「絵本を読む」カテゴリーアーカイブ

ジュリア・ドナルドソン/アクセル・シェフラー『まじょとねこどん ほうきでゆくよ』

 三つ編みお下げの魔女がネコといっしょにほうきに乗って飛んでいると、とんがり帽子やリボンや魔法の杖が風に吹かれて下に落ちてしまいます。落とし物を見つけてくれたイヌやトリやカエルがほうきに乗り込むのですが、そのうち、ほうきは真っ二つに折れてしまい、みんな地面にまっさかさま。魔女にはドラゴンが迫ってきて……といった物語。

 ラストがなかなか楽しい。「かんぺきな まほうの ほうき」が登場します。うーむ、これはすごい装備。よく見ると、ほうきのおしりからは星が流れています。

 あと、この絵本は訳文がとてもリズミカル。まるで歌うような調子になります。大事なものを落としてそれを拾ってほうきに乗り込むという同じエピソードの連続にも、よく合っていると思いました。

 原書の刊行は2001年。

▼ジュリア・ドナルドソン 文/アクセル・シェフラー 絵/久山太市 訳『まじょとねこどん ほうきでゆくよ』評論社、2001年

フレッド・マルチェリーノ『ワーニー、パリへ行く』

 またまた「ワーニー」。うちの子どもは今日も「ワーニー」がパリで大スターになっている画面に大受けしていました。「ワーニー」、実に得意そうに踊っています。付けられている「ワーニー」のセリフとも相まって、なんともおかしい。

 ところで、この絵本の文章は「ワーニー」の独白だけで構成されています。そのため、訳文は口語体で、しかも割とくだけた表現が選ばれています。たとえば、文末表現は「~じゃん」「~さ」「~よ」といったものが多く、また「ちょ~ゆうめい人!」なんて言葉も出てきます。絵本の言葉遣いとしては珍しい方かもしれませんが、この絵本では「ワーニー」のコミカルな身振りや表情に合っていると思います。

▼フレッド・マルチェリーノ/せな あいこ 訳『ワーニー、パリへ行く』評論社、2004年、[書き文字:デザイン春秋会]

フレッド・マルチェリーノ『ワーニー、パリへ行く』

 エジプトで気楽な毎日を送っていたワニの「ワーニー」が、1799年のナポレオンのエジプト遠征とともにパリに連れてこられるという物語。「ワーニー」はパリで一躍スターになるのですが、その人気も長続きはせず、タマネギといっしょにワニ肉パイにされかかります。そこで「ワーニー」がどうするかが物語の結末。

 主人公の「ワーニー」がなかなかユーモラス。うちの子どもは「ワーニー」がパリで人気者になり得意になっている画面に大受けしていました。「ワーニー」、おかしなダンスまで踊っています。

 また、「ワーニー」は食べることにこだわりがあり、これもまた愉快です。たとえばこんなふう。

えさをおいかけて走りまわるなんざ、おいらに言わせりゃ、
さいあくだね。ひんってものがない。
えさなんて、むこうからやってくるのにさ。

 上記はエジプトでの暮らしの描写なのですが、最後はパリでもその暮らしを実現しています。なんともブラックなラストです。

 ところで、扉を見てあらためて気が付いたのですが、この物語は主人公「ワーニー」の手記という設定なのかもしれません。というのも、扉で「ワーニー」はメガネをかけて机にすわり(?)、紙を前にペンを口にくわえてなにやら考えているのです。こういう細かな描写もおもしろい。

 あ、もしかすると、この絵本は実話をもとにしているのかな。じっさいナポレオンはエジプトからワニをパリに連れてきたのかもしれませんね。原書の刊行は1999年。この絵本、おすすめです。

▼フレッド・マルチェリーノ/せな あいこ 訳『ワーニー、パリへ行く』評論社、2004年、[書き文字:デザイン春秋会]

たむらしげる『ランスロットのきのこがり』

 この絵本は「ロボットのランスロット」シリーズの1冊。「ランスロット」とネコの「モンジャ」がきのこ狩りに行くという物語。ただ、このきのこ、ただのきのこじゃありません。顔も手足もある「チョロきのこ」。自分で走って逃げていきます。巨大なお母さんきのこが現れたりして、結局、何も捕まえられずに家に帰った「ランスロット」と「モンジャ」。でも最後はクマの「パブロくん」も加わってみんなでおいしいきのこシチューを食べます。

 「チョロきのこ」の粉から普通の(?)きのこが生えてきて、それを料理するのですが、うちの子ども曰く「このきのこ、おいしそうだねえ」。いや、たしかに身体が暖まりそうなシチュー、うーむ、湯気も出ていていい感じ。あと、大きくなったきのこがテーブルとイスになっているのも、おもしろい。「あ、ほら、テーブルとイスになってる!」と、うちの子どもにも受けていました。

