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川端誠『めぐろのさんま』

 川端さんの落語絵本シリーズの1冊。はじめてサンマを食べた殿様のトンチンカンぶりがおかしいです。でも、うちの子どもは、話のオチがよく理解できなかったようでした。いろいろ説明して、一応、分かったみたいです。

 うーん、落語絵本を以前読んだときもそうだったのですが、子どもがスムーズに理解するのは難しいですね。元にする落語にもよるでしょうが、なんだろうな、直接的で体感的な笑いとは違うからだろうか。というか、以前のページに描かれている物語の伏線をよく了解していないと最後のオチが分からないんですね。けっこう要求水準が高いかもしれないと思いました。

 それはともかく、絵はなかなかコミカル。うちの子どももこの絵にはだいぶ惹かれていました。川端さんのあとがきに書かれていましたが、主人公の殿様がおかしいです。川端さんによると、絵を描く前に登場人物のキャラクターデザインをするそうで、今回、殿様については、無邪気なとっちゃん坊や風にし、好奇心の強そうな表情を作ってみたとのこと。まあるい顔で、ほっぺたがふくらんでいて、じっさい物語にとても合っていると思いました。

 笑ったのはラストページ。殿様の抜け具合にみんながガクッとなるわけですが、よく見ると、床の間に飾ってある花も折れています。あと、表紙もよいですね。目黒で取れるたくさんの野菜のなかのサンマ。これも物語の伏線と言えそうです。

 初出は月刊『クーヨン』2001年11月号「おはなし広場」。

▼川端誠『めぐろのさんま』クレヨンハウス、2001年

岸田衿子/中谷千代子『ジオジオのかんむり』

 ライオンのなかでも一番強かった「ジオジオ」。文字通り百獣の王。でも、本当は「ジオジオ」はつまらないと感じていました。もうキリンやシマウマを追いかけるのもいやになってしまい、誰かとゆっくり話してみたいと思っていたのです。そんなときに出会ったのが「はいいろのとり」。6つの卵をすべて失っていた「はいいろのとり」に「ジオジオ」は一つの提案をします。それは、「ジオジオ」の頭の冠に卵を生んだらどうかというもの。こうして「はいいろのとり」は冠に巣を作り、「ジオジオ」といっしょに生活し、ひなを育てていくという物語。

 この絵本のモチーフの一つはおそらく老いと孤独。物語のなかで細かく説明されているわけではありませんが、前半の描写からはなんとなく「ジオジオ」の寂寥感が伝わってくるよう。

 たしかに、最初のページでは、りっぱなたてがみに真一文字の口元、鋭い眼光、地面にしっかりと足を下ろした立ち姿。まさに百獣の王の威厳に満ちています。しかし、その目元には皺が刻まれ、表情にも何か憂いが浮かんでいます。

 というのも、「ジオジオ」はすでに年を取り、白髪が増え眼がよく見えなくなっているのです。若い頃にはみんなから恐れられ孤高であることを誇りにしていたかもしれません。ところが、老いた「ジオジオ」にとって、そんな自分の姿はもはや疎ましいだけ。とはいえ、いまとなっては、なかなか素直に他の動物たちと接することも難しい。

 「ジオジオ」のそんな現在を何よりも象徴しているのが、頭上の黄色く輝く冠。他の動物たちは冠が光っただけでも逃げていくのです。脱ぎたくてももはや脱ぐのも困難な冠。それは他者に対する鎧であり、「ジオジオ」の心の鎧だったと言えるかもしれません。

 そして、この物語がすごいなと思うのは、他者を威圧する冠が、まさに新しい生命を育むよりどころになること。それはまた、「ジオジオ」と「はいいろのとり」やその雛たちとの絆でもあります。冠の意味が変わったことで同時に、孤独だった「ジオジオ」の世界もまた変わったわけです。

 ラストページが印象的。明るい色調を背景にして、「はいいろのとり」と七羽の小鳥が「ジオジオ」のまわりを飛び交っています。「ジオジオ」のたてがみやしっぽに留まる小鳥たち。

 途中から「ジオジオ」は眼がよく見えなくなり、ずっとまぶたを閉じているのですが、しかしラストページの「ジオジオ」の表情はとても穏やか。おそらく、「はいいろのとり」とともに過ごし雛たちの成長を見守ることは、それまでの「ジオジオ」にはありえなかった充実した時間だったのではないか、そんなことが感じ取れます。

