「絵本」カテゴリーアーカイブ

クリス・バン・オールスバーグ『ジュマンジ』

 今日もうちの子どもは読む前に、「画面を絶対に近づけないで!」と言っていました。よっぽど恐いんだな。それでも、この絵本は大好き。今回「ジュディ」と「ピーター」が「ジュマンジ」に到達して危機を脱したあとで、うちの子ども曰く「ジュマンジのゲーム、やってみたいなあ」。恐いんじゃないの?と聞いてみたら、でもやってみたいとのこと。なんとなくこの気持ち、分かるような気がします。(ちゃんとゴールにたどり着けるなら)ドキドキハラハラの最高のゲームかもしれませんね。

 ところで、うちの子どもは「ジュディ」と「ピーター」がジュマンジのゲームを抱えて公園から出ていく画面に注目していました。二人を見送るように騎馬像の後ろ姿が描かれているのですが、うちの子どもの考えでは、この騎馬像があやしいとのこと。つまり、ジュマンジのゲームを作ったのは騎馬像なんじゃないか。なぜなら、馬に乗っているしハトがまわりを飛んでいるし、動物たちがまわりにいるから。それに、途中で出てくる案内人はこの馬に乗っている人なんじゃないか……。うーむ、なかなかおもしろい解釈。画面では騎馬像は公園を出ていく二人を後ろからじっと見下ろすような描写になっており、たしかにあやしい雰囲気があります。いずれにせよ、ジュマンジを作ったのは誰か、いったい誰が公園に置いたのかは一つの謎ですね。

▼クリス・バン・オールスバーグ/辺見まさなお 訳『ジュマンジ』ほるぷ出版、1984年

上田真而子/斎藤隆夫『まほうつかいのでし』

 途中で帰ってくる魔法使いの先生、太陽を背にして全身黒々としているのですが、よく見ると、どうやらヒゲがあるようです。うちの子どもが気が付きました。うーむ、なかなか恐いです。

 あと、斎藤さんの絵でおもしろいな思ったのは、左右対称になっている部分がけっこうあること。文様のような表現や幾何学的な単純化された線とも相まって、何か秩序のある画面になっていると思います。それは魔法使いという物語のモチーフと呼応しているような気がします。

▼上田真而子 文/斎藤隆夫 絵『まほうつかいのでし』福音館書店、1992年

マイケル・ローゼン/ヘレン・オクセンバリー『きょうは みんなで クマがりだ』

 お父さん(?)と子どもたち4人にイヌ1匹、みんなで「クマがり」をするお話。草原や川やぬかるみや森や吹雪を通り抜け、海辺の洞穴にたどり着きます。「クマがり」は一応タイトルになっていますし、本文中にも「きょうは みんなで クマがりだ」という文章が繰り返し出てくるのですが、結局、クマを捕まえられたかどうか。なんだかテープを高速で逆回ししているような、おもしろいオチです。

 絵はモノクロとカラーのページが交互に出てきてリズミカル。モノクロのページでは草原や川やぬかるみや森や吹雪を前にして困っている様子が視点を比較的近づけて描かれ、カラーのページではそこをずんずん通り抜けている様子が少し遠くから描写されています。停滞しそしてまた動き出す、そのストップ・アンド・ゴーがモノクロとカラーで表されていて、おもしろい。

 また、困っている画面に付けられた文章も印象的。

うえを こえては いかれない。
したを くぐっても いかれない。
こまったぞ!
とおりぬけるしか ないようだ!