 たむらさんはCGで絵を描かれていると思うのですが、偕成社から出ているこの「ロボットのランスロット」シリーズは、以前にも増して表現が微細で細密になっているように思いました。たとえば物の影やあるいは画面の焦点なども表されています。近くのものはくっきり、背景のものはぼんやりとした輪郭で描かれており、あたかも3DのCG映画の一コマのよう。見ようによっては切り絵のような趣もあって、おもしろい。とはいえ、もちろん、たむらさんの絵本ならではの楽しい雰囲気はそのままです。一つの画面で情報量を増やすところと減らすところのバランスがたぶんポイントなんじゃないかなと思いました。

▼たむらしげる『ランスロットのきのこがり』偕成社、2004年、[ブックデザイン:高橋雅之(タカハシデザイン室)]

あべ弘士『雪の上のなぞのあしあと』

 今回もうちの子どもは謎の足跡の正体に大受けしていました。おもしろいよなー。でも、この正体、なかなかかわいいです。つぶらな瞳がまたよいです。

 ところで、表紙とその見返しまた裏表紙の見返しには、一匹の動物が描かれています。表紙では、動物園に向かっててくてく歩いているみたい。これはキツネかな。おそらく動物園のまわりにも北国の野生の動物たちが生息しているのでしょう。これもまた、北国の動物園の魅力の一つなのかもしれません。

 本文では宿直の仕事について次のように書かれていました。

まっくらで、まわりには いろんな どうぶつがいて、にんげんは ぼく ひとり。
こわいだろう、だって? とんでもない!
この しゅくちょくは ぼくの いちばんの たのしみなんだ。

ゾウ、ライオン、ヘビ、トリ……だいすきな どうぶつたちに かこまれている ぼく。
みんなは ぼくのことを にんげんの だいひょうと おもってくれている。
そして ひとばんじゅう はなしかけてくる。

 動物たちに対するあべさんの愛情がよく伝わってきます。

▼あべ弘士『雪の上のなぞのあしあと』福音館書店、1989年

クリス・バン・オールスバーグ『ジュマンジ』

 再び『ジュマンジ』。『ザガズー』のあとに読んだのですが、「じんせいって びっくりつづきですね!」という『ザガズー』の末尾の一文に対してうちの子ども曰く「でも、もっとびっくりするのがこっち」。

 今回もうちの子どもは、読む前に「[読んでいるとき画面を]絶対に近づけないと約束して!」と言っていました。で、最初わざと低い声で読んでみたら「普通の声で読んで!」と言われました。よっほど恐いんだな(^^;)。それでも、この絵本、読んでみたくなる魅力があるんですね。

 それはともかく、なんとなく思ったのですが、『ジュマンジ』では人の顔の表情がそれほど正面から描かれていません。後ろ姿が割と多いですし、上から見下ろす構図もけっこうあります。表情が分からないことが逆に画面の緊張感を高めていると思います。あるいは、顔の表情といった分かりやすいものではなく、画面全体で緊迫した雰囲気を表していると言えるかもしれません。

▼クリス・バン・オールスバーグ/辺見まさなお 訳『ジュマンジ』ほるぷ出版、1984年

クエンティン・ブレイク『ザガズー』

 うーむ、これはおもしろい! 子どもを育てそして老いていくことを非常に象徴的に描いた絵本。もしかすると、子どもより大人(とくに子育て中の大人)の方が楽しめるかもしれません。

 幸せに楽しく暮らしていた「ジョージ」と「ベラ」。ある日、小包が届きます。開けてみると、なかには「ザガズー」と名札のついた「ちっちゃな ピンクの いきもの」。赤ちゃんが入っていたわけです。二人は「ザガズー」を放りっこして幸せな日々を過ごします。ところがある朝、「ザガズー」は、恐ろしいキイキイ声で泣く大きなハゲタカの赤ん坊に変わってしまいます。別の朝には、なんでもメチャメチャにする小さなゾウ、泥だらけにするイボイノシシ、怒りっぽい竜、コウモリとどんどん変わっていきます。そのうち毛深く「とらえどころのない」生き物になってしまって……という物語。

 まさに副題のとおり「じんせいって びっくりつづき」。でも、それを、コミカルな描写でサラリと風通しよく描いているところが魅力です。

 考えてみると、最初に小包で赤ちゃんが届くというのは、たしかに荒唐無稽なんですが、けっこう感覚的に分かるような気がします。いや、それは私が男性だからかもしれませんが……。

 また、「ザガズー」が最後に変身(?)する「とらえどころのない」生き物。これは、なんだか身につまされますね。たしかになー、自分もそんなときがあったなあと思わず我が身を振り返ってしまいます。もしかすると、いまもそうかもなあ。

