに「ジーナつうしん No.12」というチラシがかかっていて、リュックのイラストも付いています。工房ではパンを作るための機械や道具もきちんと描き込まれ、壁には手を消毒するためのアルコールも置いてあって、こういう細部の描写も魅力的。

 また、表紙と裏表紙の見返しには、シナモンロールをはじめとして、いろんなパンのイラストもあって、これも楽しい。

 私はこの絵本、かなり好きです。うちの子どもも読み聞かせを楽しんでいました。けれども、どうしても気になることが一つだけあります。それは、お話の舞台についてです。

 この絵本の舞台は、まちなみや登場人物をみるかぎり、日本ではありません。そういえば、ジーナの寝室にはイタリアの暖房器具デロンギがあって、机の上には映画『アメリ』のCDかDVD、壁にはトリュフォー監督の映画『突然炎のごとく』のポスターが貼ってあります。

 ところが、工房に貼ってあるメモや容器のラベルはほとんどが日本語、お店で売られているパンの値札もすべて日本語。そのなかに「カレーパン」もあったのですが、(間違いかもしれませんが)「カレーパン」なんて日本にしかないような気がします。しかも、ジーナの本棚には「えいわじてん」「こくごじてん」「わえいじてん」まで揃っています。

 ここは外国なんだろうか、それとも日本なんだろうか、もしかしてジーナは実は日本人で外国のまちでパン屋さんを開いているという設定なんだろうか、と?マークが浮かんできます。

 作者紹介によると、いちかわさんは、日本のパン屋さんでアルバイトをされていたとのこと。であれば日本を舞台にして描かれてもよいような気がします。なぜヨーロッパならヨーロッパ、日本なら日本と舞台を統一しないのか、ちょっと不思議です。

 もちろん、字が読めない子どもからすると、そんなに気にする必要はないかもしれません。また、パンの値札とかは日本語の方が親しみやすいことはたしかです。でも、読み聞かせのとき子どもに聞かれたらなんとも答えようながないなあと思いました。

 そんなに気にする必要はないんでしょうが、ただ、この絵本では朝のパン屋さんの様子が割と具体的でリアルに描かれていて、だから上記のようなことが特に目立つのかもしれませんね。

▼いちかわなつこ『リュックのおしごと』ポプラ社、2002年

『絵本の素』

 インターネットをさまよっていたら、おもしろいものを見つけました。
 個性的な絵本を出版されているビリケン出版から昨年(2003年)の12月に刊行された『絵本の素』です。

 案内文を引用します。

この本は「ビリケン出版」から出ている絵本と同じサイズ、同じページ数です。
表紙、見返し、扉と続き いよいよ本編のはじまりです。ルールは 何もありません。
さあ まっ白な世界に はじめの一歩を踏み出しましょう。

 これ、表紙も裏表紙も見返しも本文も何も描かれていない真っ白い絵本です。つまり、表紙からはじまってすべて自分だけの手作り絵本を作ることができるわけです。

 子どもといっしょに絵本を描いてみたりとか、楽しい使い方がいろいろ考えられそうです。上製本(サイズは260×220㎜)で全部で32ページあるので、かなり本格的な絵本作りもできますね。絵本に関するサークルや学校や図書館などのワークショップで使ってみてもいいかもしれません。

 ちょっと思ったのですが、何も描かないまま持っていても、なんだか楽しそうな気がします。真っ白い絵本をぱらぱらめくってみる、まだこの世にない絵本を想像してみる、それ自体が楽しいかもです。

 あるいは、この白い絵本をじっさいの描かれた絵本を比べてみることで、絵本の表現の技法をあれこれ考えられそうな気もします。

 この絵本、帯はついていて、スズキコージさんが帯のタイトル字と絵を描かれています。サイトの写真をよーくみると、帯の右下には「オンリーワン・アート・ブック」の文字があります。なるほどなーって感じです。