 そうだよなあ、通り抜けるしかないよなあ。上を超えるとか下をくぐるとか、避けることはできないんだなあ、はー。ちょっと考えすぎかもしれませんが、与えられた試練や課題に正面からぶつかることを教えられたような……。

 あと、子どもたちが4人登場し、そのなかには小さな幼児もいます。きょうだいと思いますが、お姉さんやお兄さんが小さい子の面倒を見ている様子も描かれていて、ほほえましい。でも、お母さんは出てこないようです。

 というか、家族(?)が描かれているなら必ず母親が登場しなければならないというのは、一種の思いこみですね。そもそもこの物語は家族でなければならない理由は何もないと思います。

 と思っていたら、他の紹介では、お母さんも登場していることになっていました。うーむ、そうなのかなあ。いや、一番背の高い女の子、母親には見えなかったのですが……。

 あと、この絵本は表紙と裏表紙の見返しも物語の一部。とくに裏表紙の見返し。月明かりに照らされた浜辺をクマが帰っていく様子が描かれています。なんだか後ろ姿がさみしそうです。あるいは、みんなと遊びたかったのか。

 ところで、うちの子どもは、この絵本があまり好きではないようで、読んだあと「あんまりおもしろくない」と言っていました。「僕はクマがりはしない」とも。絵のタッチが好きじゃないのかな。私から見ると標準以上のおもしろさがあると思うのですが、でもまあ、親子の間で価値観が違うのは当たり前ですね。

 原書の刊行は1989年。

▼マイケル・ローゼン 再話/ヘレン・オクセンバリー 絵/山口文生 訳『きょうは みんなで クマがりだ』評論社、1991年

ジュリア・ドナルドソン/アクセル・シェフラー『まじょとねこどん ほうきでゆくよ』

 三つ編みお下げの魔女がネコといっしょにほうきに乗って飛んでいると、とんがり帽子やリボンや魔法の杖が風に吹かれて下に落ちてしまいます。落とし物を見つけてくれたイヌやトリやカエルがほうきに乗り込むのですが、そのうち、ほうきは真っ二つに折れてしまい、みんな地面にまっさかさま。魔女にはドラゴンが迫ってきて……といった物語。

 ラストがなかなか楽しい。「かんぺきな まほうの ほうき」が登場します。うーむ、これはすごい装備。よく見ると、ほうきのおしりからは星が流れています。

 あと、この絵本は訳文がとてもリズミカル。まるで歌うような調子になります。大事なものを落としてそれを拾ってほうきに乗り込むという同じエピソードの連続にも、よく合っていると思いました。

 原書の刊行は2001年。

▼ジュリア・ドナルドソン 文/アクセル・シェフラー 絵/久山太市 訳『まじょとねこどん ほうきでゆくよ』評論社、2001年

フレッド・マルチェリーノ『ワーニー、パリへ行く』

 またまた「ワーニー」。うちの子どもは今日も「ワーニー」がパリで大スターになっている画面に大受けしていました。「ワーニー」、実に得意そうに踊っています。付けられている「ワーニー」のセリフとも相まって、なんともおかしい。

 ところで、この絵本の文章は「ワーニー」の独白だけで構成されています。そのため、訳文は口語体で、しかも割とくだけた表現が選ばれています。たとえば、文末表現は「~じゃん」「~さ」「~よ」といったものが多く、また「ちょ~ゆうめい人!」なんて言葉も出てきます。絵本の言葉遣いとしては珍しい方かもしれませんが、この絵本では「ワーニー」のコミカルな身振りや表情に合っていると思います。

▼フレッド・マルチェリーノ/せな あいこ 訳『ワーニー、パリへ行く』評論社、2004年、[書き文字:デザイン春秋会]

フレッド・マルチェリーノ『ワーニー、パリへ行く』

 エジプトで気楽な毎日を送っていたワニの「ワーニー」が、1799年のナポレオンのエジプト遠征とともにパリに連れてこられるという物語。「ワーニー」はパリで一躍スターになるのですが、その人気も長続きはせず、タマネギといっしょにワニ肉パイにされかかります。そこで「ワーニー」がどうするかが物語の結末。

 主人公の「ワーニー」がなかなかユーモラス。うちの子どもは「ワーニー」がパリで人気者になり得意になっている画面に大受けしていました。「ワーニー」、おかしなダンスまで踊っています。

