飯野和好『くろずみ小太郎旅日記 その5 吸血たがめ婆の恐怖の巻』

 「ねぎぼうずのあさたろう」と並んで、飯野和好さんのもう一つの時代劇絵本シリーズが「くろずみ小太郎旅日記」。この絵本は、シリーズ第5作目です。

 主人公は、忍術を修行して一人旅に出ている「くろずみ小太郎」。今回「小太郎」は琵琶湖を訪れます。そこで遭遇するのが「もののけ」の「吸血たがめ婆」。あっと驚く忍術で「小太郎」は「たがめ婆」と対決します。

 うーん、おもしろい! このシリーズも、うちではずっと読んできて、毎回楽しんでいます。「冒険活劇絵本」と銘打たれているのですが、まさにその通り。恐ろしい「もののけ」が登場して「小太郎」と激しい戦いを繰り広げるという、非常にシンプルなストーリー。血湧き肉踊る、大興奮の物語です。

 そして、なにより絵がすごい。見開き2ページをいっぱいに使い、圧倒的な迫力。画面の構図や色遣いなど、ページをめくったときのインパクトの強さは飯野さんならではと思います。今回、うちの子どもは「たがめ婆」が正体を現すシーンに「ウワーッ!」と大受けしていました。

 また、「たがめ婆」との対決で「小太郎」が繰り出す個性あふれる忍術も実におかしい。そんなバカなと、へなへな脱力してしまう感じです。読んでいると絵の迫力にぐいぐいのまれてしまうのですが(^^;)、そもそも設定が妙なんですね。うちの子どもも「くろずみ小太郎は炭だから、血なんかないよ!」と突っ込みを入れていました。しかし、このナンセンス具合が楽しいのです。

 あと、今回は舞台が湖ということもあって、水音の描写がとても印象的。前半の静かでサスペンスフルな展開を際立たせていると思いました。

 ところで、あらためて考えてみると、「ねぎぼうずのあさたろう」シリーズと「くろずみ小太郎」シリーズは、同じ時代劇絵本とはいっても、かなり対照的。「あさたろう」シリーズは、筋の通ったまっすぐな男の子の物語。清く正しいと言っていいかもしれません。

 これに対し、「小太郎」シリーズは、いわばエログロナンセンス。いや、もちろん子どもが読んでまったく問題ない内容です。でも、ナンセンスはもちろんですが、そこはかとなくグロい部分やセクシュアルな部分が見え隠れしているように思えるのです。

 また、「あさたろう」シリーズでは、人間関係の綾や情緒が割と描き込まれていると思うのですが、「小太郎」シリーズは、そんなものはおかまいなしの活劇に次ぐ活劇。

 この違いは、両者が下敷きにしているものの違いなのかなと思います。つまり、「あさたろう」シリーズは浪曲で、「小太郎」シリーズは講談です。ちょっと単純化しすぎかもしれませんが、従来からの物語りの二つの形式を、その性格をふまえて二つの時代劇絵本シリーズに血肉化したのかなと考えました。

 それはともかく、巻末のあとがきには、今回の絵本を着想した最初のきっかけが語られています。二つのテレビ番組がもとになったとのこと。なかなか興味深い、というか、おもしろいです。

 あと、シリーズ全体を紹介したカードが挟み込まれていたのですが、そこには「小太郎」のキャラクターや発想の背景について飯野さんご自身による説明が載っていました。驚いたことに「小太郎」はなんと17歳(!)なんだそうです。うーむ、そうだったのか! いや、もっと年齢が上と思っていました(^^;)。

 ともあれ、この絵本、もちろん(!)、おすすめです。

▼飯野和好『くろずみ小太郎旅日記 その5 吸血たがめ婆の恐怖の巻』クレヨンハウス、2005年(初出:『月刊クーヨン』2005年1月号 別冊付録)

稲垣吾郎さんによる絵本の朗読:フジテレビ「忘文」

 ネットをさまよっていて偶然、知ったのが、フジテレビの番組「忘文」(わすれぶみ)。日曜は 早起きがオトク : エンタメ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)という記事に紹介が載っていました。日曜日の早朝、午前5時45分から放映されている15分番組。ウェブサイトは忘文です。

