「絵本」カテゴリーアーカイブ

またき けいこ『たくあん』

 表紙と裏表紙を広げて一つにすると、大きな大きな白い大根が横たわっています。この絵本のテーマは「たくあん」。大根の種がまかれ成長し、畑から抜かれて干され、樽に漬けられ、最後に「たくあん」としておにぎりの横に並べられるまでが描かれています。

 福音館書店の月刊誌「かがくのとも」の1冊ですが、何か科学的説明や図解が載っているわけではありません。むしろ、文章は詩のような趣。けれども、「たくあん」が出来上がるまでのプロセスが丹念に描写されており、一つの食べ物が食卓に並ぶまでの作業の積み重ねと時間の流れを実感できます。

 絵は、ダイナミックな筆致と鮮やかな色彩で、なかなかの迫力。ただし、人間は一人も登場しません。中心をなすのはあくまで大根と「たくあん」。もちろん、「たくあん」は人間の手が加わってはじめて出来上がるわけですし、この絵本でも、大根が干され漬けられることがきちんと描かれています。とはいえ、大根を育て「たくあん」を作ることは、自然の営みや変化を基礎にしていると言えるでしょう。この絵本の描写は、そのことに焦点を当てているように思います。

 使われている色のなかでは、とくに黄色が印象的。最初のページでは、黄色い画面に大根の小さな種がたくさん散りばめられており、ページをめくると、この黄色が暖かな太陽の光であることが分かります。終わりのページでは樽のなかで出来上がったたくさんの黄色い「たくあん」が見開き2ページいっぱいに描かれています。この黄色は、なんとも美味しそう。そして、ラストページは、大きな黄色い太陽(?)に浮かぶ赤唐辛子。

 つまり、「たくあん」の黄色とは、お日様の黄色なんですね。秋の日差しを浴びて大根は生長し、また冬のお日様にあたって甘くなる。太陽の恵みを存分に受けて美味しい「たくあん」が出来上がることが、黄色の彩色からよく伝わってきます。

 あと、興味深かったのは、畑から抜いた大根を木で組んだやぐらに干しているところ。やぐらは畑のそばにあって、幾つも並んでいます。家の軒先に干すというのは、私が小さい頃にもあったと思うのですが、やぐらに干すのは、はじめて知りました。昔からの伝統的なやり方かなと思います。

▼またき けいこ『たくあん』「かがくのとも」2001年11月号(通巻392号)、福音館書店、2001年

岸田衿子/中谷千代子『ジオジオのたんじょうび』

 世界中で一番強いライオン、「ジオジオ」はお菓子が大好き。ケーキやパイやプリン、柏餅など、甘いものを食べていれば、普通の食事は何もいりません。そんな「ジオジオ」にお菓子を作っているのが、ゾウの「ブーラー」。専属のコックです。

 70歳の誕生日を迎えるにあたって、「ジオジオ」は「ブーラー」に特別のケーキを注文します。動物たちは、ケーキの材料を集めるのに大忙し。最初は自分だけで誕生日を祝おうと考えていた「ジオジオ」ですが、それがどうなったか。なんだか気持ちがあたたかくなるようなラストです。

 この物語でとくに印象深いのが、「ジオジオ」が夢に見る、5歳のときの誕生日の様子。家族みんなが集まって誕生日をお祝いし、一年に一度だけお母さんが焼いてくれるケーキをみんなで分けて食べます。ろうそくの灯に照らされたみんなの笑顔。そして「おかしは、いくつに きれば いいの?」というお母さんの声。実に幸せな情景です。

 小さいころ誕生日に食べたこのケーキの美味しさが、「ジオジオ」が甘いものを好きな理由なんですね。でも、それは、甘いケーキだから美味しいのではなく、みんなで分かち合うからこそ美味しいということ。そのことを「ジオジオ」はずっと忘れていたわけですが、70歳の誕生日を前にしてようやく思い出します。自分が本当に求めていたものが何だったのか、はじめて理解する「ジオジオ」。

