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バージニア・リー・バートン『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』

 一ヶ月ぶりに「けいてぃー」。うちの子どもは「冬といえば、この絵本だよね」と持ってきました。「けいてぃー」の活躍を見ていると、寒い冬でもなんだか体のなかから力がわいてくる感じです。

 以前も思ったのですが、この絵本は絵も文も実にリズミカル。たとえばページのすみを囲うさまざまなイラストや線模様、あるいは除雪した道に付いたキャタピラの跡や脇によけられた雪の模様、「けいてぃー」が通った道々やその周囲に立ち並ぶ家々、ページ内の文章の配置……。いろいろなかたちと線と色が、何か秩序と力と流れを持ってリズムを刻んでいます。

 線と線、曲線と曲線、かたちとかたち、色と色が、響き合い共鳴し合い、まるで音楽が聞こえてくるような感じ。あるいは美しく力強いダンスを見ているような感じと言っていいかもしれません。それは、降り続く雪のリズムや、「けいてぃー」の規則正しいエンジン音、また「じぇおぽりす」というまちそれ自体の息吹をも伝えていると思います。

 そもそも絵本にとって、リズムというのはとても大事な要素なんじゃないかなと今回あらためて感じました。

▼バージニア・リー・バートン/石井桃子 訳『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』福音館書店、1978年

ジョン・バーニンガム『ボルカ』

 生まれつき、羽が生えていないガチョウの「ボルカ」。お医者さんガチョウの勧めで、お母さんガチョウは毛編みの羽を編んであげます。「ボルカ」は大喜び。しかし、一緒に生まれたきょうだいのガチョウたちはそんな「ボルカ」を笑うだけ。仲間に入れない「ボルカ」は、飛ぶことも泳ぐことも覚えられません。「ふつう」ではないがゆえに周りに受け入れられない「ボルカ」。

 しかも、そのうち誰も「ボルカ」を気にとめなくなってしまいます。毛編みの羽を編んでくれたお母さんガチョウですら、日々の忙しさのゆえに「ボルカ」のことが見えなくなってしまう……。

 きょうだいに捨てられ親にも捨てられてしまう「ボルカ」。いや、「捨てる」という能動的な行為の対象ですらありません。ただ単に「忘れられてしまう」のです。これほど切なくつらいことはないんじゃないかと思います。親しき者たちのなかで自分の存在が、いつの間にか無きものになってしまうわけです。

 そして、冬が近づいた、ある寒くて湿っぽい日、「ボルカ」を残して、ガチョウたちはみんな南へ旅立ってしまいます。

 しかし、ボルカは、いきませんでした。ボルカはとべなかったのです。いかないで、ボルカは、ひっそりかくれ、みんなの出かけるのを、見まもっていました。ボルカがいっしょじゃないなんて、だれも、きがつきませんでした。とおくまでの旅行のことをかんがえるだけで、みんな、せいいっぱいでした。

 こうして独りぼっちになってしまった「ボルカ」を救うのが「クロムビー号」。「ボルカ」が偶然入り込んだ船です。「ボルカ」はすぐにイヌの「ファウラー」や「マッカリスター船長」、船員の「フレッド」と仲良しになり、一緒にロンドンに向かいます。そして、ロンドンの「キュー植物園」で他のガチョウたちと一緒に幸せに暮らすというのがラスト。

 なんとなく思ったのですが、「ボルカ」を助けるのが船乗りというのは、何か含意があるような気がします。いろんなところを旅して、いろんなことに接してきた船乗りだからこそ、「ボルカ」をごくふつうに受け入れられるのかも。

 また、「ボルカ」が幸せに暮らすのがロンドンというのも興味深いです。ロンドンでは「ボルカ」に羽がないことなど誰も笑ったりしません。つまり、都市とは、多様な他者が互いにきずなを結び生きる場。まあ、本当にそうなのかどうか、若干、疑問が残る気もしますが、都市というもののある一面を捉えていると思いました。

 ところで、この絵本は、ジョン・バーミンガムさんが27歳のときにはじめて出版した絵本だそうです。私もそんなに読んでいるわけではありませんが、後年の作品と比べると筆のタッチが力強く、また色合いもより鮮やかな印象。また、なんとなくですが、ページによって彩色の仕方や色の出し方が変化しているような気がします。もしかすると実験的に試行錯誤しながら描かれたのかもしれません。

 とはいえ、たとえば夏が終わり秋が深まっていくことを表した画面の微妙な色合いはとても美しく、あるいは、ガチョウたちがいっせいに飛び立っていく姿のいわば幾何学的な表現もおもしろいです。

 あと、やはり印象的なのは「ボルカ」が悲しみに沈む画面。たとえば、毛編みの羽をみんなに笑われてアシの茂みで泣くところや、みんなに置いてきぼりにされて入江でたたずむところ。広い空間のなかに「ボルカ」がぽつんと立ちすくみ、かすれた色合いの空に夕日がにじんでいます。うち捨てられた「ボルカ」の孤独と寂寥がなにより迫ってくるように感じました。