 SMAPの稲垣吾郎さんが一般公募した手紙と絵本を1冊、朗読するという内容。「忘文」という名前は、中国の故事「忘草(わすれぐさ)」に由来し、「それを読むと日頃の憂いを忘れさせてくれる文」ということだそうです。手紙は、家族や友人に宛てたもので、その相手を前にして稲垣さんが読むとのこと。

 そして絵本。サイトには、2003年10月にスタートしたときからのバックナンバーが掲載されているのですが、当初は文学作品などのいわゆる「名文」を朗読していたようです。で、それが絵本に変わるのは、総集編をはさんで2004年の10月辺りから。そのラインナップをみると、佐野洋子さんの『100万回生きたねこ』、ガース・ウイリアムズさんの『しろいうさぎとくろいうさぎ』、トミー・アンゲラーさんの『すてきな三にんぐみ』、レオ=レオニさんの『スイミー』といった名作が多いようです。でも、最新の3月13日は島田ゆかさんの『かばんうりのガラゴ』。

 どんなふうに読んでいるのかなあ。一度見てみたいです。稲垣さんの声は、割と落ち着いていると思うので、けっこう絵本の朗読に合うかもしれませんね。

 あと、撮影は公園など野外でおこなわれているそうです。緑のなかで日差しを浴びながら絵本を朗読する……。うーん、なんか、いいですねー。15分という短い番組ですが、日曜の朝にぴったり。

 あ、そうだ! うちの子どもに絵本を読むときも、たまに外で読むとよいかも。図書館や家のなかで読むのとは違い、もっと開放的で気持ちいいような気がします。

 もう少し暖かくなったら、一度、試してみたいですね。でもまあ、少し恥ずかしいかな(^^;)。

アンソニー・ブラウン『こしぬけウィリー』

 主人公「ウィリー」はとても弱虫。まちのチンピラたちに「こしぬけウィリー」と呼ばれています。なぜなら、自分がまったく悪くなくても、自分が殴られていても、「すみません、ごめんなさい!」と謝ってしまうのです。そんな「ウィリー」が一念発起、「こしぬけ」におさらばしようと体を鍛えていく物語。

 「ウィリー」のこの大変身が見物。最初のページには、自信なくオドオドした表情、体も細く小さく、猫背でポケットに手を突っ込み、足取り重く歩く「ウィリー」が描かれています。それが、ジョギングにエアロビクスにボクシング、ボディービルにウエイトリフティングとトレーニングを続けるうちに、まったくの別人に変わっていきます。活力あふれる精悍な顔つき、大きく力強い体、背はしゃきっとし、胸をはって颯爽と歩く「ウィリー」。

 うちの子どもは、「ウィリー」が筋肉ムキムキになって鏡に自分の体を映している画面に大受けしていました。いやはや、なんともすごい筋肉。

 そして、まちに出た「ウィリー」は、チンピラたちにからまれていた女の子「ミリー」を救い、「ミリー」の愛まで勝ち取るのですが、そのあと、どうなったか。このラストには、うちの子どももびっくりしていました。「えっ! 元に戻ってる!」。まあ、外見が変わっても、中身は同じということでしょうか。なかなかユーモラスなオチです。

 でも、考えてみると、このラストは、なんだか安心できます。筋肉ムキムキになっても、心優しき「ウィリー」のまま。いや、その方が「ミリー」にも、もてるんじゃないかな(^^;)。

 それはともかく、この絵本のキャラクターはすべてゴリラ。絵は非常にリアリスティックで、毛の一本一本まで描き込まれており、これはもうゴリラ以外のなにものでもないです。ところが、それが人間以上に人間らしいんですね。服を着て人間のような生活をしているのですが、たとえば「ウィリー」の表情の変化を見ても、なんとも人間らしく、ゴリラであることを忘れてしまいます。いや、逆にゴリラであるからこそ、人間的なものがよりはっきり現れてくるのかも。

 あるいは、このリアリスティックな描写で人間の男の子が主人公として描かれていたら、どうだったか。絵本としてちょっと成り立たないかもしれませんね。「ウィリー」がチンピラにからまれている場面はもっと深刻になりそうですし、筋肉ムキムキになっていくところのおかしさも半減する気がします。ゴリラであることが、ファンタジーを可能にしていると言えるかもしれません。