 ところで、「ジオジオ」の冠について、うちの子ども曰く「バランスがたいへんだねえ」。つまり、卵や雛を載せて歩くは難しいんじゃないかということです。うーむ、なるほどね(^^;)。

 この絵本、おすすめです。

▼岸田衿子 作/中谷千代子 絵『ジオジオのかんむり』福音館書店、1960年(こどものとも傑作集としての発行は1978年)

ルース・スタイルス・ガネット/ルース・クリスマン・ガネット『エルマーとりゅう』

 「エルマー」シリーズの第二作、今日から読みはじめました。今回も物語のはじめの方で「エルマー」の持ち物が説明されています。たぶん、創意工夫でそれを使って困難を突破していくのでしょう。どんな冒険が待っているのか、子どもともども楽しみたいと思います。

 この第二作の裏表紙には、「りゅう」がカラーで描かれていました。あらためて見るとかなり派手。相当に目立ってます。

 ところで、うちの子どもは、最初、読みはじめたとき「ページをとばしたんじゃない?」と言っていました。よく聞いてみると、どうやら本を開く方向を勘違いしていたようです。縦書きと横書きで開く方向が違うのは大人にとっては当たり前でも、子どもにとってはそうではないわけですね。本が物質であり、それにかかわって幾つものルールが作られていることを、あらためて意識させられました。

▼ルース・スタイルス・ガネット 作/ルース・クリスマン・ガネット 絵/渡辺茂男 訳/子どもの本研究会 編集『エルマーとりゅう』福音館書店、1964年

マンロー・リーフ『けんこうだいいち』

 先に読んだ『おっと あぶない』の姉妹編。こちらのテーマは健康と病気です。いわば「しつけ絵本」ですが、『おっと あぶない』と同様にユーモラスな描写と説明。しかも、大事な点はほとんど網羅されていると思います。

 今回も「まぬけ」が登場。たとえば「すききらいまぬけ」「しんぱいまぬけ」。あと「ねこぜさん」「ぐにゃりさん」なんてのも出てきます。うちの子どももニヤリとしていました。

 『おっと あぶない』もそうでしたが、冒頭部分が印象的。元気なときは健康のことをあまり考えないけれども、普段から気を付けることが重要と述べています。そのあとの部分を引用します。

あかんぼうのときは、
たべることも
きることも
うんどうすることも、
きれいな くうきを
すうことも、
おふろに はいって
きれいになって、
ベッドでゆっくり
ねることも
なんもかも だれかが やってくれます。
ところが……
だんだん おおきくなって、
いろんなことを おぼえてくると、
じぶんのことは じぶんで できるようになります。

 自分のことは自分でできる、だから健康のことも自分で普段から気を付けようと、自立を促す記述。それも単に「自立」を唱えるのではなく、赤ちゃんと対比させることで感覚的に分かりやすいように思いました。(考えすぎかもしれませんが)逆に言うと、いつでも誰もが自立できるわけではなく、必要なばあいには当然、周りの人びとが必要なケアをしないといけないことも伝えていると思います。

 『おっと あぶない』と比べると、全体を通じてだいぶ文書の量が多く、絵は比較的少なめ。テーマが健康だからでしょうか、視覚的に説明するというよりは、文章で説明するところに比重がかかっていると思いました。とはいえ、子どもにとって親しみやすく分かりやすいのは『おっと あぶない』と同じです。

 原書”Health can be Fun”の刊行は1943年。この原題は『おっと あぶない』と類似の表現(あちらは”Safty can be Fun”)ですが、的確に核心を突いており、すばらしいと思います。邦題もシンプルでよいですが、原題の方が、説教臭くないこの絵本の魅力をよく伝えている気がしました。

▼マンロー・リーフ/渡辺茂男 訳『けんこうだいいち』フェリシモ、2003年

マンロー・リーフ『おっと あぶない』

 いわば「しつけ絵本」。子どもがやりそうな危ないことを描いた絵本です。とはいえ、「しつけ」とはいっても、あまり説教臭くなく、むしろ、ユーモラス。

 冒頭部分を少し引用します。

あぶないことを
しないのは、
いくじなしだ
と 思っている子は、
なにもしらない子。
[中略]
ばかなことして
けがした子。
それが───
まぬけ
このほんは
まぬけだらけ