 家族を亡くし動物たちに恐れられるだけだった孤独な「ジオジオ」が、もう一度、他者とのきずなを取り戻す……。そこには、以前読んだ『ジオジオのかんむり』と共通のモチーフを読み取れます。

 また、「ジオジオ」の夢の描写が非常に体感的であるのも興味深いと思います。甘い匂い、ろうそくの灯、口のなかに広がる美味しさ、お母さんの声……。いわば五感のすべてが一つとなって、「ジオジオ」の幸せな記憶を成しているわけです。

 なかでも、眠る「ジオジオ」を包み込むケーキの甘い匂い、つまりは嗅覚が記憶を呼び覚ますきっかけになっており、そして、夢から覚めても聞こえてくるお母さんの声、つまり聴覚がその記憶の本質を伝えていると言えるかもしれません。

 中谷さんが描く「ジオジオ」は、百獣の王というより、むしろ、おだやかでおしゃれな紳士といった風情。それはこの物語によく合っていると思います。岸田さんの「あとがき」では、物語の背景やモチーフの一端が記されていて、こちらも興味深いです。

 うちの子どもは、ニコニコしながら聞いていました。「ジオジオ」が「ブーラー」にお菓子を作ってもらうところでは、「いいなあ」と心底うらやましそう(^^;)。そして、読み終わると一言「おいしい物語だねえ」。うちの子どもにとっては「ジオジオ」の心の動きなどよりも、とにかく好きなお菓子をいつでも食べられることに惹かれたようです。

 「ジオジオ」の物語は、どうやらまだ他にもあるようなので、次の機会に読んでみたいと思います。うちの子どもも「また読みたーい」と言っていました。

 この絵本(絵童話)、おすすめです。

▼岸田衿子 作/中谷千代子 絵『ジオジオのたんじょうび』あかね書房、1970年

ステファニー・ブレイク『うんちっち』

 主人公は「うさぎのこ」。この子はたった一つの言葉しか言えませんでした。それが、なんと「うんちっち」。お母さんやお父さんやお姉さんが何と言っても、「うんちっち」としか答えません。そんなある日、「うさぎのこ」は「オオカミ」に食べられてしまいます。さあ、いったい「うさぎのこ」はどうなってしまうのか……。

 いやー、これはおもしろい! 最近、読んだ絵本のなかではベストの1冊です。なによりおかしいのが「うんちっち」という言葉。うちの子どもはまず、これに大受けでした。やっぱりねー、汚いものは楽しいんですよね。子どもは、こういう大人が嫌がるような言葉、眉をひそめるような言葉を言いたがるところがあります。この絵本での「うんちっち」の連呼(?)には、大人のつまらない良識を笑い飛ばしてしまう、そんなパワーを感じます。

 そして、ストーリーも実に秀逸。いきなり「オオカミ」に食べられちゃうところにびっくりしました。恐ろしいというのではなく、呆気にとられる感じです。ちなみに、うちの子どもは冷静に一言、「まるのみだね」。

 この急展開のあとも「あっ!」と驚きの物語。もちろん、「うさぎのこ」はちゃんとお父さんやお母さんのもとに帰ってきます。そして、大爆笑のラスト。うちの子どもも大受けでした。どういう結末なのかは、ぜひ読んでほしいと思います。いや、実にすばらしい(?)絵本です。なんというか、突き抜けたおもしろさ!