 あらためて考えてみれば、こうした絶望のふちに追いつめられるというモチーフは、以前、読んだ『ずどんと いっぱつ』にも読み取れました。ハッピーエンドも同様です。なんとなく、バーミンガムさんの表現のもっとも基底にあるものの一つが伺える気がします。

 それはともかく、巻末の「訳者あとがき」によると、登場するキャラクターの名前にはいろいろ工夫があるのだそうです。日本語の訳文ではその含意が十分に伝えられないため、少し説明が記されていました。なかなか興味深いです。

 原書”BORKA The Adventures of a Goose with no Feathers”の刊行は1963年。この絵本、おすすめです。

▼ジョン・バーニンガム/木島始 訳『ボルカ はねなしガチョウのぼうけん』ほるぷ出版、1993年

みかんぐみ/加藤朋子『家のきおく』

 この絵本は、「みかんぐみ」という建築設計事務所の4人の建築家が自分の子どものころの「家のきおく」をイラストと文章でまとめたもの。ストーリーはとくになく、見開き2ページに一つずつ、「きおく」に残っている家にかかわる情景が描かれていきます。

 左ページに絵、右ページに文章というつくり。それぞれの絵の基本色が赤、黄、緑、青の4色に限定されており、どうやら、これは4人の建築家それぞれに対応しているようです。また、絵のなかに登場する人物の頭には、みかんの葉っぱのようなものが付いていて、これは文字通り「みかんぐみ」を表しているのでしょう。

 巻頭には、この絵本を作るに至った経緯が少し説明されていました。引用します。

じつは、いつも4人で建物のデザインを考えているのに、
おたがいが、子どものころにどんな家で
生活していたのかまったく知りませんでした。
そして、その家のイメージは、
私たちが子どものころに身についた
「家のきおく」というものとも
深くかかわっているように思えます。
そこでわたしたちは、
おたがいの「家のきおく」について
さぐってみることにしました。

 本文では、4人の建築家が子どものころ住んでいたさまざまな家(谷間の家、団地の家、アフリカの家、郊外の家、社宅など)とそこでの記憶(縁側、隣家、庭、遊びや冒険、個室、友だちの家、増築など)が一つ一つ描写されています。

 読んでいると、自分の「家のきおく」も呼び覚まされてきます。夏の縁側や離れの寝床、悪いことをして暗いところに閉じこめられたこと、家族みんなで壁紙を張り替えたこと、などなど、いろんなことが思い出されてきます。この絵本のカバーに記されているのですが、まさに「家の記憶は思い出だけでなく、わたしの生きた体験」です。

 巻末には「みかんぐみ」が設計した家々が写真入りで紹介されていました。ちなみに「みかんぐみ」のウェブサイトはみかんぐみウェブサイトです。サイトにもたくさんの作品の写真が掲載されています。

 私は建築のことはよく分からないのですが、非常にユニークで楽しそうな建物です。どれもひと味違うというか、「家ってこんなもの」という私たちの思いこみをなんだか気持ちよく揺さぶってくれる気がしました。そして、たしかに、その家々は、4人の建築家の「家のきおく」と遠くから通じ合っているように思います。おもしろいです。

 なんとなく感じたのですが、子どもたちにとって家がどのように見えていて、子どもたちが家をどのように活用しているのか、これがおそらく「みかんぐみ」の設計のモチーフの一つなんじゃないかな。子どもにとって、大人が決めた家の約束事はあってないようなもの。そこに、より自由で心地よい空間が現れているのかもしれません。

 4人の建築家へのインタビューも載っています。「みかんぐみ」の名前の由来や4人での仕事の進め方、建築の道に進んだ経緯、「みかんぐみ」設立のいきさつなどが語られていました。

 「あとがき」もなかなか印象的です。ちょっと長くなりますが、一部を引用します。

自分が生活する場所のことを考えるのは楽しいことです。
それは、決して難しいことではありません。にもかかわらず、その楽しいことを
実際にしている人は、それほど多くはないように思います。なぜでしょうか。
そういうことを考えることに慣れていない人にとっては、なんだか面倒くさい、
どうでもいいことのように感じられているのかもしれません。
子どものころから、自分が生活する場所について考えることに
慣れ親しんでいれば、面倒くさいなんて思わないだろうし、
どうでもいいことなんて考えないはずです。
いつも、この楽しさを多くの人たちと共有したいと思っているし、
そうなってくれば、街並みまでもがもっと楽しいものになるにちがいありません。

 ああ、なるほどなあと思いました。たしかに私なんかのばあい、家のつくりや空間の使い方について、日頃とても無頓着で、あまり自覚的ではありません。マス・メディアの表層に流れているものを無意識のうちに当然と考えてしまったり、たいした根拠もなく受け継がれてきたものをそのまま無批判に受け入れていたり、「面倒」というよりは、空間について思考が停止しているんですね。