 「いくじなし」という考え方の間違いを最初に伝えているのがすごいなと思います。自分の子ども時代を思い出しても分かるんですが、危ないことをするのがかっこいい、危ないことに加わらないとバカにされる、といったことはよくあると思います。たしかに、友達同士の仲間関係は子どもにとって大事ですが、だからといって、危険なことをすることが偉いんじゃないということ。

 そして、これ以降、この絵本では、次から次へといろんな「まぬけ」が登場します。風呂場で熱いお湯を出して火傷する「ふろばまぬけ」、薬の入ったビンなどなんでも開けて口に入れる「くいしんぼうまぬけ」、棒つきキャンデーをくわえて走って転ぶ「ぼうくわえまぬけ」、道に飛び出していく「とびだしまぬけ」、せきやくしゃみをするとき口をおさえない「じぶんかってまぬけ」「ばいきんまぬけ」……といった具合。いやはや、これだけ「まぬけ」が並ぶと壮観です。

 基本的に見開き2ページの左ページに文章、右ページに絵というつくり。絵はとてもシンプルで、まるで落書きのよう。子どもたちの様子がユーモラスにのびやかに描かれています。と同時に、見ようによっては、けっこうブラックなニュアンスもありますね。「ひあそびまぬけ」や「おぼれまぬけ」、クルマのドアから出たら走ってきた別のクルマのバンパーに巻き込まれた「ドアちがいまぬけ」などは、ほとんど死んでいます(!)。とはいえ、描写が恐ろしいということはまったくありません。変に脅かしたりせずに、それでも大事なことを伝えていく、そういう描き方なのかなと思います。

 また、この絵本はページ数がかなり多いのですが、ユーモラスな絵とともに文章の表現がとても親しみやすく、どんどん読んでいけます。なにせ「~まぬけ」のオンパレード。うちの子どもは「ま・ぬ・け! ま・ぬ・け!」と拍子を付けて歌っていたくらいです。

 もちろん、中身は「これは危ないなあ」ということばかりなので、うちの子どもといろいろ話をしながら読んでいきました。うちの子どもは「僕はこんなことはしない!」と言うのも多かったのですが、なかには自分にも当てはまりそうな「まぬけ」もあり、そのときは神妙に聞いていました(^^;)。うちの子どもが何か危ないことをしそうになったら、「ほら、○○まぬけになっちゃうよ!」と言えるかもしれません。

 これは絶対にやってはいけないということは、子どもにしっかりと伝える必要があるでしょう。とはいえ、ガミガミ怒るだけでなく(でも怒ることもときには必要)、こういうかたちで、子どもに親しみやすく伝えていくことは大事だなとあらためて考えました。このユーモラスな文章と絵なら、子どもも理解しやすく、また忘れにくいんじゃないでしょうか。

 原書"Safty can be Fun"の刊行は1938年。そのため、描かれるクルマはだいぶ古いタイプのもので、うちの子どもは最初、よく分からなかったようでした。とはいえ、クルマの描写以外はすべて、いまでもまったく古びていない内容と思います。この絵本、おすすめです。

▼マンロー・リーフ/渡辺茂男 訳『おっと あぶない』フェリシモ、2003年

神沢利子/堀内誠一『ふらいぱんじいさん』

 これは絵本というよりは絵童話。少し長めで幾つかの章に分かれています。といっても、ほとんどのページに絵が付いていて、どんどん読めます。

 主人公はフライパンのおじいさん、「ふらいぱんじいさん」。卵を焼くのが大好きで、いつも目玉焼きを子どもたちのために焼いていたのですが、ある日、「おくさん」が新しい目玉焼き鍋を買ってきました。そのため、卵を焼かせてもらえなくなった「ふらいぱんじいさん」は旅に出ます。ジャングルや海でいろんな動物たちに出会いさまざまな体験をした「ふらいぱんじいさん」ですが、そのうち足が曲がってしまい、小さな島の砂浜に打ち上げられてしまいます。「ふらいぱんじいさん」はどうなってしまうのか……といった物語。

 この絵本(絵童話)、うちの子どもはだいぶおもしろかったようで、最初は「半分ぐらい読んで残りは明日」と言っていたのですが、結局、終わりまで一気に読みました。どうなるんだろうと先が気になる展開です。読み終わると、うちの子どもは「ふぅー」と息を付いていました。