 いや、考えようによっては、少々乱暴なストーリーとも言えます。どうして「オオカミ」の「おいしゃさん」が「うさぎ」で、しかも、その「おいしゃさん」が他ならぬ「うさぎのこ」のお父さんなのか?とかね。でも、この絵本には、そんなことはお構いなしの力強さがあります。

 それから、主人公の「うさぎのこ」や「オオカミ」の描写も、とてもユーモラス。「うさぎのこ」は、まん丸な眼で、前歯が1本抜けた口を開け、後ろに手で組んで「うんちっち」。単純にかわいいとか愛らしいのではなく、どことなく不気味なところが魅力です。

 ところで、この絵本は、左ページに文字、右ページに絵という作り。左ページの文字はかなり大きく印刷されており、うちの子どもでも読めそうなくらいです。

 で、「うさぎのこ」が言い続ける「うんちっち」なんですが、よーく見ると、一箇所だけ、文字の配置が他と違っています。それは、「オオカミ」が「うさぎのこ」に「ぼうやをたべても いいかい?」とたずねたところ。「うさぎのこ」はもちろん、「うんちっち」と答えるのですが、この「うんちっち」だけ、「うん」と「ちっち」の間にわずかにスペースが空いています。つまり、「うん ちっち」と文字が並べられているわけです。そして、めくった次のページでは、「オオカミ」が「うさぎのこ」をぺろりと食べてしまう。

 なるほどなーと、何だか感心してしまいました。たぶん原書でも、同様な文字配置になっているんでしょうね。要するに、「オオカミ」にとっては、「うん」(つまり「食べていいよ」)と言ったのと同じというわけです。「オオカミ」にとってそのように聞こえたということか、それとも実は「うさぎのこ」自身、「うん」と「ちっち」の間にブレイクを入れて答えたのか……。いやー、なんだか深読みできそうです(^^;)。

 あと、おもしろいなと思ったのは、文字の左ページと絵の右ページの背景色。多くの見開きでは左ページと右ページの背景色が違っており、しかもかなりコントラストの強い配色。背景色のみならず、描かれているものの多くも、眼がチカチカしてくるような強烈な色合いです。

 そんななかで、左ページと右ページの背景色がほとんど同じ見開き画面が幾つかあります。すべてがそうだというわけではありませんが、物語のポイントになるところ、「あっ!」と気持ちが引き込まれるところが、そういう画面構成になっていると思いました。

 当たり前といえば当たり前ですが、色の配置について非常に確信的というか、作り込まれている気がします。

 ところで、今回、子どもと一緒に読むとき「うんちっち」という言葉のイントネーションを少し工夫してみました。あんまり抑制をつけないで、詰まったような感じで、平板に言ってみたのです。我ながら、なかなかおもしろい効果。うちの子どもにかなり受けました。曰く「うんちっちは、全部、その言い方で言って!」。いや、受けてよかったです(^^;)。

 原書”Caca boudin”の刊行は2002年。この絵本、おすすめです。

▼ステファニー・ブレイク/ふしみ みさを 訳『うんちっち』PHP研究所、2005年

長新太『おばけのいちにち』

 「おばけのいちにち」とはいっても、夜の「おばけ」ではありません。この絵本に描かれるのは、朝から夜までの明るい昼間の「おばけ」。

 朝の歯みがき、スーパーで買い物、同じ「おばけ」のお客様とおしゃべり、読書に運動に洗濯と、「おばけ」の日常が長さん一流のナンセンスで描写されていきます。クスクス笑いたくなってくる感じ。

 見開き2ページの中央に、主人公の「おばけ」の家が置かれ、基本的にそのまわりで物語が進んでいきます。おかしいのは、この「おばけ」、顔も足もない、全身緑色ののっぺらぼう。水滴を上下逆にしたようなかたちです。恐いことはまったくなく、むしろポップでかわいいくらいです。

 そして、その「おばけ」のなんとも普通の、しかしどこか奇妙な日常が実にユーモラス。うちの子どももゲラゲラ笑っていました。とくにおもしろがっていたのは、「おばけ」の歯ブラシと野球の練習。あと「おばけ」のパンツにも大受けでした(^^;)。