 うーむ、なんだか難しくなってきましたが、絵のリアルな部分とファンタジーな部分の独特の結合が、この絵本のおもしろさかなと思いました。

 読み終わったあとで、うちの子どもは「ぼくは、こんなにムキムキになるのはイヤだなあ。だって、恥ずかしいから」なんて言っていました。たしかにねえ(^^;)。

 原書”Willy the Wimp”の刊行は1984年。この絵本、おすすめです。

▼アンソニー・ブラウン/久山太市 訳『こしぬけウィリー』評論社、2000年

アーサー・ガイサート『銅版画家の仕事場』

 「ぼく」の「おじいさん」は銅版画家。年に一度のスタジオセールには「ぼく」も仕事場に呼ばれ、準備を手伝います。「ぼく」の一番の役割は、刷り上がった版画に色を塗ること。この絵本は、そんな「おじいさん」と「ぼく」の銅版画制作を他ならぬ銅版画によって描いています。

 ガイサートさんの銅版画はたいへん美しく、とくに「ぼく」が絵のなかに入り込んでいるところはダイナミックで鮮やかな彩色。海の底やジャングルの描写には、うちの子どもも惹かれていました。

 また、「おじいさん」と「ぼく」が一緒に作品を制作していく過程からは、二人の間の静かで、しかし深いきずなが感じ取れるようです。準備が終わって、仕事場のすみの床に二人ですわり話している画面が、なんとも印象的。

 ところで、献辞には次のように記されていました。

わたしの父とその父と彼らの仕事場(ガレージ)に捧げる

 たぶん、作者のガイサートさんのお父さんもお祖父さんも銅版画家なんですね。だから、この絵本に描かれているのは、ガイサートさんが少年だった頃にまさに体験されたことなんじゃないかなと思います。自伝的絵本と言っていいかもしれません。

 と同時に、そこで描写されている制作過程は、おそらく、ガイサートさんが現在おこなっているものとそれほど変わりないでしょう。巻末のあとがき(?)にも同趣旨のことが書かれていました。その意味では、銅版画家という自分の仕事を描いた絵本と言えるかもしれません。

 というか、父から子へ、子から孫へ、人が変わってもずっと受け継がれてきた銅版画のまさに「仕事場」こそが、真の主人公かな。つまり、そういう一つの空間と、そこで伝えられてきた技芸です。そして、この絵本それ自体、銅版画の「仕事場」と技芸から生まれた、ほかならぬ銅版画なんですね。

 そういえば、私も高校のとき美術の時間に銅版画をやった記憶があります。そのときは版画だけで彩色はしなかったのですが、酸が銅を溶かすという化学的プロセスが作品の生成に組み込まれている点に、なんとも不思議な印象を抱きました。いわば化学の実験から一つの美が生み出されていく、そのおもしろさです。

 あらためて考えてみれば、銅版画家の仕事場は、見ようによっては何かのラボのようにも見えてきます。各種の化学薬品やバッドがならび、いろいろな道具、プレス機やウォーマーなどの大きな機械も置かれています。制作の過程では、インクの匂いのみならず、おそらく、さまざまな薬品の匂いも満ちているでしょう。

 と同時に、このラボは、職人的な手作業の積み重ねの場でもあるわけです。銅版を磨いたり、エッチングニードルで引っ掻いたり、インクをのばしたり拭き取ったり、仕上げの彩色に至るまで、まさに手を動かして進められています。

 そして、銅を溶かすというもっとも重要なプロセスが、人間の手をある程度離れた化学的変化に任されているということ。そこには、あらかじめ計算し切れない偶然とスリルとダイナミズムがあると言っていいのかもしれません。

それから銅版を酸につける。どのぐらいの時間つけておくかがとても難しい。
長年やっているおじいさんでも、ちょっとハラハラする。ぼくもいっしょにドキドキする。

 この絵本、巻末には「仕事場」の全体が描かれ、一つ一つの道具の名称も記されています。また、銅版画が出来上がるまでのプロセスについても、まさに銅版画で詳しく説明が載っていました。専門的な用語がいろいろ出てきますが、カバーの久美沙織さんの説明によると、この絵本の翻訳にあたっては、銅版画家の佐藤恵美さんにご協力いただいたそうです。

 うちの子どもには途中でいろいろ補足しながら読んでいきました。「銅版画、やってみたいなあ」とうちの子ども。うん、そうだよねえ。

 原書”The Etcher’s Studio”の刊行は1997年。この絵本、おすすめです。

▼アーサー・ガイサート/久美沙織 訳『銅版画家の仕事場』BL出版、2004年、[協力:佐藤恵美]