 サイトのニュース記事では、「素敵なのが出来たら見せて下さい? 楽しみにしています」とも書かれていました。本当に受け付けるのかな? もしかして、この『絵本の素』をきっかけに新人絵本作家さんが生まれたりするかもしれませんね。こういう遊び心あふれる企画、なんか、いいです。

▼『絵本の素』ビリケン出版、2003年

長 新太『絵本画家の日記2』

 先日の記事に引き続いて、長 新太さんの『絵本画家の日記2』です。絵本ジャーナル『Pee Boo』10号から30号(1992年10月から1998年11月)に掲載されたものを加筆・再構成されたとのこと。

 この本は2003年刊行。『絵本画家の日記』が1994年刊行ですから、ほぼ10年ぶりに続編が公刊されたことになります。『絵本画家の日記』と比べて本の大きさがひとまわり小さくなり、なかの紙質も少し違うようです。カラーページはありません。前作と同じく、1ページに1日ずつ、長さんの手書きの文章とイラストが載っています。

 絵本をめぐる状況へのユーモアあふれる、しかし鋭い舌鋒はこの本でも変わりありません。たとえば

○月○日。ふつうの画家や、イラストレーター、漫画家など、つきあいはあるが、みんな絵本のことはよく知らない。おそらく、絵本を手にしたこともないだろう。彼らの頭にあるのは大昔の絵本だ。「そんな仕事、やめなさいよ」と言うイラストレーターもいる。さみしい1日。

○月○日。生真面目というのも困りものだ。良識派を自認しているから、正々堂々としている。児童書の選択なども、コンクリートで出来たようなものばかりえらぶ。たまに悪口も書きたくなるよ。「ナンセンスに感動がありますか?」なんて詰問する。あるのでゴジャリマスヨーダ。

○月○日。「質はともかく、売れるものをつくるのが、いい編集者ですよ」と、ある編集者が言う。「質はともかく、売れるものを描くのが、いい絵本作家ですよ」と、ある絵本作家が言う。「質なんかわかりません。売れてるものを買うのが、わたしたちです」と、ある母親が言う。

 消費者である私たち自身が問われているような気がします。

 と同時に、前作以上に、長さんの日常や身のまわりの出来事に対する独特のコメント、夢かうつつか分からない不思議な記述もいっぱいあって、とてもおもしろかったです。

 ただ、なんとなく老いや死を意識したところがあり、それもまたユーモアを含んでひょうひょうとしているのですが、少しさみしい気持ちになりました。

▼長 新太『絵本画家の日記2』BL出版、2003年、定価(本体 1,000円+税)

長 新太『絵本画家の日記』

 この本は、絵本画家9人(長さんもその一人)が編集に携わった絵本ジャーナル『Pee Boo』の連載をまとめたもの。日付はどれも「○月○日」と記されていますが、1ページに一日ずつ長新太さんの手書きの文章とイラストがつき絵日記のようになっています。カラーページも8ページくらいあります。

 中身は長新太さんの絵本と同じくユーモアにあふれているのですが、それ以上に、いまの絵本と絵本画家さんのおかれた状況をたいへん鋭く辛辣に語っています。

 まず、絵本編集者との戦い(?)の様子。たとえば、酒に酔った編集者にはこうからまれます。

「チョーさんは、編集者は絵がわからないバカなヤツ、と思ってるでしょ? ええ、ソーデスヨ、ヨーデスヨ。ゲージツなんて、どうでもいいやい! そんな絵本は売れないんだから。カワユーイ、アマーイ、なめたくなるような絵が一番いいのだ! そういったセンセイがたの絵本が売れて、もうかっているから、チョーさんみたいな人の絵本もわが社から出せるのよ。ありがたいと思いなさい。コラッ。こちらにいるセンセイは(注・女の人)売れる絵を描くセンセイですよ。チョーさん、最敬礼しなさい!」