 長さんの絵本を読むといつも思うことですが、いったい、どこからこんな発想が飛び出してくるんだろうというくらい、アタマがクラクラしてきます。いや、もちろん、それが楽しくて長さんの絵本を手に取るわけですが(^^;)、なんだか良質のトリップのようなものかもしれませんね(なんていうと失礼かな)。

 それはともかく、この絵本で、おもしろいなと思ったのは、「おばけ」の家のまわりに描き込まれている生き物たち。近くに小さな池があって、魚やカエルやザリガニが見え隠れしています。蝶や鳥も飛んでいます。ネコもやってきて「おばけ」とけんかをするんですが、それ以外は、とても平和でのどかなんですね。これも「おばけ」とのギャップがあって、おもしろいです。

 あと、ラストページも必見。たいへん美しい夜の訪れです。

▼長新太『おばけのいちにち』偕成社、1986年

長谷川摂子/荒井良二『へっこきあねさ』

 これはおもしろい! 大工の「あんにゃ」と「ばあさ」の二人暮らしの家に嫁に来た「あねさ」、実はたいへんな屁の持ち主だったという物語。

 まずは音がすごい。品のない話で恐縮ですが、「ぷっ」とか「ぶっ」とか「ぶぶっ」とか、そんな半端なものではありません。

どっばーん!
だっばーん!
でっぼーん!

辺り一面に響き渡る、文字通り破格の音なのです。たとえば大砲をどかーんと撃つような感じでしょうか。

 活字で組まれた文章のなかで、この屁の音だけ、手書き文字。しかも、だいぶ大きく書かれています。音の豪快さがよく伝わってきます。また、声に出してみると、これが実に開放的。うちの子どもと一緒に読むとき、かなり気合いを入れて言ってみました。うーむ、楽しいぞ!(^^;)

 さらに、屁の「かぜ」が強烈。「ばあさ」は天井まで吹っ飛ばされ、柿の木にみまえば実が一つ残らず落ちてくるし、渡し船は川の向こうまで流されます。いやはや、すさまじい。というか、たいへん便利な屁です(^^;)。

 そして、何よりも驚いたのが、この「あねさ」、屁をただぶっ放すだけではないこと。こ、これは、すごすぎる! 何がすごいのかは、ぜひ読んでみて下さい。まさに驚愕、呆気にとられること間違いなしです。

 荒井さんの絵は、「あねさ」の描き方が秀逸。だってね、気立てがよさそうな可愛い娘さんが、着物の裾をまくって、白いおしりを天に突き出し、どっかーんと屁をこいているのです。絵本のなかでこんな描写、古今東西、はじめてではないでしょうか。いや、冗談抜きで、すばらしいと思います。ある意味、絵本の世界を一つ広げたと言える気がします。

 屁そのものは、当然ながら(?)主に黄色を使って描かれているのですが、汚いということはありません。少し蛍光の入った透明感のある黄色です。この彩色は、あっけらかんとした大らかな物語によく合っていると思いました。

 ところで、屁、といえば、臭いはいったいどうなのか? 絵をよーく見ると、どうやら、やっぱり臭いようです(^^;)。

 うちの子どもは、「あねさ」の豪快なおならに、ゲラゲラ、ウヒウヒ、大受けしていました。この絵本、下ネタはダメという人には向きませんが、そうでなければ、おすすめです。

▼長谷川摂子 文/荒井良二 絵『へっこきあねさ』岩波書店、2004年、[装丁:桂川潤]

赤羽末吉『へそとりごろべえ』

 「おへそがえる・ごん」シリーズの第三巻『おへそがえる・ごん 3 こしぬけとのさまの巻』に登場する、かみなりの「へそとりごろべえ」。どうやらこの絵本が初出のようです。

 家宝の「へそとりき」を使って、タヌキやネズミやライオン、ゾウ、クジラ、桃太郎に鬼ヶ島の鬼、果ては関取から大仏まで、どんどん、おへそを取っていくという物語。最後は、あっと驚きのオチが待っています。