 老いたものが自分の居場所を探し見つけるというモチーフは他の絵本でもけっこうあると思うのですが、この物語では、「ふらいぱんじいさん」が最後に見つけたその居場所が実に印象深いです。なんとも暖かな気持ちになります。

 考えてみれば、料理は命を育むと同時に、しかし他の生き物の命を奪うことでもあるでしょう。その道具のフライパンがたどりついた新しい世界とは、まさに命を育むことだった……。いや、そんなに難しく考える必要はない、おもしろいお話なのですが、いろんな含意が込められているように感じました。

 絵は太い輪郭線とカラフルな色彩が軽やかで楽しい雰囲気。夜や嵐の画面の描きなぐったような筆致もよいです。よく見ると、いろんな台所道具から雲や波といった無生物の多くにも目と口が付いています。こういうところにも、もしかすると、生きていることをめぐる物語のモチーフが表れているかもしれません。

 神沢さんの「あとがき」では、この童話を書くに至ったきっかけが語られているようです。「ようです」というのは、ウソかまことか不明なため。南の島での神沢さんと「フライパンじいさん」の出会いです。

 この絵本(絵童話)、おすすめです。

▼神沢利子 作/堀内誠一 絵『ふらいぱんじいさん』あかね書房、1969年

ルース・スタイルス・ガネット/ルース・クリスマン・ガネット『エルマーのぼうけん』

 この本、毎日少しずつ読んでいって、今日、読み終わりました。なかなかおもしろかったです。うちの子どもにとっても、けっこうドキドキワクワクだったようで、「少し恐いねえ」とか言いながら(うちの子どもはだいぶ恐がり^^;)、楽しく聞いていました。

 とくに「エルマー」が「どうぶつ島」に渡ってからは、各章ごとに次々と危機が訪れ、それを「エルマー」があっと驚く創意工夫で突破していきます。次はどうなるんだろうと物語に引き込まれていく感じ。物語の最初の方では、「エルマー」が出発する前にリュックサックに詰め込んだ荷物が一つ一つ挙げられていたのですが、それが生かされているんですね。これもおもしろい趣向です。うちの子どもに一番受けていたのは、表紙にもなっているライオンのエピソード。あの三つ編みとリボンが笑えます。でも妙に似合っています。

 それにしても、「エルマー」、実に聡明で賢い子ども、いや、たいしたものです。どんな問題にも臨機応変に対応して前に進んでいく……。もちろんファンタジーなのですが、こういうところは見習いたいくらい。

 ところで、うちの子どもは物語を読み終わると、「あとがきも読んで!」と言っていました。というのも、以前読んでいた「ルドルフ」シリーズにはどれも「あとがき」が付いており、そのイメージが頭にあったようです。『エルマーのぼうけん』には「あとがき」はなかったのですが、そのかわり、「この本をよんだ人に」と見出しのついた続巻の案内がありました。それを一通り読むと、「じゃあ、次はエルマーの2巻を読もう!」とうちの子ども。

 考えてみれば、『エルマーのぼうけん』のラストは、まさにこれから大冒険がはじまるような終わり方でした。「エルマー」と「りゅう」はまだ出会ったばかりです。「どうぶつ島」を脱出した二人(?)を待ち受けているのは何か。第2巻が楽しみです。ぜひまた読んでみようと思います。

▼ルース・スタイルス・ガネット 作/ルース・クリスマン・ガネット 絵/渡辺茂男 訳/子どもの本研究会 編『エルマーのぼうけん』福音館書店、1963年

北村想/荒井良二『まっくろけ』

 これはおもしろい! 小学二年生の「たっくん」の家のとなりには「グウさん」という芸術家が住んでいて、二人は友だちです。「グウさん」の仕事は墨で絵を書く仕事。ある日、「グウさん」は2日ばかり外出することになり、「たっくん」は「グウさん」の家で絵を描いていてよいことになります。ただ、一つだけ守らなくてはならないのは、棚の上にあるビンの墨だけは使ってはいけないということ。ところが、やってはいけないと言われると、どうしてもやってみたくなるのが人情。「たっくん」がその墨を使って描いてみると、なんと墨を少しでもつけると、あっというまに何でも真っ黒けになってしまう、という物語。

 最初はそのへんの紙や本を真っ黒けにしていた「たっくん」ですが、だんだんエスカレートしていき、電信柱や赤いクルマ、ガミガミじいさん、いじめっこまで、墨をつけ真っ黒にしていきます。