 この文についているイラストでは、チョーさん(長 新太さん)が地面にゴツンと頭をぶつけて「最敬礼」している様子が描かれています。

 『Pee Boo』に、絵本の編集者や営業の人に意見を書いてもらおうとして苦労する様子も語られています。

 そして、絵本と絵本画家の社会的な地位の低さ。たとえば

○月○日。コマーシャルの仕事をしているイラストレーター曰く「はじめて絵本の仕事をしたけど、ギャラがメチャクチャ安いんでおどろいたよ。チョーさん、よくやってるねえー」1枚描けば、たちどころに絵本1冊ぶんのギャラが入るコマーシャルの世界。こちらは、子どものためにグワンバッテイルノダ!などと思うんだけど… なんかさみしい1日。

○月○日。つい最近、若いイラストレーターと、やり合ってしまった。若もの「ボクも、チョコチョコと、絵本をやってみたいんですけど、どっか、紹介してくださいよ」わたし「チョコチョコとはなんだ!」若もの「だって、子どもの本を見ると、チョコチョコもんばかりじゃないですか」わたし「チョコチョコ、チョコチョコと、チョコレートじゃないぞ、バカ!」――子どもの本の絵は、チョコレートみたいに甘く、そして苦いのであります。どこからか哀しい音楽がきこえてくる夕暮れ。

 その一方で、子どもの描いた絵に衝撃を受けたり、なにものにもとらわれず自由に描こうという一徹な姿勢も日記の記述からうかがえました。

 長 新太さんのように日本を代表する絵本画家の方ですら、絵本をとりまく無理解・無関心、孤独と苦悩のなかで格闘されていることが、ユーモアにくるまれながらも、ひしひしと伝わってきます。絵本に関心のある方には、ぜひぜひ一読をおすすめします。

 ただ、とても残念なことに、この本は現在、品切れ中。BL出版のウェブサイトで検索したらそう表示されました。私も図書館から借りて読みました。このあたりにも、絵本をとりまく状況のきびしさが現れているような気がします。昨年(2003年)には『絵本画家の日記2』も刊行されたことですし、この機会に、この『絵本画家の日記』も復刊してほしいところです。

▼長 新太『絵本画家の日記』BL出版、1994年、定価 1,121円
※残念ながらこの本は現在品切れのようです。

飯野和好さん関連のウェブサイト

 チャンバラ時代劇絵本で有名な飯野和好さん関連のウェブサイト。検索してみたら、以前ふれた飯野和好痛快活劇ビデオのサイトのほかにも、いろいろと関連サイトがありました。

 まず、月刊誌『こどもの本』2001年5月号から1年間掲載されていた、飯野さんのエッセー「あぜみち話」。この雑誌は日本児童図書出版協会から刊行されているのですが、連載の第一回最終回がウェブ上で読むことができます。

 第一回のエッセーによると、『ハのハの小天狗』は飯野さんが絵本の世界に本格的に入ることになったきっかけの絵本とのこと。また、「ハのハの」の名前の由来も書かれていました。

 最終回では、江戸時代の渡世人の格好(股旅姿!)をして日本全国で読み語りをしていることにもふれられています。

 この連載、タイトルは飯野さんの手書き、たぶん子どものときの飯野さんを描いたイラストもあり、なかなかおもしろいです。機会があったら『こどもの本』のバックナンバーで他の回のエッセーも読んでみたいと思いました。

 続いて、『愛媛新聞』愛媛CATVで放送している「愛媛新聞きゃっちMAT.」「特集 絵本作家・飯野和好ワールド(上)」。これは2001年12月10日に放送されたもので、動画とテキストの両方が掲載されています。

 動画の方では、飯野さんが松山市内での読み語り会で股旅姿で『ねぎぼうずのあさたろう その1』の読み語りをしているときの様子が見られます。いやー、本当に浪曲の読み語り。非常にしぶくて、また楽しそうです。

 インタビューでは、浪曲風絵本が誕生したときの経緯や渡世人の格好で読み語りをすることの楽しさ、チャンバラ時代劇絵本の魅力などを語られています。とくに絵本の魅力について話されているところは必見です。