 でも、この絵本に描かれている「家のきおく」を読み、また「みかんぐみ」が設計した家の写真を見ていると、とても新鮮で、こういう見方・考え方もありだなと思えてきます。なんというか、認知と思考の枠組みが広がる気がします。そして、一度、「常識」を取り払ってみれば、自分の生活する場所や空間の可能性をあれこれ考えるのは、ワクワクするような楽しいことだなと思いました。

 少し主旨が違うかもしれませんが、たとえば子どものころの秘密基地づくり。いろんな材料を使って、とにかく自分たちにとって居心地のよい場所をなんとか作り出そうと熱中していたなあと思い出しました。まあ、そんなに大したものはできなかったのですが、本当に懸命に取り組んでいました。これも「家のきおく」の一つと言えそうです。あのときの楽しさは、いま自分が生活する空間を考えるときにも大事な気がします。

 ところで、この絵本は、物語絵本とも図鑑とも異なる独自な内容、文章も幼児がスムーズに理解するには難しいかもしれません。

 うちの子どもは最初、ぱらぱらと自分でめくって見ていて、「うーん、読んでみないと分からないねえ」と言っていました。そして「この絵は何で描いているのかな?」。「コンピュータで描いているんじゃないの」と言うと「あ、やっぱり。そうだと思った」。子どもはよく見ているなあとびっくりしました。

 で、読んでいくと、うちの子どもには、それなりにおもしろかったようで、ふーん、という感じで聞いていました。でも最後のページで眠ってしまいました(^^;)。もう少し大きくなると、もっとよく理解できるかなと思います。小学生以上向きかもしれません。

 それはともかく、うちの子どもにとって、いま自分たちが住んでいる家はどんなふうに記憶されるのかなあ。大きくなってから聞いてみたいです。楽しみでもあり、不安でもあり……。そういえば、先日、一緒にお風呂に入っていたら「僕はこの家から引っ越したくなーい」なんて言っていました。古くてそんなに広くないのですが、いまの家がだいぶ好きなようです(^^;)。あるいは、他の家のことをあまり知らないからかな。

 この絵本は、「くうねるところにすむところ 子どもたちに伝えたい家の本」というシリーズの一冊。奥付にはこのシリーズの「発刊のことば」がありました。現在、「家に守られる、家を守る、家とともに生きるという一体となった感覚」「家文化」が衰退しており、それが子どもたちにも影響を及ぼしているのではないかというのが基本の問題意識のようです。ここでの「家」とは、社会制度としての「家」ではなく、具体的な空間・建物としての「家」ですね。で、その「家文化」の再生に取り組むために、建築家やアーティストや作家が子どもの目線で家について伝えていくというのが、このシリーズの主旨。他には益子義弘『家ってなんだろう』と伊礼智『オキナワの家』が刊行されています。

▼建築家 みかんぐみ/作画 加藤朋子『家のきおく』インデックス・コミュニケーションズ、2004年、[プロジェクト・ディレクター:真壁智治、アート・ディレクション:油谷勝海、デザイン:池田博範/田中弘子、解説・建築家紹介:鈴木明、編集プロデューサー:堀込一博、編集:崎浜志津、翻訳:菊池真実、本文使用書体:金井和夫 作 解築地明朝体+本明朝体]

寺沢孝毅『アザラシに会いたい』

 北海道の野生のアザラシを撮影した写真絵本。写真を撮られた寺沢さんが生活する天売島では、毎年、冬になると、ゴマフアザラシの群れが上陸するのだそうです。この絵本の前半は、天売島でのアザラシの様子が紹介されています。

 そして後半は、知床半島の流氷の上での赤ちゃんアザラシ。ゴマフアザラシは2月から4月にかけて出産するのですが、天売島には赤ちゃんアザラシがいません。というのは、ゴマフアザラシは流氷の上でしか出産と子育てをせず、そのため、流氷の来ない天売島には赤ちゃんアザラシはいないそうです。北海道でゴマフアザラシが出産と子育てをするのは、流氷が流れ着く知床半島周辺の海に限られるとのこと。

 このアザラシの写真、とてもかわいいです。遠くから群れを写した写真、泳いでいるときの海中写真、眠っているときの写真、クローズアップもあります。つぶらな瞳と表情ががなんとも愛らしい。

 もちろん、野生のアザラシなので、撮影には苦労されているようです。写真に付けられた文章は、基本的に寺沢さんの視点から語られており、アザラシに近づいたときの出来事や知床で赤ちゃんアザラシを探したときのことを、自分も寺沢さんと一緒に撮影に参加しているような感覚で読んでいけます。