 この「へそとりき」、「おへそがえる・ごん」シリーズでもそうでしたが、まさにビールの栓抜きなんですね。なんともおかしいのですが、妙に説得力があります。少し力を込めれば、たしかに「くりんくりんと」おへそがくり抜けそう。

 また、「へそとりごろべえ」が乗っている雲は、自動車か何かのようにハンドルがついており、雷の音を出す太鼓もどうやら全自動。けっこう機械化が進んでいます(^^;)。

 それから、冒頭で「ごろべえ」は、おへそについて次のように語っていました。

おれは おへそが
だいすきだ
あまくて しょっぱっくって
こーり こり
うふふ たべたいなー

 コリコリしていて、しょっぱい……うーむ、なるほど。たしかにそんな気がしてきます。というか、口のなかに唾液がたまってきました(^^;)。

 おへそを取られた動物や人間たちは、口をぱかっと開けて間が抜けた表情。おへそがあった辺りは赤くなっています。そして、「ごろべえ」は、取ったおへそを手に持ち、舌なんか出したりして、茶目っ気たっぷりに描かれています。

 ところで、この絵本は童心社の「詩の絵本」シリーズの1冊。文中には「ごーろごろーのぴーか ぴか」「こーり こり」など同じフレーズが繰り返され、とてもリズミカル。あと、おへそを取るときの「ねいろ」が一つ一つ個性的で、こちらの表現もおもしろい。

 うちの子どもは「へそとりごろべえ」がはいているパンツに注目していました。「あ、トラのしましまパンツじゃない!」。そうなんです。縞パンは縞パンですが、トラ縞ではありません。うちの子どもは、カミナリといったらトラ縞だろうと思っていたみたいです。

 あと、うちの子どもは「へそとりごろべえ」が鬼のおへそを取るところにも反応していました。曰く「他のはよくないけど、鬼のおへそを取るのはいいよねえ」。なるほどね。なんだか共食いみたいですが、そんなふうにも考えられるかも。

 この絵本、絵も文章も楽しく、おすすめです。

▼赤羽末吉 詩・画『へそとりごろべえ』童心社、1978年

飯野和好『くろずみ小太郎旅日記 その5 吸血たがめ婆の恐怖の巻』

 「ねぎぼうずのあさたろう」と並んで、飯野和好さんのもう一つの時代劇絵本シリーズが「くろずみ小太郎旅日記」。この絵本は、シリーズ第5作目です。

 主人公は、忍術を修行して一人旅に出ている「くろずみ小太郎」。今回「小太郎」は琵琶湖を訪れます。そこで遭遇するのが「もののけ」の「吸血たがめ婆」。あっと驚く忍術で「小太郎」は「たがめ婆」と対決します。

 うーん、おもしろい! このシリーズも、うちではずっと読んできて、毎回楽しんでいます。「冒険活劇絵本」と銘打たれているのですが、まさにその通り。恐ろしい「もののけ」が登場して「小太郎」と激しい戦いを繰り広げるという、非常にシンプルなストーリー。血湧き肉踊る、大興奮の物語です。

 そして、なにより絵がすごい。見開き2ページをいっぱいに使い、圧倒的な迫力。画面の構図や色遣いなど、ページをめくったときのインパクトの強さは飯野さんならではと思います。今回、うちの子どもは「たがめ婆」が正体を現すシーンに「ウワーッ!」と大受けしていました。

 また、「たがめ婆」との対決で「小太郎」が繰り出す個性あふれる忍術も実におかしい。そんなバカなと、へなへな脱力してしまう感じです。読んでいると絵の迫力にぐいぐいのまれてしまうのですが(^^;)、そもそも設定が妙なんですね。うちの子どもも「くろずみ小太郎は炭だから、血なんかないよ!」と突っ込みを入れていました。しかし、このナンセンス具合が楽しいのです。