 また、「ワーニー」は食べることにこだわりがあり、これもまた愉快です。たとえばこんなふう。

えさをおいかけて走りまわるなんざ、おいらに言わせりゃ、
さいあくだね。ひんってものがない。
えさなんて、むこうからやってくるのにさ。

 上記はエジプトでの暮らしの描写なのですが、最後はパリでもその暮らしを実現しています。なんともブラックなラストです。

 ところで、扉を見てあらためて気が付いたのですが、この物語は主人公「ワーニー」の手記という設定なのかもしれません。というのも、扉で「ワーニー」はメガネをかけて机にすわり(?)、紙を前にペンを口にくわえてなにやら考えているのです。こういう細かな描写もおもしろい。

 あ、もしかすると、この絵本は実話をもとにしているのかな。じっさいナポレオンはエジプトからワニをパリに連れてきたのかもしれませんね。原書の刊行は1999年。この絵本、おすすめです。

▼フレッド・マルチェリーノ/せな あいこ 訳『ワーニー、パリへ行く』評論社、2004年、[書き文字:デザイン春秋会]

たむらしげる『ランスロットのきのこがり』

 この絵本は「ロボットのランスロット」シリーズの1冊。「ランスロット」とネコの「モンジャ」がきのこ狩りに行くという物語。ただ、このきのこ、ただのきのこじゃありません。顔も手足もある「チョロきのこ」。自分で走って逃げていきます。巨大なお母さんきのこが現れたりして、結局、何も捕まえられずに家に帰った「ランスロット」と「モンジャ」。でも最後はクマの「パブロくん」も加わってみんなでおいしいきのこシチューを食べます。

 「チョロきのこ」の粉から普通の(?)きのこが生えてきて、それを料理するのですが、うちの子ども曰く「このきのこ、おいしそうだねえ」。いや、たしかに身体が暖まりそうなシチュー、うーむ、湯気も出ていていい感じ。あと、大きくなったきのこがテーブルとイスになっているのも、おもしろい。「あ、ほら、テーブルとイスになってる!」と、うちの子どもにも受けていました。

 たむらさんはCGで絵を描かれていると思うのですが、偕成社から出ているこの「ロボットのランスロット」シリーズは、以前にも増して表現が微細で細密になっているように思いました。たとえば物の影やあるいは画面の焦点なども表されています。近くのものはくっきり、背景のものはぼんやりとした輪郭で描かれており、あたかも3DのCG映画の一コマのよう。見ようによっては切り絵のような趣もあって、おもしろい。とはいえ、もちろん、たむらさんの絵本ならではの楽しい雰囲気はそのままです。一つの画面で情報量を増やすところと減らすところのバランスがたぶんポイントなんじゃないかなと思いました。

▼たむらしげる『ランスロットのきのこがり』偕成社、2004年、[ブックデザイン:高橋雅之(タカハシデザイン室)]

あべ弘士『雪の上のなぞのあしあと』

 今回もうちの子どもは謎の足跡の正体に大受けしていました。おもしろいよなー。でも、この正体、なかなかかわいいです。つぶらな瞳がまたよいです。

 ところで、表紙とその見返しまた裏表紙の見返しには、一匹の動物が描かれています。表紙では、動物園に向かっててくてく歩いているみたい。これはキツネかな。おそらく動物園のまわりにも北国の野生の動物たちが生息しているのでしょう。これもまた、北国の動物園の魅力の一つなのかもしれません。

 本文では宿直の仕事について次のように書かれていました。

まっくらで、まわりには いろんな どうぶつがいて、にんげんは ぼく ひとり。
こわいだろう、だって? とんでもない!
この しゅくちょくは ぼくの いちばんの たのしみなんだ。

ゾウ、ライオン、ヘビ、トリ……だいすきな どうぶつたちに かこまれている ぼく。
みんなは ぼくのことを にんげんの だいひょうと おもってくれている。
そして ひとばんじゅう はなしかけてくる。

 動物たちに対するあべさんの愛情がよく伝わってきます。

▼あべ弘士『雪の上のなぞのあしあと』福音館書店、1989年

クリス・バン・オールスバーグ『ジュマンジ』

 再び『ジュマンジ』。『ザガズー』のあとに読んだのですが、「じんせいって びっくりつづきですね!」という『ザガズー』の末尾の一文に対してうちの子ども曰く「でも、もっとびっくりするのがこっち」。