川田健/藪内正幸/今泉吉典『しっぽのはたらき』

 動物のしっぽのはたらきを扱った科学絵本。表紙をよくみると、右すみからにゅーっと何かしっぽのようなものが伸びてきて果物を取ろうとしていることが分かります。このしっぽの主はクモザル。表紙の絵はそのまま右に続いて、本文の最初のページにつながり、そこにクモザルの説明があります。

 この表紙の色遣いと描写が、なかなか工夫されていると思いました。タイトルは鮮やかな赤で右上に大きく配置。紙面のほぼ真ん中に、これまた鮮やかな黄色の花。その左隣りには、これも目立つ色合いの鳥が描かれています。これらに比して、果物を取ろうとしているしっぽは、かなり地味な彩色。こっそり果物をねらっているといった感じでしょうか。そして、鳥の視線は果物としっぽに向けられているんですね。「あ、こんなところに!」という発見の楽しみがあります。

 間にめくりをはさんで2ページにわたって絵が続くというつくりは、本文でも同様。めくる前のページに動物のしっぽと身体の一部だけが描かれ、「なんのしっぽでしょう?」と質問。めくった後のページに、しっぽに続く身体の絵と説明があります。なかなかおもしろい仕掛けです。うちの子どもと一緒に、しっぽの主の当てっこをして楽しみました。うちの子どもはだいたい正解していましたが、ガラガラヘビははじめて見たようです。

 しっぽの説明も、うちの子どもは興味深く聞いていました。そんなにたくさんの動物が取り上げられているわけではありませんが、たとえばキツネのしっぽのはたらきなどは、私もはじめて知りました。本文最後の次の一文には納得。

どうぶつの くらしかたの ちがいによって、しっぽの
はたらきが ちがっているのです。

 ところで、最初のクモザルのところで、うちの子どもが発見したのは、クモザルの足の指が手の指と同じようになっていること。親指と人差し指の間が開いていて、足でなんでもつかめるんですね。それにしても、うちの子ども、よく見ているなあと感心(親ばか)。

 読み終わったとで、「どんなしっぽだったらほしい?」とうちの子どもに聞いてみると、クモザルのしっぽがいいそうです(^^;)。

▼川田健 文/藪内正幸 絵/今泉吉典 監修『しっぽのはたらき』福音館書店、1969年(「かがくのとも傑作集」としての発行は1972年)

井浦千砂/井浦俊介『ふしぎな はっぱ』

 いまでは海に沈んでしまった「シャッフル王国」。その王国が栄えていた時代の一人の王子の物語です。心優しき王子でみんなに好かれていたのですが、一つだけ困ったことがありました。それは、髪の毛を洗うのが大嫌いなこと。王様やお后様にいくら言われても、長く伸びた髪の毛を洗おうとしません。そんなある日、王様は、髪の毛を洗わなくても一晩できれいになるという薬を手に入れます。さっそく王子に勧め、王子はそれを頭に振りかけるのですが、朝になってみると、なんと頭から緑色の葉っぱ(!)が何本も生えてきたのです。

 いやー、実にとぼけた物語。このあと王子は、葉っぱを鉢に植えかえて育て、その白い小さな花は国中のみんなの心を和ませたというのがラスト。

 絵は、なんというか真面目で丁寧な印象。古風な静物画、あるいは壁画のようなところがあります。それは、失われた王国という物語の舞台に合っているのですが、髪を洗わないとか、頭に植物が生えてくるといったエピソードとのギャップがあって、なんともいえないおかしさを生んでいます。クスクス笑いたくなってくる感じ。

 というか、言い方を変えると、とても平和なんですね。絵からも伝わってくるのですが、「シャッフル王国」は豊かで栄えており、だからこそ、こんな大らかなお話が成り立つような気がします。そして、その王国がもはや地上に存在しないことも、逆に説得力があります。

 ところで、主人公の王子が一番得意なのは工作。「なにか おもしろいことが あたまに ひらめくと、すぐに じぶんで つくってしまう」そうです。うちの子どもにも少しそんなところがあるのですが(親ばか)、王子が作った「しかけおもちゃ」を興味深そうに見ていました。とはいえ、もちろん(?)、うちの子どもはちゃんと髪は洗うそうです(^^;)。