 ところで、ゴマフアザラシは、冬に南下し、春になるとまた北に移動するそうです。そのルートを示した簡単な地図も付いていました。注記によると、千キロ近くも移動するため、その調査は難しく、移動のすべてが解明されているわけではないとのこと。そんなに長距離を移動するなんて、はじめて知りました。しかも、まだ分かっていないことが多い。すごいですね。

 うちの子どもは、アザラシの写真をニコニコしながら見ていました。とくに裏表紙。横になったアザラシが顔を上げて振り返っている写真が載っているのですが、これが気に入ったらしく、自分でもまねをしています(^^;)。ごろんと腹ばいになって、顔を上に向けニコリ。うちの子ども、かわいいぞ!(親ばか^^;)。

▼寺沢孝毅 文・写真『アザラシに会いたい』「たくさんのふしぎ」2005年3月号(第240号)、福音館書店、2005年、[地図作成:ジェイ・マップ、レイアウト:三村淳]

冨成忠夫、茂木透/長新太『ふゆめ がっしょうだん』

 冬の木の芽を拡大して写した写真絵本。1ページに1つずつ写真が配置され、その下に長新太さんの文が付けられています。

 木の芽はどれも何かの「顔」のように見え、とても「表情」豊か。うちの子どもと一緒に「これは眼だねー」「鼻みたい」「大きな耳!」「宇宙人みたいだねえ」などと、一つ一つの写真を見ながら、いろいろ話をしました。なかなか楽しいです。

 長さんの文は、まるで歌のような趣。同じフレーズが幾つかあり、そこには同じ木の芽の写真が載っています。これが全体のアクセントになっています。

 巻末には「おとなの かたへ」と題された説明がありました。「顔」に見えるところは実は落葉した葉の柄が付いていた跡で、また眼や口のように見える模様は、葉に養分を送っていた管の断面とのこと。その上にある円形ないし円錐形の部分が冬芽で、春にはそこから葉が伸びてくるのだそうです。写真一つ一つの木の名前も載っていました。

 春を待ちながら少しずつ静かに準備をしている木の芽たち。その息吹はたしかに何か歌を歌うようなものかもしれませんね。写真の木の芽の「顔」それ自体、口を開け、眼を開けて、みんなで歌を歌っているようにも見えてきます。冬のしんしんとした林のなかで、そんな木の芽たちの静かな歌声がゆっくりと流れていると思うと、寒い冬も楽しくなるかのようです。

▼冨成忠夫、茂木透 写真/長新太 文『ふゆめ がっしょうだん』福音館書店、1986年(「かがくのとも傑作集」としての発行は1990年)

ルース・スタイルス・ガネット/ルース・タリスマン・ガネット『エルマーと16ぴきのりゅう』

 この間に少しずつ読んでいた「エルマー」シリーズの第三巻、読み終わりました。「どうぶつ島」と「カナリヤ島」の冒険から家に帰った「エルマー」。「りゅう」もまた家族の待つ「そらいろこうげん」に戻るのですが、15匹の家族たちは人間に追いつめられ危機に陥ってしまいます。「エルマー」は助けを求めてきた「りゅう」に再会し、一緒に「そらいろこうげん」に向かう、という物語。

 今回もまた「エルマー」は創意工夫で「りゅう」の家族たちを救い出します。文中では、第一巻や第二巻と同じく、作戦に必要なアイテムがいろいろ細かく描写されていました。これをどう活用するんだろうと読み進めていくと、なかなか手の込んだ、しかも楽しい計略。けっこう緊迫する場面もあり、うちの子どもは集中して聞いていました。

 この描写の細かさ、とくに数字の細かさは、「エルマー」シリーズの特徴の一つですね。第二巻では「エルマー」の食べる「みかん」の数がそのつどカウントされていましたが、第三巻では食べ物に加えて、「りゅう」の家族の数や「エルマー」の持つお金もきちんと計算されています。几帳面というか、救出のための周到な準備とも相まって、ある種の合理性を表しているような印象を持ちました。

 しかし、「エルマー」、やっぱり食べ過ぎのような……。いくら大冒険のあととはいえ、一度にあんなに目玉焼きを食べて大丈夫なんだろうか(^^;)。

 ところで、今回登場する「りゅう」の家族は、なかなかユニーク。数ページにわたって続く挿絵では、「たいそう」の楽しいポーズをとった「りゅう」たち一匹一匹がきちんと描かれています。「たいそうのめいじん」の「りゅう」というのも、おもしろい。うちの子どもは、「りゅう」たちの模様と本文中の説明を照らし合わせていました。楽しい趣向です。

 荒々しいと思われている「りゅう」が実はそうではないこと、人間の都合によって恐そうなイメージが作り上げられているだけであること、このあたりの説明も考えてみれば意味深ですね。当たり前と思われていることがただの思い込みであり、しかもそれは実は誰かの利益となるために捏造されたもの……こういう類の事例は身の回りにたくさんあるかと思います。

