「絵本」カテゴリーアーカイブ

佐々木マキ『ムッシュ・ムニエルとおつきさま』

 今日は1冊。今回の「ムニエル」の魔法の呪文は以前にもましてとぼけています。これで本当に魔法がきくのかなと思ってしまいます(^^;)。とぼけていると言えば、今回登場する双子の「ニッチモ博士」と「サッチモ博士」、ほとんど同じに描かれているので区別がつきません。よく見ると、どうやらネクタイの縞模様が逆方向に入っているのが違いのようです。
▼佐々木マキ『ムッシュ・ムニエルとおつきさま』絵本館、2001年

ボニー・ガイサート/アーサー・ガイサート『マウンテンタウン』

 今日は1冊。今回はハイイログマの着ぐるみ(?)を探したり、修理された煙突を見つけたりして楽しみました。「あとがき」に書かれていた「モービルホーム区画(移動式の家の区画)」、まだ分かりません。たぶん、あそこだと思うんだけどなあ。
 ところで、この絵本では、クローズアップのときも誰か特定の人に焦点が当てられるのではなく、まちとそこで生活する人びとの営みが少し距離を置いて描かれています。そこには、農業や鉱業や商業などの日々の労働と生活のさまざまな楽しみが、一つ一つはとてもささいだけれども、しかし、かけがえのない大切なものとして描写されている、そんな印象を持ちました。
▼ボニー・ガイサート 文/アーサー・ガイサート 絵/久美沙織 訳『マウンテンタウン』BL出版、2002年

アナリーセ・ルッサルト/ヨゼフ・ウィルコン『月がくれたきんか』

 今日は1冊。貧しくとも誠実なる者(「ミロ」)には未来が開け、富んでいても強欲なる者(「ルド」)には未来は閉じられるという物語。昔話にしばしば登場するモチーフと言えるかもしれません。大きな鏡に映し出された月が「ミロ」には金貨を、「ルド」には闇を与えます。これも昔話によくあると思うのですが、眠り込んだ「ミロ」には奇蹟が起こり、ずっと起きていた「ルド」には何もありません。一度、自分を自分ではなくすること、それは他者に誠実であるときにもそうなるような気がしますが、このことによってはじめて、あり得ないすばらしいことが起きるのかなと思いました。
 それはともかく、この絵本の絵はとても美しい。一番すごいなと思ったのは、銀の牧場に行った「ミロ」が鏡を草の上に置いて眠っている画面。空の上からは白い満月がこうこうと光を放ち、鏡にはその月が映し出されています。月明かりにぼうっと照らし出された草原と林のあちこちから動物たちが顔をのぞかせています。鏡のかたわらで眠り込む「ミロ」。静謐で神々しい画面です。この見開き2ページだけ文章はついていません。逆に「ルド」が不誠実であることを示す画面は、グレーや黒を基調にして不穏な雰囲気をかもし出しています。
 「ミロ」と「ルド」の服装の対比もおもしろいと思いました。「ミロ」はぱりっとしてりっぱ、逆に「ルド」はもっさりとしてくすんだ服装なのです。「ミロ」の方がよっぽど金持ちに見えて、最初どちらが「ミロ」でどちらが「ルド」なのか、分からなくなったほどです。これも物語と密接に関係しているように思いました。
 原書の刊行は1988年。この絵本、おすすめです。
▼アナリーセ・ルッサルト 文/ヨゼフ・ウィルコン 絵/いずみちほこ 訳『月がくれたきんか』セーラー出版、1988年

ボニー・ガイサート/アーサー・ガイサート『マウンテンタウン』

 19世紀後半、アメリカの「ゴールドラッシュ」の時代にロッキー山脈にできた小さなまち。なかには、鉱物が掘り尽くされたあと姿を消してしまったまちもあったそうですが、いまに至るまで残っているまちもあります。この絵本が描くのは、そんな山のなかの小さなまちの1年。あたかもカメラを近づけたり遠ざけたりするかのようにして、自然のなかに抱かれたまちとそこでの人びとの生活が、時間の流れのなかで浮かび上がってきます。
 遠くからまち全体を俯瞰した画面には、冬から春へ、夏から秋をへてまた冬へ、といった四季の移り変わりが美しく描写されています。粉雪の舞い降りる冬やうすく緑が広がる春先、そして夏の終わりの嵐……繊細なエッチングがすばらしいです。
 まちの住民の生活ぶりも、たとえば7月4日の独立記念日や「伝統の日」の岩の穴あけコンテスト、秋のアメリカンフットボールなどの行事とともに描かれ、興味深い。古くからの鉱山の様子も断面図になっており、しかも銀行強盗付き(!)でこれもおもしろいです。巻末の解説(?)にも書いてあるのですが、生活の変化についていろいろと細かに描写されており、ぜんぜん見飽きません。
 ちょっと絵探し絵本の趣向もあります。うちの子どもといっしょに「青い車」を探したりしました。とくにうちの子どもに受けていたのは「ハイイログマ」。意外なところにいるんですね。原書の刊行は2000年。この絵本、おすすめです。
▼ボニー・ガイサート 文/アーサー・ガイサート 絵/久美沙織 訳『マウンテンタウン』BL出版、2002年