▼井浦千砂 原案/井浦俊介 文・絵『ふしぎな はっぱ』「こどものとも」1998年1月号(通巻502号)、福音館書店、1998年、[レイアウト:なかのまさたか、原画撮影:神村光洋]

渡辺茂男/赤羽末吉『へそもち』

 高い山の上の黒い雲の上に住んでいる「かみなり」。ときどき地上に飛び降りて、動物や村人のおへそを持っていってしまいます。ある日、「かみなり」の住む黒雲がお寺の上にやってきたので、和尚さんは長い槍を五重塔のてっぺんに結びつけておきました。すると、飛び降りた「かみなり」は槍に引っかかって宙ぶらりん。日頃「かみなり」に困り果てていた村の衆は「ころしてしまえ!」と叫びますが、「かみなり」曰く「おへそを食べないと雨を降らすことができません」。さて、どうしたものか? 和尚さんが考え付いた解決策が物語のラストです。

 この絵本、「こどものとも」のあの横長の画面をそのままぐるっと90度回転させて縦長にし、しかも縦にめくっていくというつくり。絵は見開き2ページをいっぱいに使っているので、横20センチに縦54センチというかなりの縦長画面です。

 そして、この縦長の空間が、雲の上と地上とを行きつ戻りつする物語にぴったりと呼応していて、非常に印象的。たとえば「かみなり」が出す稲妻は、縦見開き2ページの上から下へ勢いよく描かれ、かなりの迫力です。また「かみなり」がおへそを取ることを描写した画面では、縦見開き2ページの下におへそを取られた村人たちが横たわり、上にはおへそを手に持った「かみなり」が描かれています。「かみなり」の上下移動がそのまま画面に定着しており、実にダイナミック。

 五重塔のてっぺんに引っかかった「かみなり」の描写も、高い高い五重塔が縦見開き2ページの一番下から上に向かってぐいぐいのびていき、そのてっぺんに小さく「かみなり」が描かれています。五重塔の巨大さに対して「かみなり」の頼りなさが際立っています。

 うちの子どもは、おへそがおもしろかったようで、「かみなり」がおへそを手に持っている画面では「あっ、おへそ!」と指さしていました。このおへそ、見ようによっては和菓子のようにも見え、なんだか、おいしそうなんですね。

 おへそを取られた村人たちの様子も、たしかに難儀そうなのですが、どことなくユーモラス。「おへそがえる・ごん」シリーズの「へそとりごろべえ」のエピソードを思い出しました。

 あと、五重塔に引っかかった「かみなり」に村の衆の一人が「ひぼしにしろ!」と叫ぶのですが、うちの子どもはこれを「煮干し!?」と言い換えて大受けしていました。うーむ、「かみなり」の「煮干し」かあ。うちの子ども、おもしろいぞ!(^^;)。

 ともあれ、この絵本、おすすめです。

▼渡辺茂男 作/赤羽末吉 絵『へそもち』福音館書店、1966年(こどものとも傑作集としての刊行は1980年)

V.グロツェル/G.スネギリョフ/松谷さやか/高頭祥八『むらいちばんのりょうしアイパナナ』

 久しぶりに「アイパナナ」。今回あらためて思ったのですが、この絵本のモチーフは、まさに北国ならではのもの。厳しい冬にみんなで食べ物を分かち合い、助け合いながら生き抜いていくことが描かれています。

 たとえば、物語の冒頭には、親のいない子どもには優先的に肉を与えるという村の習慣が説明されており、また最後には、「アイパナナ」がしとめたクマの肉をみんなで分け合います。「アイパナナ」とネズミの家族のエピソードには、人間同士のみならず、人間と動物との助け合いも描かれているように思いました。

 厳しい自然環境のなか、誰もが餓えに直面するなかで育まれている知恵やきずな、そんなことが伝わってきます。

▼V.グロツェル/G.スネギリョフ 再話/松谷さやか 文/高頭祥八 画『むらいちばんのりょうしアイバナナ』「こどものとも 年中向き」1997年2月号(通巻131号)、福音館書店、1997年

和田誠『ねこのシジミ』

 タイトルの通り、ネコの「シジミ」を描いた絵本。赤ちゃんのときに公園でひろわれたこと、「シジミ」という名前の由来、毎日の生活や他の動物との付き合い、泥棒が入ってきたときのこと、などが淡々と描写されています。