 今回もうちの子どもは、読む前に「[読んでいるとき画面を]絶対に近づけないと約束して!」と言っていました。で、最初わざと低い声で読んでみたら「普通の声で読んで!」と言われました。よっほど恐いんだな(^^;)。それでも、この絵本、読んでみたくなる魅力があるんですね。

 それはともかく、なんとなく思ったのですが、『ジュマンジ』では人の顔の表情がそれほど正面から描かれていません。後ろ姿が割と多いですし、上から見下ろす構図もけっこうあります。表情が分からないことが逆に画面の緊張感を高めていると思います。あるいは、顔の表情といった分かりやすいものではなく、画面全体で緊迫した雰囲気を表していると言えるかもしれません。

▼クリス・バン・オールスバーグ/辺見まさなお 訳『ジュマンジ』ほるぷ出版、1984年

クエンティン・ブレイク『ザガズー』

 うーむ、これはおもしろい! 子どもを育てそして老いていくことを非常に象徴的に描いた絵本。もしかすると、子どもより大人(とくに子育て中の大人)の方が楽しめるかもしれません。

 幸せに楽しく暮らしていた「ジョージ」と「ベラ」。ある日、小包が届きます。開けてみると、なかには「ザガズー」と名札のついた「ちっちゃな ピンクの いきもの」。赤ちゃんが入っていたわけです。二人は「ザガズー」を放りっこして幸せな日々を過ごします。ところがある朝、「ザガズー」は、恐ろしいキイキイ声で泣く大きなハゲタカの赤ん坊に変わってしまいます。別の朝には、なんでもメチャメチャにする小さなゾウ、泥だらけにするイボイノシシ、怒りっぽい竜、コウモリとどんどん変わっていきます。そのうち毛深く「とらえどころのない」生き物になってしまって……という物語。

 まさに副題のとおり「じんせいって びっくりつづき」。でも、それを、コミカルな描写でサラリと風通しよく描いているところが魅力です。

 考えてみると、最初に小包で赤ちゃんが届くというのは、たしかに荒唐無稽なんですが、けっこう感覚的に分かるような気がします。いや、それは私が男性だからかもしれませんが……。

 また、「ザガズー」が最後に変身(?)する「とらえどころのない」生き物。これは、なんだか身につまされますね。たしかになー、自分もそんなときがあったなあと思わず我が身を振り返ってしまいます。もしかすると、いまもそうかもなあ。

 しかしまあ、この物語、比喩ではなく真面目に受け取るなら、かなり重い内容が含まれていると思います。家族内のさまざまな暴力の背景となる部分もあるでしょう。しかし、この、マンガのような描写と白味の多い画面が実に軽やかに前向きに、読んでいる私たちの肩をポンポンとたたいてくれる、そんなふうに感じました。

 また、一番すごいと思ったのがラスト。「ああ、そうか、そうだよなあ」と子どもといっしょに読みながら心のなかでうなずいてしまいました。誰かに育てられ、誰かを育て、そしてまた誰かに育てられる……。人間が「自立した人間」であるかに見えるのは限られた時間内のことで、誰かを必要とする、「人間」ではない時間がはじめとおわりにあるんですね。そもそも「自立」なんてのは一種の幻想かも……。「ジョージ」と「ベラ」と「ザガズー」そして「ザガズー」のパートナーの「ミラベル」が互いに肩と腰に手をあてて紙面の向こうに歩いていく画面からは、そんなことも考えてしまいました。

 ところで、うちの子どもには、「ザガズー」がどんどん変身していくところがおもしろかったようです。もしかすると、ハゲタカに変わったところでは、うちの下の子どもと重ね合わせていたかも。ゾウになったところでは「ハゲタカの方がましだねえ」なんて言っていました(^^;)。

 原書"Zagazoo"の刊行は1998年。この絵本、おすすめです。

▼クエンティン・ブレイク/谷川俊太郎 訳『ザガズー』好学社、2002年