 この「特集 絵本作家・飯野和好ワールド」の(下)は見つかりませんでした。残念。

 最後に、「絵本の世界を通してココロの冒険旅行をおすすめする架空の会社」絵本旅行社「ご報告まで。(原画展・絵本講座レポート)」にある「飯野和好 絵本原画展」のレポート。この原画展は2002年の7月から8月に宮城県の仙台文学館で開催され、『ねぎぼうずのあさたろう』をはじめとして5作品の原画とアイディアメモが展示されたそうです。原画にそえられた飯野和好さん自筆のメッセージも「絵本旅行社」のゆきなさんがメモされていて、読むことができます。『ハのハの小天狗』の試作本も展示されていて、じっさいに公刊されたものとは構図が違うとのこと。他の絵本も、原画と印刷されたものでは色調がかなり違うそうで、興味深いです。

飯野和好『ハのハの小天狗』

 飯野和好さんといえば、このウェブログでも以前取り上げた『ねぎぼうずのあさたろう』をはじめとするチャンバラ時代劇絵本の第一人者(?)。その飯野さんの最初のチャンバラ時代劇絵本がこの『ハのハの小天狗』だそうです。

 春もさかりの風もトロトロとあたたかいある日、みすずちゃんといっしょに学校から帰る途中、「ぼくたち」は忍者の一団におそわれます。思わず身構えた「ぼく」は、いつのまにか「ハのハの小天狗」に変身(?)、忍者の一団と戦いを繰り広げます。

 そんなわけで、この絵本では突然、時代劇に突入し、そしてまた突然、現代に戻るというとても不思議なストーリーになっています。「ぼく」や「みすずちゃん」が山の中で「ハのハの小天狗」や「みすず姫」に変身するところは、なんとなく子どものころのチャンバラ遊びを思い出しました。本気でサムライになったつもりで、「エイッ」「ヤアッ」と遊んでいた、あの感じです。

 絵は、たとえば現在の『ねぎぼうずのあさたろう』シリーズと比べると、筆のタッチや色使いが微妙に違っていて、なかなか興味深いです。文章も『ねぎぼうずのあさたろう』のように手書きではありません。現在よりはもう少し淡泊な感じでしょうか。だんだんとあの独特のこゆい作風が完成されていったのかなと思いました。

 とはいえ、もちろん、血湧き肉躍るチャンバラの楽しさとユーモアはこの絵本でもすでに確立されています。

 「タァーッ」「えーいっ、どうだっ」「トアーッ」「チェーイ」といったチャンバラのセリフの数々は読み聞かせでも思わず気合いが入ります。危機また危機の連続は、子どもも思わず身を乗り出します。

 とくにうちの子どもに大受けしていたのが、忍者の頭。「むふふふっ 小天狗やるな」と言って登場し、次から次へと手り剣をとばし、そして一言。

「ムッ
手り剣がなくなった」

 画面は、見開き2ページ、手り剣のなくなった両手を凝視する忍者の頭の上半身を下から仰ぎ見るような構図で、セリフは上述のものだけ。この間合いが実におかしい。

 また、忍者の一団は、緑色の服装といい、まんまるの胴体といい、どうみても木の実か野菜です。頭の上には葉っぱの付いた枝までくっついています。忍者の頭は、頭に漬けもの桶か何かをかぶっているみたいで、これも笑えます。

 そして、決戦の舞台はやはり峠。『ねぎぼうずのあさたろう』にも峠の決戦が何度かあったと思うのですが、峠というのは、向こうから何が現れるか分からないし、切り立った崖もあるし、何か不穏な雰囲気があるんですね。この舞台設定も飯野さんならではでしょうか。

 もう一つ、気になったのが、裏表紙やとびら、表紙・裏表紙の見返しに記されている手書きの謎の文字です。どうもローマ字のようなのですが、独特の字体でなかなか解読できません。『ねぎぼうずのあさたろう』など現在の飯野さんの絵本ではあまり見かけないのですが、こういうところもおもしろいですね。

▼飯野和好『ハのハの小天狗』ほるぷ出版、1991年