 それはともかく、へぇーっと思ったのは、第三巻になってはじめて「りゅう」の名前が明かされること。あらためて気が付いたのですが、たしかに第一巻と第二巻では名前が書かれていませんでした。恥ずかしくて言えなかったのだそうです(^^;)。

 あと、「エルマー」と「りゅう」の友情もなかなか印象的。とくに再会の場面と最後のお別れの場面。文中では実にさらりと描かれているのですが、ともに困難を乗り越えてきた仲間です。その絆が、付けられた挿絵や、またとくに表紙のイラストによく表れているように感じました。

 「エルマー」シリーズ、これでおしまいと思うと少し残念です。うちの子どもも「続きがあるといいのにねえ」と言っていました。「エルマー」と「りゅう」、また脇役の「ねこ」や「りゅう」の家族、まだまだいろんな物語が待っていそうな印象なのです。でも、これでおしまい。

 原書”The Dragons of Blueland”の刊行は1951年。

▼ルース・スタイルス・ガネット 作/ルース・タリスマン・ガネット 絵/渡辺茂男 訳/子どもの本研究会 編『エルマーと16ぴきのりゅう』福音館書店、1965年

『絵本であそぼ!』パパ’s絵本プロジェクトの本が2月末に刊行

 絵本ナビ パパ’s絵本プロジェクトの本が、2月末に出版されるそうです。昨年、刊行された『幸せの絵本』に続き、今度はパパ’s絵本プロジェクト! すごいなあ。たしか『幸せの絵本』の第二弾も刊行予定になっていたと思いますし、次々と本が出ますね。

 【楽天ブックス】【予約】 絵本であそぼ!~子どもにウケるお話し大作戦:パパ’S絵本プロジェクト/安藤哲也・金柿秀幸・田中尚人では、詳しい内容紹介が掲載されていました。

 全体で13のテーマ、計90冊の絵本を紹介。コワイ話、ビロウな話、ナンセンスな話、のりもの絵本、昆虫もの、等々、実際に「パパ’Sお話し会」でウケた絵本をセレクトとのこと。これはおもしろそうです。

 あと、ぜひ読んでみたいのは、コラム&トーク。パパ’S絵本プロジェクト結成のいきさつや、絵本を読むことについての3人のメンバーによる鼎談、全国のパパへのメッセージが掲載されるようです。

 楽天ブックス限定の予約特典もあるとのことで、いまから予約してみようかな。

なかのひろみ/ふくだとよふみ『う・ん・ち』

 タイトルの通り、動物の「うんち」を扱った写真本。たくさんの動物たちのたくさんの「うんち」写真が掲載されています。少し図鑑のような趣もありますが、文章の量はそれほど多くなく、写真絵本と言っていいかと思います。

 この「うんち写真」、圧倒的におもしろく、あっと驚く事実、へぇーと納得の事実が文字通りてんこ盛り。うちの子どもと一緒に大いに楽しみました。いや、子どものみならず大人にとっても実に興味深いです。

 表紙と裏表紙にもあしらわれていますが、動物たちがまさにうんちをしている瞬間の写真もいっぱい。みんな、それぞれのスタイルでふんばっています(^^;)。どことなくおかしみがあり、と同時に、人間も動物も変わりはなく、生きるってやっぱり食べて出すことなんだなあと、厳粛な気持ちにもなってきます。

 カバはプールをうんちで濁らせないと落ち着けないことや、カタツムリのうんちは食べたものによって色が変わること、などなど、うんちについてはじめて知ることが数多くありました。カニ、イソギンチャク、クジラやイルカといった海の生物、カメレオン、ヘビ、トカゲ、クモ、サソリ、ミミズといった生き物のうんち写真もあります。こんなうんちなんだなあと興味深いです。

 うんちそれ自体の接写写真もたくさん。よく見ると、ライオンのうんちには毛繕いでなめた自分の毛がたくさん含まれており、これに対し、ゾウのうんちは草だらけ、パンダのうんちは竹の葉入り。うんちは、それぞれの動物の生態を表していることが分かります。

 うちの子どもは、大きなうんち写真が載っているページに鼻を近づけてにおいをかいでいました(^^;)。うーん、この気持ち、分かります。実は私も念のため、においをかいでみました。だってね、山盛りのうんちのこんなにリアルで大きな写真です。本当に、におってきそうな感じ(^^;)。

 驚きと同時になるほどなあと思ったのは、「『うんち』のつづき?」と題されたページ。子ども動物園が舞台なのですが、ヒツジのうんちをブタが食べ、そのブタのうんちをカメが食べ、そしてカメのうんちは掃除されるという、うんちの物語が写真で描かれています。そのあとの文章を引用します。

しぜんの なかで うんちは
むしや バクテリアに たべられて
つちに なります。
そして つちは きや くさを そだてて
どうぶつを やしない
はなしは つづいていきます。