 あと、今回は舞台が湖ということもあって、水音の描写がとても印象的。前半の静かでサスペンスフルな展開を際立たせていると思いました。

 ところで、あらためて考えてみると、「ねぎぼうずのあさたろう」シリーズと「くろずみ小太郎」シリーズは、同じ時代劇絵本とはいっても、かなり対照的。「あさたろう」シリーズは、筋の通ったまっすぐな男の子の物語。清く正しいと言っていいかもしれません。

 これに対し、「小太郎」シリーズは、いわばエログロナンセンス。いや、もちろん子どもが読んでまったく問題ない内容です。でも、ナンセンスはもちろんですが、そこはかとなくグロい部分やセクシュアルな部分が見え隠れしているように思えるのです。

 また、「あさたろう」シリーズでは、人間関係の綾や情緒が割と描き込まれていると思うのですが、「小太郎」シリーズは、そんなものはおかまいなしの活劇に次ぐ活劇。

 この違いは、両者が下敷きにしているものの違いなのかなと思います。つまり、「あさたろう」シリーズは浪曲で、「小太郎」シリーズは講談です。ちょっと単純化しすぎかもしれませんが、従来からの物語りの二つの形式を、その性格をふまえて二つの時代劇絵本シリーズに血肉化したのかなと考えました。

 それはともかく、巻末のあとがきには、今回の絵本を着想した最初のきっかけが語られています。二つのテレビ番組がもとになったとのこと。なかなか興味深い、というか、おもしろいです。

 あと、シリーズ全体を紹介したカードが挟み込まれていたのですが、そこには「小太郎」のキャラクターや発想の背景について飯野さんご自身による説明が載っていました。驚いたことに「小太郎」はなんと17歳(!)なんだそうです。うーむ、そうだったのか! いや、もっと年齢が上と思っていました(^^;)。

 ともあれ、この絵本、もちろん(!)、おすすめです。

▼飯野和好『くろずみ小太郎旅日記 その5 吸血たがめ婆の恐怖の巻』クレヨンハウス、2005年(初出:『月刊クーヨン』2005年1月号 別冊付録)

アンソニー・ブラウン『こしぬけウィリー』

 主人公「ウィリー」はとても弱虫。まちのチンピラたちに「こしぬけウィリー」と呼ばれています。なぜなら、自分がまったく悪くなくても、自分が殴られていても、「すみません、ごめんなさい!」と謝ってしまうのです。そんな「ウィリー」が一念発起、「こしぬけ」におさらばしようと体を鍛えていく物語。

 「ウィリー」のこの大変身が見物。最初のページには、自信なくオドオドした表情、体も細く小さく、猫背でポケットに手を突っ込み、足取り重く歩く「ウィリー」が描かれています。それが、ジョギングにエアロビクスにボクシング、ボディービルにウエイトリフティングとトレーニングを続けるうちに、まったくの別人に変わっていきます。活力あふれる精悍な顔つき、大きく力強い体、背はしゃきっとし、胸をはって颯爽と歩く「ウィリー」。

 うちの子どもは、「ウィリー」が筋肉ムキムキになって鏡に自分の体を映している画面に大受けしていました。いやはや、なんともすごい筋肉。

 そして、まちに出た「ウィリー」は、チンピラたちにからまれていた女の子「ミリー」を救い、「ミリー」の愛まで勝ち取るのですが、そのあと、どうなったか。このラストには、うちの子どももびっくりしていました。「えっ! 元に戻ってる!」。まあ、外見が変わっても、中身は同じということでしょうか。なかなかユーモラスなオチです。

 でも、考えてみると、このラストは、なんだか安心できます。筋肉ムキムキになっても、心優しき「ウィリー」のまま。いや、その方が「ミリー」にも、もてるんじゃないかな(^^;)。