佐々木マキ『ムッシュ・ムニエルとおつきさま』

 またまた「ムッシュ・ムニエル」シリーズの一冊。今回は月を研究している双子の博士、「ニッチモはかせ」と「サッチモはかせ」が登場。「ムニエル」が魔法で地上に降ろした月をめぐって、双子の博士との間で騒動になります。たくさんの月(!)夜空にあがり、そしてニセモノの月がパラパラと落ちてくる画面は実にシュールです。「ムニエル」が使う魔法は歌声を空き瓶につめて花火のように打ち上げるというもの。考えてみると、けっこうロマンチックかもしれませんね。でも、どうやら「ムニエル」は音痴のようです。
▼佐々木マキ『ムッシュ・ムニエルとおつきさま』絵本館、2001年

長谷川義史『どこどこどこ いってきまーす』

 今日は3冊。うちの子どものリクエストにより、『どこどこどこ』、また図書館から借りました。もう一回読みたくなったとのこと。もう忘れているかなあと思っていたら、私もうちの子どももけっこう覚えていました。だいぶ苦労して楽しんだからねえ。それにしても、あらためて見てみると、本当にすごい描き込みです。
▼長谷川義史『どこどこどこ いってきまーす』ひかりのくに、2003年

木葉井悦子『クロ てがみかこう』

 アフリカで生まれ小金井町で暮らしているイヌの「クロ」。もともとの飼い主(?)アフリカの「ムフおじさん」に、主人公の女の子「わたし」が「クロ」の1年間の様子を手紙に書くという物語。「クロ」と「わたし」の交流が四季折々の自然のなかで描かれており、その強いきずなが伝わってきます。

 絵はダイナミックで迫力があります。まずは表紙、「わたし」と「クロ」が背中合わせに座って笑っている画面がなんとも暖かな雰囲気。本文では、ドクダミの葉摘み、梅雨の雨、夏の川遊び、台風、大晦日の準備など、自然の風情が勢いのある筆致で描かれています。ラストページは赤いポスト。つまり、手紙を出すんですね。裏表紙の見返しには周辺の地図が描かれているのですが、「わたし」の家の隣に「おじいちゃん」の家があり、そこがとても自然豊かであることが分かります。

 はじめの方のページ、家の郵便受けをよく見ると「木葉井」と表札がかかっていました。もしかすると「クロ」は作者の木葉井さんが飼っている(飼っていた)実在のイヌなのかもしれません。

▼木葉井悦子『クロ てがみかこう』「こどものとも」1991年6月号(通巻423号)、福音館書店、1991年

ラーシュ・クリンティング『だいくしごとをしようっと!』

 今日は1冊。この絵本は「カストールのたのしいまいにち」シリーズの1冊。今回、ビーバーの「カストール」は木の道具箱を作っていきます。見開き2ページで作業工程が一つ一つ段階をふんで描かれており、しかも左ページには「カストール」が使う道具、右ページにはその道具を使った大工仕事が描写されています。道具の絵は大きく写実的で道具のかたちそのものが興味深く、またそれを使う「カストール」の様子からは、大工仕事のおもしろさが伝わってきます。終わりの方にはすべての道具を並べたページや、また道具箱の設計図も載っており、自分で作ってみることもできそうです。道具箱が完成したあと、「カストール」は満足げにお茶(?)とお菓子。それにしても、自分専用の木工室があるというのは、なんともうらやましい。
▼ラーシュ・クリンティング/とやま まり 訳『だいくしごとをしようっと!』偕成社、1999年

岩崎京子/村上豊『うみぼうず』

 今日は1冊。この絵本は「日本の民話えほん」シリーズの1冊。お盆には漁をしない決まりになっているのに海に出ていった若者たち。たくさんの魚を捕るのですが、突然現れた海坊主に襲われます。この海坊主、かなり恐いです。黒々とした顔と体、ほとんどのっぺらぼうで小さな目と大きな赤い口、まるでタコかヘビのように体と手がぐーんと伸びてきます。船に乗っている若者たちは大混乱。必死で逃げるのですがまったくかないません。真っ青になってふるえるばかり。とはいえ、なんとなくユーモラスなところがあって、そこも魅力的。
 絵は墨のような色合いを使ったダイナミックな筆致が美しい。表紙には青の題字に同じく真っ青な顔の若者たち、めくった見返しは濃い青で波の模様が描かれています。本文中の海も黒と青を使って描かれており、それが全体の共通したトーンになっています。
▼岩崎京子 文/村上豊 画『うみぼうず』教育画劇、2000年

松居スーザン/堀川真『ちいさな ごるり』

 「ちいさな ばけものの おとこのこ」「ごるり」が、「かあさん」と話をするなかで「ぼくは何だろう」と自分のことを考えていく物語。羽としっぽがあったり、歌がじょうずだったり、いたずらしたり、あるいはいろんなモノを持っていたり……。いろいろなかたちで、自分が何なのかが語られていきます。そして、自分が自分でなかったなら「かあさん」は自分のことをどうするのだろうという疑問も。このときの画面は主に藍色で描かれ、自分が「ごるり」ではなく「クシピーのにんぎょう」だったらと想像している「ごるり」は不安そう。「ごるり」はそのうち本当に「クシピーのにんぎょう」になってしまうのですが、最後はハッピーエンド。なんとなく哲学的ないし心理学的な含意も読み取れそうです。ただ、まだ十分に煮詰められていないというか、少し中途半端な印象を受けました。でもまあ、「ぼくは何だろう」という疑問は子どもにとっては割と身近かもしれませんね。
▼松居スーザン 文/堀川真 絵『ちいさな ごるり』童心社、1996年