 ああ、そうなんだなあとあらためて納得。本来うんちは自然のなかを循環し、次に生きるものを育て養っていくわけですね。その一方で、私たちのばあい、水洗トイレに流すだけなので、このうんちの「きずな」が見えにくくなってしまう。アタマでは分かっていても、実感する機会はほとんどないなあと思いました。

 巻末には、本文に登場した動物も出てこない動物も合わせて「うんち図鑑」。数えてみたら全部で87。肉食動物、草食動物、雑食動物を色分けし、それぞれのうんちの写真、うんちの長さや様子、うんちをするときのスタイル、などの説明付き。おもしろいのは、一番ラストに、自分のうんちの写真を貼り付ける欄があるところ(^^;)。

 奥付のページには、構成と文を担当したなかのさんや、写真のふくださんの紹介に加えて、装丁・デザインを担当したまつ本さんの紹介、撮影地、写真協力、謝辞、さらには、表紙や裏表紙を飾っているたくさんのうんちオブジェ(これがまたユニーク!)の制作者・撮影者も記されていました。ここにも楽しい記述がいっぱいです。

 写真のふくださんによると、この『う・ん・ち』は13年間(!)のうんち撮影の集大成だそうです。すごいですね。やはり、これだけの数の動物のうんちシーンを撮影するのは大変な時間と労力がかかっているんですね。奥付のページに記されている撮影地を数えてみると、動物園や水族館など22施設もありました。

 構成・文のなかのさんは「抱腹絶倒の『うんち撮影・取材風景』を伝えられないのがちょっと心残り」とのこと。うーむ、これはおもしろそう。エッセイのかたちで本にまとめると、けっこうよいんじゃないでしょうか。ぜひ読んでみたいです。

 装丁・デザインのまつ本さんの紹介には「今回、品のよいうんちの本をつくるのが特命」と記されていました。パソコンの画面から「におい」がするようになったそうですが(^^;)、「品のよさ」はこの本のすみずみから伝わってきます。

 そして、「うんちオブジェ」の制作はこの本の関係者、その家族や友人の方々。みんなでワイワイやりながら楽しく作っていったんじゃないかなと思います。アットホームな本作り、なんか、いいなあ。

 取材・撮影でお世話になった動物園や水族館への謝辞には次のように記されていました。

動物園や水族館の人たちはいつも親切ですが、うんちの撮影のときは いっそう親切だったような気がします。

 あー、なんだか分かるような気がします。というのは、最近、うちの下の子ども(1歳)が少し便秘ぎみで、食事のあと、うんうん言って涙を流しながらふんばっているんです。実につらそうなんですが、でも、大きなうんちをしたあとのスッキリとした表情が本当にすばらしく、また出てきたでっかいうんちを見ていると、こちらまでうれしく楽しくなってきます。上の子どもも「見せて!見せて!」「大きいねえ」とニッコリしているし、うんち一つで、家族みんな盛り上がっています(^^;)。

 なんだろうな。うんちをするのは、もちろん、そんなにきれいなことではないけれど、でも、それはもともと、うれしく楽しいことなんですね。「子どものうんちだから」ではなく、大人のうんちでも同じと思います。

 私が小学生のころは、とくに男子のばあい、学校でうんちをするとからかわれたりして、それがいやで、うんちをがまんすることがありました。どうやら今もそんな雰囲気があるようです。でも、うんちをするのは、汚いとか恥ずかしいではなく、楽しくうれしいこと。それが浸透するなら、うんち一つではありますが、学校の雰囲気全体もだいぶ変わるような気がします。この本を読んで、そんなことも考えました。

 もともとこの本は、福音館書店の月刊誌『おおきなポケット』2001年10月号に掲載された「フンフンうんち図鑑」を追加取材し大幅に増ページしてまとめたものだそうです。この写真絵本、強力に(!)おすすめです。

▼なかのひろみ 文/ふくだとよふみ 写真『う・ん・ち』福音館書店、2003年、[装丁・デザイン:まつ本よしこ]

マタニティ・ブックスタート(続)

 先日、書いた記事、絵本を知る: マタニティ・ブックスタートに、YuzYuzさんからトラックバックをもらいました。YuzYuz | マタニティ・ブックスタートです。

 yuz さんの記事では、赤ちゃんが絵本に接することそれ自体、したがってブックスタートそれ自体に私が懐疑的と書かれているように読めました。でも、先の記事で私が考えていたのは、そういうことではありませんでした。私の書き方が言葉足らずだったなと少し反省しています。そこで、いろいろ補足しながら、もう一度、自分の考えをまとめてみたいと思います。うまくいかないかもしれませんが……。以下、かなり長文です。