 最初は「ふーん」って感じで聞いていたうちの子どもですが、このあたりまで来ると、だんだんおもしろくなってきたようで、身を乗り出してきました。いろんなものが真っ黒になるところでは大受け。

 「たっくん」の真っ黒けはなお止まらず、ついにはママまで真っ黒けにされてしまいます。ところが、「たっくん」、ころんで地面で墨のビンを割ってしまうと、「たっくん」も含めてすべて何もかもが真っ黒け。

 いやー、本当にすごい! 実にアナーキーな展開。すべてを黒く塗れ!というわけですね。破壊的と言えば破壊的。でも、ここまでくると逆にすがすがしいかも。そういえば、ロックソングにそんなのがあった気がします。

 なかでも絵本を真っ黒にしているところが強烈。引用します。

たっくんはお家にかえると、このあいだママがかってくれた絵本をだしてきた。『クマちゃんのジャム』っていうつまんない絵本なんだ。クマが森のくだものでジャムをつくりましたっていうおはなしの、それだけの本。この本をいつも、ねるときにママがよんできかせてくれるんだけど、もう、たいくつでたいくつで。

 というわけで、『クマちゃんのジャム』も真っ黒にされてしまいます。いやはや。親がよかれと思って読んで聞かせても、子どもにとってはとてつもなく退屈……ありがちですね。独りよがりな読み聞かせなんか、黒くしてしまえ! と一刀両断です。いや、私も反省しないとダメかもしれません。

 ところで、この絵本は文章もなかなかおもしろいと思いました。こちらに語りかけてくるような表現なんですね。それも客観的な語りではなく、物語の登場人物とは違う第三者のキャラクターが文章中にはっきりと現れています。そのためか、子どもに読んでいるとだんだんのってきます。いわばその第三者を演じるような感じかなと思います。

 同じことは、物語の終わり方にも言えます。途中でいったんブレイクが入って「おしまい」になってしまいます。そのあと「おまけ」としてやっとハッピーエンド。フェイントをかまされたというか、これも語り手の作為の現れと言え、おもしろい趣向です。

 絵は、やはり黒の色が鮮烈。なんというか、深みのある黒。もしかすると本当に墨を使って描かれているのかもしれません。「たっくん」があちこちをスミで真っ黒にしはじめると、文章が書いてある見開き左ページも端の方が黒く彩色されます。どんどん黒が浸食してくるかのよう。

 で、一番すごいのが、すべてが真っ黒けになってしまった画面。泣き出した「たっくん」の涙も真っ黒。真っ黒な地上に対し、画面上部の青空と黄色い太陽がなんとも鮮やかです。そして、めくった次のページもすごい! 雨によって墨が少し流されている様子が描かれています。いや、どろどろと言えばどろどろなんですが、陰影のある黒が印象的。さらに、その次のおしまいのページもおもしろい。雨に流されてやっと元通りになった地上が淡く輝く色合いで描かれています。中央下のネズミ色、これは雨に溶けた墨の名残かも。この終わりの数ページの色彩の変化は本当にすばらしいと思いました。

 以前、今江祥智さんと長新太さんが組んだ「黒の絵本」三部作のなかの2冊(『なんだったかな』と『よる わたしのおともだち』)を読んだのですが、こちらの『まっくろけ』もまさに「黒の絵本」。長さんの黒は光り輝く漆黒でしたが、荒井さんの黒は深みと厚みのある黒といったところでしょうか。なにせ墨ですから、なんだか重く粘りがあるような感じです。これもまた独特の美しさがあります。

 ちなみに、うちの子どもは読み終えたあと「家の壁を真っ黒にしたい!」と言っていました。お父さんやお母さんは真っ黒にしないそうです。はあ、よかったあ(^^;)。

 この絵本、おすすめです。

▼北村想 作/荒井良二 絵『まっくろけ』小峰書店、2004年、[ブックデザイン:高橋雅之]

アネット・チゾン/タラス・テイラー『バーバパパのしんじゅとり』

 「バーバパパのちいさなおはなし」シリーズの1冊。少し小さめの絵本シリーズです。今回、バーバパパたちは、みんなで真珠取りに出かけます。自分たちで船を造り、南の海へとやって来たバーバパパたち。いろいろ楽しいエピソードがあり、最後には「バーバベル」に真珠の首飾りを作ります。