 しかしまあ、この物語、比喩ではなく真面目に受け取るなら、かなり重い内容が含まれていると思います。家族内のさまざまな暴力の背景となる部分もあるでしょう。しかし、この、マンガのような描写と白味の多い画面が実に軽やかに前向きに、読んでいる私たちの肩をポンポンとたたいてくれる、そんなふうに感じました。

 また、一番すごいと思ったのがラスト。「ああ、そうか、そうだよなあ」と子どもといっしょに読みながら心のなかでうなずいてしまいました。誰かに育てられ、誰かを育て、そしてまた誰かに育てられる……。人間が「自立した人間」であるかに見えるのは限られた時間内のことで、誰かを必要とする、「人間」ではない時間がはじめとおわりにあるんですね。そもそも「自立」なんてのは一種の幻想かも……。「ジョージ」と「ベラ」と「ザガズー」そして「ザガズー」のパートナーの「ミラベル」が互いに肩と腰に手をあてて紙面の向こうに歩いていく画面からは、そんなことも考えてしまいました。

 ところで、うちの子どもには、「ザガズー」がどんどん変身していくところがおもしろかったようです。もしかすると、ハゲタカに変わったところでは、うちの下の子どもと重ね合わせていたかも。ゾウになったところでは「ハゲタカの方がましだねえ」なんて言っていました(^^;)。

 原書"Zagazoo"の刊行は1998年。この絵本、おすすめです。

▼クエンティン・ブレイク/谷川俊太郎 訳『ザガズー』好学社、2002年

内田麟太郎/伊藤秀男『ひたひたどんどん』

 天気のよい朝、まちの人たちが空を見上げると、なんと海が空に浮かんでいます。クジラやサメやカメ、魚たち、それに船まで浮かべた海が空中を進んでいく……。そのうち、まちの空は海でおおわれてしまい、地上は大騒ぎ。

 絵は緑と青で描かれた海がなかなかの迫力。どうして海が空に浮かんでいるのか、その理由はラストで明らかになるのですが、あらためてみると、とびらや最初のページにも関連することが描かれているようです。

 それはともかく、うちの子どもといっしょに見つけたのですが、家の屋根の上になんだか不思議な生き物(?)がいます。ネコのようだけど、ちょっと違うなー。

▼内田麟太郎 文/伊藤秀男 絵『ひたひたどんどん』解放出版社、1998年、[ブックデザイン:森本良成]

たむらしげる『ひいらぎはかせとフロストマン』

 またまた『ひいらぎはかせとフロストマン』。うちの子どもはかなり気に入っています。「フロストマン」はまちじゅうを凍らせてしまうのですが、見た目はあまり恐くありません。逆にユーモラス。凍り付いたまちの白や青と「ひいらぎはかせ」の研究所や光の黄、色の対比が美しいなと思いました。

▼たむらしげる『ひいらぎはかせと フロストマン』フレーベル館、2001年

酒井駒子『よるくま クリスマスのまえのよる』

 クリスマスイブの夜、「ぼく」と「よるくま」の不思議な交流を描いた絵本。主人公の「ぼく」は、サンタさんが来てくれるかどうか心配しています。なぜなら、「ぼく わるいこだから。きょう ママに いっぱい しかられたから」。ここがなんとも切ない。考えてみれば、クリスマスイブはとても楽しみな時間、もしかすると子どもにとって1年で一番わくわくするような幸福な時間。ところが「ぼく」は心配でたまらないのです。だからこそと言うべきか、「ぼく」はやって来た「よるくま」にサンタクロースのことを教えてあげ、自分が「よるくま」の「サンタさん」になってあげる……。

 前作の『よるくま』を読んだときも思ったのですが、なんとなく愛情に対する不安が一つの共通のモチーフのように感じます。前作では、たしか「おかあさん」をさがす「よるくま」の描写がたいへん鮮烈でした。画面が黒く彩色され「よるくま」は涙を流していたと思うのですが、その画面に至ったとき、うちの子どもがハッとして緊張したことを覚えています。今回は前作のような強い描写はありませんし、一応、ハッピーエンドです。それでも、子どもの不安感が底にあることは伝わってくるような気がします。

 そして、そういう不安感は子どもにとっては日常的なのかもしれません。不安がまったくないことがよいことなのかどうか、私はよく分からないのですが、とはいえ、その不安にきちんと寄り添うことができているかどうか、あまり自信がないです。

 それはともかく、この絵本では「よるくま」と「ぼく」の最初の出会い(?)がもしかすると描かれているのかも。「ぼく」がいまより小さいときに「よるくま」をプレゼントされている様子が回想(?)のようなかたちで描写され、また「ぼく」のベッドにはいつもクマのぬいぐるみが置いてあります。前作でどう描かれていたのかよく覚えていないのですが、あるいはこのクマのぬいぐるみが「よるくま」なのかも。

▼酒井駒子『よるくま クリスマスのまえのよる』白泉社、2000年、[装丁:坂本佳子]