 まず、私は、たとえばゼロ歳児の赤ちゃんが絵本に接することそれ自体に懐疑的・否定的なわけではありません。むしろ、逆です。絵本を破ったり、なめたり、遊び道具にしたり、また最後まで読まなくても、父親や母親と一緒に赤ちゃんが絵本に接するのはよいことと思っています。

 じっさい、うちの下の子どもは現在1歳ですが、ゼロ歳児のときから絵本を読んでいます。もちろん、遊び道具になることが多いですし、読んでいる途中で飽きてしまったり、放り出したりしていました(実は先々週くらいから最後まで楽しんで読むようになりました。これについてはまた別の記事で書きたいと思っています)。

 でも、「だからダメだ」などとは私は考えませんでした。当人が楽しそうにしていましたし、私自身も子どもと一緒に楽しむことができたからです。繰り返しになりますが、「絵本は最後のページまで読まないとダメ」とか「絵本で遊んではダメ」とは私は考えていません。ちなみに、このことは、現在5歳の上の子どものときも同様でした。

 というわけで、yuz さんが下記のように書かれていることに、私はまったく同意見です。

ブックスタートで重要なのは、あくまでも本を通した触れ合いの時間を取ることであって、絵本を読ませることではないからです。
・赤ちゃんを抱っこして、声をかけて上げること。
・触れ合った場所から、保護者の方の声が直接届くこと。
こういう触れ合いの機会の一つの手段として「絵本を読」んでいるのではないでしょうか。
また、一冊を通して読む必要もありません。
私がブックスタート事業に関わっていた時には
「赤ちゃんのご機嫌の良い時に読んであげてくださいね」などの声かけも行っていました。
赤ちゃんが飽きちゃったら、絵本が途中でもおしまいにしてしまいます。
でも結構赤ちゃんも興味を持って見てくれるものですよ。

 私も、赤ちゃんにとって「絵本としての認識」が必要とは考えていません。というか、そもそも、それは無理な話であって、そういう認識がないのは当たり前と思っています。

 ですので、私の記事で yuz さんが引用されている次の箇所は、(少なくとも私の意識では)何かネガティヴな含意を込めて書いたわけではありません。

 とはいえ、生まれてしばらくの赤ちゃんに絵本を読んでも、おそらく赤ちゃんは絵本を受け入れないのではないでしょうか。少し大きくなってからも遊び道具にすることが多いと思います。そもそも絵本が「絵本」として認知されるのは、それなりに条件が整わないと難しい気がします。

 いまになって読んでみると、「絵本を受け入れない」という一文は表現が強すぎるなと思います。これは筆(というかキーボード)が滑ってしまいました。とはいえ、上記の箇所は、ネガティヴな評価もポジティヴな評価もなく、事実としてこうなんじゃないかと自分が思ったことを書いたつもりでした。

 では、マタニティ・ブックスタートの何に対して私が疑問を持っていたのかと言えば、上記の箇所のすぐあとで書いた点です。くどくなって恐縮ですが、引用します。

 そうだとすれば、親が期待するほどには赤ちゃんが絵本を楽しんでくれないとき、逆に絵本なんていらないということになりはしないか……。考えすぎかもしれませんが、絵本とのかかわり方が阻害されることもありうるように思いました。もちろん、このあたりについては、事前にきちんと伝えておけばよいのでしょうが……。

 あと、この取り組みがある種の方向に進んでいくと、たとえば「胎教によい絵本の読み聞かせ」とか「胎教におすすめの絵本」といったところまで行くかもしれませんね。最近は絵本ブームと言われていますし、もしかすると、どこかの出版社がすでに企画を立てているかも。たぶん出版社にとっては新しい市場になるような気がします。

 上記で私は、二つのことを考えていました。

 一つは、赤ちゃんと絵本に関する、親の側の理解が行き届くかどうかという問題です。つまり、母親や父親が赤ちゃんに絵本を読むとき、たとえば「最後まで読まないといけない」「絵本をおもちゃにしてはいけない」といったふうに考えて、無理に読ませたりしないかどうか……。赤ちゃんにとって絵本は遊び道具でまったくかまわないし、最後まで読む必要もなく、ふれ合いの時間が大事なんだということ、このことを親の側がちゃんと理解できるようになっているかどうか、です。

 yuz さんも少し触れられていますが、それが「絵本」であるがゆえに、早期教育として捉えられる部分も根強いんじゃないかと考えました。親の側からすれば、せっかく絵本を赤ちゃんに読むんだから、英語絵本を読もうとか、きちんと最後まで読んで言葉を早く覚えさせたいとか、繊細な絵に触れさせて美的な感覚を身につけさせたいとか、そういう意識がどうしても入ってきがちでしょう。ブックスタートの現場でいろいろ説明があっても、親の側がそれをきちんと理解せず、何か教育的なものになってしまう可能性はけっこうあると思います。