 船や潜水用の箱を輪切りにして描写するのは、「バーバパパ」シリーズならではと思います。へぇーと思ったのは、バーバパパたちはどうやら人間と同じように呼吸をしていること。潜水用の箱や潜水服には、空気を送り込む管が付いています。でも、体のかたちを変えて変身すると、空気がなくても大丈夫なんですね。なかなか細かい描写です。

 巻末の注記によると、もともとこの絵本は「バーバパパ・ミニえほん」の21巻の装丁を変えて刊行したものだそうです。原書の刊行は1974年。

▼アネット・チゾン/タラス・テイラー/山下明生 訳『バーバパパのしんじゅとり』講談社、1997年、[装丁:スタジオ・ギブ]

イェジー・フィツォフスキ/内田莉莎子/スズキコージ『なんでも見える鏡』

 これはおもしろい! ジプシーの昔話をもとにしているのですが、いわば恋の絵本です。

 主人公は貧乏なジプシーの青年。旅に出たジプシーは、美しい王女のいる国へとやってきます。そこでは「王女から隠れて見つからなかった者が王女の夫になれる」というおふれが出ていました。というのも、王女はとても勘がよく利口で、しかも世界中のものを何でも写し出す魔法の鏡を持っていたのです。美しい王女に一目惚れしたジプシーは、旅の途中で助けた大きな銀色の魚やワシやアリの王様の手を借りて、王女の難題に挑み、最後は王女と結ばれるという物語。

 ジプシーが恋の試練を乗り越えるというのが基本のストーリーなんですが、本当の主人公はむしろ王女かも。実はジプシーは2回も隠れることに失敗するんですね。2回続けて失敗したら重い罰を受けなければならないのですが、そのとき王女は次のように言います。

おまえを 罰しなくては
いけないのだけど、なぜか わたしにはできないわ。
いいこと、もう1かい かくれてごらん。ほんとうに
これでおしまいよ。

 王女はすでにジプシーに恋しているにもかかわらず、まだそれに気づいていない、あるいは気づきたくない(?)わけです。

 そして3回目。ここでタイトルの「なんでも見える鏡」が非常に印象深く生きてきます。いったい鏡に映ったのは何であったか? 昔話にしばしば見られるモチーフかもしれませんが、それでも割れて粉々になった鏡が実に鮮烈。

 ジプシーと王女が結ばれる画面もとても美しい。互いに手を伸ばし合う二人はまるで宙に浮いているかのように描かれています。恋の高鳴りが聞こえてきそうです。そういえば、同じような構図の有名な絵画があったような気がしました。

 絵はグラデーションがかかったような彩色が美しくダイナミック。とくにスズキコージさんらしい(?)のは、やはり、アリの王様ですね。妖しい怪物です。あと、天高く飛ぶワシもなかなかの格好良さ。

 うちの子どもは(たぶん?)恋や愛のモチーフはまだ分からなかったと思うのですが、読み終えて曰く「ジプシーはちょっと若すぎなんじゃない?」。つまり、王女と比べて年齢が若く釣り合いが取れないということのようです。なるほどねえ。

 たしかに絵を見るかぎりでは、年下に見えます。というか、王女ですからジプシーより偉そうなんですね。あるページでは、ジプシーよりも背が高く描かれています。たぶん、ひな壇の上にいるからでしょう。こういうところが、おそらく、「王女」が年上に見える理由じゃないかなと思いました。

 あと、うちの子どもは、物語のはじめでジプシーに「むちばかりくれた主人」が最後に国を追い出されたところがよく分からなかったようでした。うーん、たしかに、分かりにくいかも。

 ところで、とびらの向かい側のページに記されていましたが、どうやらフィツォフスキさんの再話そのものは1966年に書かれたもののようです。巻末の著者紹介によると、フィツォフスキさんは、ポーランドのワルシャワで1924年に生まれ、第二次世界大戦中はナチス占領下のワルシャワで地下抵抗運動に加わり、1944年のワルシャワ蜂起にも参加。ドイツの捕虜収容所で生き抜き、戦後、ポーランドに戻ったそうです。第二次世界大戦の荒波のなかで少年時代・青年時代を生きてきた方です。

 この絵本、おすすめです。

▼イェジー・フィツォフスキ 再話/内田莉莎子 訳/スズキコージ 絵『なんでも見える鏡』福音館書店、1989年