 それはともかく、この絵本のキャラクターはすべてゴリラ。絵は非常にリアリスティックで、毛の一本一本まで描き込まれており、これはもうゴリラ以外のなにものでもないです。ところが、それが人間以上に人間らしいんですね。服を着て人間のような生活をしているのですが、たとえば「ウィリー」の表情の変化を見ても、なんとも人間らしく、ゴリラであることを忘れてしまいます。いや、逆にゴリラであるからこそ、人間的なものがよりはっきり現れてくるのかも。

 あるいは、このリアリスティックな描写で人間の男の子が主人公として描かれていたら、どうだったか。絵本としてちょっと成り立たないかもしれませんね。「ウィリー」がチンピラにからまれている場面はもっと深刻になりそうですし、筋肉ムキムキになっていくところのおかしさも半減する気がします。ゴリラであることが、ファンタジーを可能にしていると言えるかもしれません。

 うーむ、なんだか難しくなってきましたが、絵のリアルな部分とファンタジーな部分の独特の結合が、この絵本のおもしろさかなと思いました。

 読み終わったあとで、うちの子どもは「ぼくは、こんなにムキムキになるのはイヤだなあ。だって、恥ずかしいから」なんて言っていました。たしかにねえ(^^;)。

 原書”Willy the Wimp”の刊行は1984年。この絵本、おすすめです。

▼アンソニー・ブラウン/久山太市 訳『こしぬけウィリー』評論社、2000年

アーサー・ガイサート『銅版画家の仕事場』

 「ぼく」の「おじいさん」は銅版画家。年に一度のスタジオセールには「ぼく」も仕事場に呼ばれ、準備を手伝います。「ぼく」の一番の役割は、刷り上がった版画に色を塗ること。この絵本は、そんな「おじいさん」と「ぼく」の銅版画制作を他ならぬ銅版画によって描いています。

 ガイサートさんの銅版画はたいへん美しく、とくに「ぼく」が絵のなかに入り込んでいるところはダイナミックで鮮やかな彩色。海の底やジャングルの描写には、うちの子どもも惹かれていました。

 また、「おじいさん」と「ぼく」が一緒に作品を制作していく過程からは、二人の間の静かで、しかし深いきずなが感じ取れるようです。準備が終わって、仕事場のすみの床に二人ですわり話している画面が、なんとも印象的。

 ところで、献辞には次のように記されていました。

わたしの父とその父と彼らの仕事場(ガレージ)に捧げる

 たぶん、作者のガイサートさんのお父さんもお祖父さんも銅版画家なんですね。だから、この絵本に描かれているのは、ガイサートさんが少年だった頃にまさに体験されたことなんじゃないかなと思います。自伝的絵本と言っていいかもしれません。

 と同時に、そこで描写されている制作過程は、おそらく、ガイサートさんが現在おこなっているものとそれほど変わりないでしょう。巻末のあとがき(?)にも同趣旨のことが書かれていました。その意味では、銅版画家という自分の仕事を描いた絵本と言えるかもしれません。

 というか、父から子へ、子から孫へ、人が変わってもずっと受け継がれてきた銅版画のまさに「仕事場」こそが、真の主人公かな。つまり、そういう一つの空間と、そこで伝えられてきた技芸です。そして、この絵本それ自体、銅版画の「仕事場」と技芸から生まれた、ほかならぬ銅版画なんですね。

 そういえば、私も高校のとき美術の時間に銅版画をやった記憶があります。そのときは版画だけで彩色はしなかったのですが、酸が銅を溶かすという化学的プロセスが作品の生成に組み込まれている点に、なんとも不思議な印象を抱きました。いわば化学の実験から一つの美が生み出されていく、そのおもしろさです。

 あらためて考えてみれば、銅版画家の仕事場は、見ようによっては何かのラボのようにも見えてきます。各種の化学薬品やバッドがならび、いろいろな道具、プレス機やウォーマーなどの大きな機械も置かれています。制作の過程では、インクの匂いのみならず、おそらく、さまざまな薬品の匂いも満ちているでしょう。