 私はブックスタートの取り組みを実地に知っているわけではないので、誤解している部分もたぶんあるでしょう。それでも、ブックスタートで絵本を母親や父親に渡すとき、「絵本を読ませる」のではなく「ふれ合いの時間」が大事ということや、絵本に過剰に教育的な意味を込める必要はないこと、こういうことがちゃんと伝わっているかなあという、そういう疑問だったわけです。

 で、上記のようなことが伝わっていないとしたら、絵本に接するせっかくの機会が、赤ちゃんにとっても、母親や父親にとっても、楽しめないものになるかもしれないと思いました。それが結果として、その後の絵本との付き合い方にネガティヴに影響することもありうるかなと考えたわけです。

 もう一つは、こうしたブックスタートがマタニティ・ブックスタートにまで広がっていったとき、それは出版社等にとって一つの新しい市場になるのだろうと考えました。このことは、もちろんポジティヴな面もあるでしょうが、ネガティヴな面もあると思いました。

 これについては、以前書いた記事、絵本を知る: 『子どもの本~この1年を振り返って~2003年』(その2)で、日本子どもの本研究会絵本研究部の代田知子さんの文章を引用しながら考えたことに関連します。詳細はリンク先を読んでいただければと思いますが、代田さんは、赤ちゃん絵本とブックスタートの現状について、若干の危惧を表されていました。

 私なりに敷衍するなら、ブックスタート運動の高まりとともに赤ちゃん絵本がどんどん出版されるようになったけれども、どこか当の赤ちゃんを置き去りにしてはいないかという心配です。代田さんがふれている例で言うなら、「赤ちゃん絵本」と言いながら実際には赤ちゃんが楽しめないものが多かったり、あるいは、質はともかく値段を安くしてどんどん絵本を出そうとする出版社側の姿勢があったり、ということです。

 こういう側面に注目するなら、マタニティ・ブックスタートの広がりも、いろいろ気を付ける点があると考えたわけです。もちろん、「胎教によい絵本の読み聞かせ」が唱えられたり「胎教におすすめの絵本」が出版されることをそもそもネガティヴに見る必要はないでしょう。結果として、すぐれた絵本にふれる機会が増すなら、それはよいことと思います。

 とはいえ、代田さんが書かれていたのと同様に、マタニティ・ブックスタートの流れにのって出版社がいろいろ新しい商品やサービスを出していったとき、質が十分に確保されるのかどうか、またブックスタートの本来の主旨や理念がきちんと生かされるかどうか、若干、危うい面があるのではないかと疑問に感じたわけです。

 だいぶ長くなってしまいましたが、多少なりとも先日の記事の不十分な点や表現の至らないところを補足できていればと思います。先にも書きましたが、私はブックスタートの取り組みを実地に知っているわけではありません。自分の子どもと一緒に絵本を読むなかで考えたことや感じたことに基づいて書いているにすぎません。たぶん、いろいろ間違いや誤解もあると思いますが、とりあえず記事をアップします。YuzYuz さんの記事にもトラックバックしたいと思います。

かとうまふみ『えんぴつのおすもう』

 みんなが寝静まったある夜、鉛筆たちの相撲大会がおこなわれました。舞台は机の上。ふつうの鉛筆に色鉛筆、ちびたものから長いものまで、みんなで楽しく相撲大会をしていると、突然、ハサミの「チョキチョキきょうだい」が乱入して大暴れ。実は、「チョキチョキきょうだい」はすることなくつまらなかったのです。暴れ回る「チョキチョキきょうだい」を止めた「ちびたやま」はいいことを思いつき、最後は決勝戦とみんなで華やかなパレード。

 登場する文具一つ一つがカラフルで楽しい雰囲気。鉛筆たちにはそれぞれしこ名があり、まわしも付けています。鉛筆以外にも、消しゴムやカッター、定規、鉛筆入れのカップなども出てきて、よく見ると、それぞれ個性的に表情豊かに描写されています。電気スタンドの明かりが土俵になっており、その電気スタンドの名前が「しょうのすけさん」。いうまでもなく行司ですね。ちゃんと相撲団扇まで持っているところが、おもしろい。

 勝負の画面にはあたかも実況中継のように手書き文字が書き込まれ、読むときも力が入りました。「のこった! のこった!」のかけ声も楽しいです。あと、相撲の勝負はスピードとスリルに満ちていると思うのですが、その点をこの絵本では黒の線描きで表しています。動きの方向や勢い、力の入り具合がうすくかすれた黒で描き込まれていて、アクションの連続が伝わってきます。

 うちの子どもがニヤリとしたのは、最後のページの机の描写。最初のとびらのページにも同じ構図でその机が描かれているのですが、机の上の様子が微妙に違っています。つまり、相撲大会の前と後。人間の知らないところで楽しい一夜が明けたわけですね。

▼かとうまふみ『えんぴつのおすもう』偕成社、2004年、[編集:松田素子、デザイン:高橋雅之(タカハシデザイン室)]