 どうやら「シジミ」は、作者である和田さんちの実在の飼い猫のようです。登場する子どもの名前が「ショウちゃん」で、「おかあさん」の絵を見てもこれは和田さんの奥さんの平野レミさんですね。この「おかあさん」のエピソードが少しコミカルで笑えます。

 実在のネコですから、この絵本では、まさに事実おこったことが変に飾り立てられることなく、ゆったりと描かれています。泥棒のエピソードも、ストーリーとして盛り上がるようなものではなく、あっさりとした描写。物語というよりは何かエッセーを読んでいるような印象です。

 文章の語り手は「シジミ」自身。冒頭の一文を引用します。

ぼくは ねこです。なまえはシジミ。

夏目漱石の『吾輩は猫である』を彷彿とさせますね。そのあとの流れをみても、たぶん『吾輩は猫である』を念頭に置いて描かれたんじゃないかなと思います。

 見開き2ページの左ページに文章、右ページに絵というのが基本のつくり。絵はどれも同じ大きさの四角に描かれており、銅版画に淡い色調の彩色、シンプルですっきりとしています。主人公の「シジミ」も、変にかわいかったり擬人化されたりすることなく、写実的に描かれています。絵のなかに人間はあまり登場しません。

 物語としての盛り上がりもなく絵も淡泊となると、なんだか地味でおもしろみがないように思われるかもしれません。でも、この絵本、なんともいえない魅力があります。淡々とした、しかしあたたかみのある描写のなかで、「シジミ」が家族みんなに愛されてることが伝わってきます。そしてまた、静かな日常のいとおしさが深く実感できるように思いました。

 うちの子どもは、この絵本、けっこう気に入ったようで、読み終わったあと「おもしろいねえ」と言っていました。後日もう一度読んだときには「この絵本は全部好き!」とのこと。実は図書館から借りるとき気に入らないかなと思っていたのですが、意外にもまったく逆の反応。うちの子どもは、こうしたゆったりとした描写の絵本も好きなんだあとあらたな発見です。

 あと、うちの子ども曰く「絵を描くのに使えるねえ」。ネコの絵のことかなと思っていたら、色えんぴつのような画材で彩色されていることに惹かれたみたいです。

 ところで、この絵本は、ほるぷ出版から刊行されている「イメージの森」シリーズの1冊。「イメージの森」シリーズは「新しい絵本ワールドにチャレンジする」と銘打たれているのですが、考えてみると、たしかにこの絵本、絵本としてはかなり意欲的かもしれません。人目を引くような派手な描写もなく実に淡々と「シジミ」の日常が描かれていく……。こういうスタイルの絵本は珍しい気がします。

 けっこう大人向けと言えるかもしれませんが、でも、うちの子どもには大受けでした。なんだろうな。つまり、物語の起伏やあからさまなメッセージ、絵のはなやかさには寄りかからない、むしろ、そういったものとは距離を置いたおもしろさがあり、それもまた子どもにとって一つの魅力なんじゃないかと思います。なんとなくですが、そこには絵本の新しい可能性があるような気もします。

 ともあれ、この絵本、おすすめです。

▼和田誠『ねこのシジミ』ほるぷ出版、1996年、[編集:トムズボックス]

片山令子/片山健『たのしいふゆごもり』

 久しぶりに『たのしいふゆごもり』。何度読んでも、ニコニコしてくる絵本です。うちの子どもも楽しそう。

 今回思ったのは、この絵本、「こぐま」の成長物語でもあるんだなということ。物語の冒頭、「こぐま」は一人で眠れなかったのですが、最後は「おかあさん」が作ってくれた「ぬいぐみ」と一緒に一人で眠れるようになります。そして、この「ぬいぐるみ」、「こぐま」の小さくなってしまったオーバーをこわして作るんですね。たしかに、オーバーを着た「こぐま」の姿からは、袖や裾など合わなくなっている様子がうかがえます。

 たぶん「おかあさん」は、「こぐま」の成長を喜びながら「ぬいぐみ」を作っていたんじゃないかな。

 うちの子どもも、いまは一人で眠れるのですが、しばらく前までは私や妻にぴたっとくっついて眠っていました。そのときのことを少し思い出しました。

▼片山令子 作/片山健 絵『たのしいふゆごもり』福音館書店、1991年