 と同時に、このラボは、職人的な手作業の積み重ねの場でもあるわけです。銅版を磨いたり、エッチングニードルで引っ掻いたり、インクをのばしたり拭き取ったり、仕上げの彩色に至るまで、まさに手を動かして進められています。

 そして、銅を溶かすというもっとも重要なプロセスが、人間の手をある程度離れた化学的変化に任されているということ。そこには、あらかじめ計算し切れない偶然とスリルとダイナミズムがあると言っていいのかもしれません。

それから銅版を酸につける。どのぐらいの時間つけておくかがとても難しい。
長年やっているおじいさんでも、ちょっとハラハラする。ぼくもいっしょにドキドキする。

 この絵本、巻末には「仕事場」の全体が描かれ、一つ一つの道具の名称も記されています。また、銅版画が出来上がるまでのプロセスについても、まさに銅版画で詳しく説明が載っていました。専門的な用語がいろいろ出てきますが、カバーの久美沙織さんの説明によると、この絵本の翻訳にあたっては、銅版画家の佐藤恵美さんにご協力いただいたそうです。

 うちの子どもには途中でいろいろ補足しながら読んでいきました。「銅版画、やってみたいなあ」とうちの子ども。うん、そうだよねえ。

 原書”The Etcher’s Studio”の刊行は1997年。この絵本、おすすめです。

▼アーサー・ガイサート/久美沙織 訳『銅版画家の仕事場』BL出版、2004年、[協力:佐藤恵美]

川田健/藪内正幸/今泉吉典『しっぽのはたらき』

 動物のしっぽのはたらきを扱った科学絵本。表紙をよくみると、右すみからにゅーっと何かしっぽのようなものが伸びてきて果物を取ろうとしていることが分かります。このしっぽの主はクモザル。表紙の絵はそのまま右に続いて、本文の最初のページにつながり、そこにクモザルの説明があります。

 この表紙の色遣いと描写が、なかなか工夫されていると思いました。タイトルは鮮やかな赤で右上に大きく配置。紙面のほぼ真ん中に、これまた鮮やかな黄色の花。その左隣りには、これも目立つ色合いの鳥が描かれています。これらに比して、果物を取ろうとしているしっぽは、かなり地味な彩色。こっそり果物をねらっているといった感じでしょうか。そして、鳥の視線は果物としっぽに向けられているんですね。「あ、こんなところに!」という発見の楽しみがあります。

 間にめくりをはさんで2ページにわたって絵が続くというつくりは、本文でも同様。めくる前のページに動物のしっぽと身体の一部だけが描かれ、「なんのしっぽでしょう?」と質問。めくった後のページに、しっぽに続く身体の絵と説明があります。なかなかおもしろい仕掛けです。うちの子どもと一緒に、しっぽの主の当てっこをして楽しみました。うちの子どもはだいたい正解していましたが、ガラガラヘビははじめて見たようです。

 しっぽの説明も、うちの子どもは興味深く聞いていました。そんなにたくさんの動物が取り上げられているわけではありませんが、たとえばキツネのしっぽのはたらきなどは、私もはじめて知りました。本文最後の次の一文には納得。

どうぶつの くらしかたの ちがいによって、しっぽの
はたらきが ちがっているのです。

 ところで、最初のクモザルのところで、うちの子どもが発見したのは、クモザルの足の指が手の指と同じようになっていること。親指と人差し指の間が開いていて、足でなんでもつかめるんですね。それにしても、うちの子ども、よく見ているなあと感心(親ばか)。

 読み終わったとで、「どんなしっぽだったらほしい?」とうちの子どもに聞いてみると、クモザルのしっぽがいいそうです(^^;)。

▼川田健 文/藪内正幸 絵/今泉吉典 監修『しっぽのはたらき』福音館書店、1969年(「かがくのとも傑作集」としての発行は1972年)