月別アーカイブ: 2005年2月

川田健/藪内正幸/今泉吉典『しっぽのはたらき』

 動物のしっぽのはたらきを扱った科学絵本。表紙をよくみると、右すみからにゅーっと何かしっぽのようなものが伸びてきて果物を取ろうとしていることが分かります。このしっぽの主はクモザル。表紙の絵はそのまま右に続いて、本文の最初のページにつながり、そこにクモザルの説明があります。

 この表紙の色遣いと描写が、なかなか工夫されていると思いました。タイトルは鮮やかな赤で右上に大きく配置。紙面のほぼ真ん中に、これまた鮮やかな黄色の花。その左隣りには、これも目立つ色合いの鳥が描かれています。これらに比して、果物を取ろうとしているしっぽは、かなり地味な彩色。こっそり果物をねらっているといった感じでしょうか。そして、鳥の視線は果物としっぽに向けられているんですね。「あ、こんなところに!」という発見の楽しみがあります。

 間にめくりをはさんで2ページにわたって絵が続くというつくりは、本文でも同様。めくる前のページに動物のしっぽと身体の一部だけが描かれ、「なんのしっぽでしょう?」と質問。めくった後のページに、しっぽに続く身体の絵と説明があります。なかなかおもしろい仕掛けです。うちの子どもと一緒に、しっぽの主の当てっこをして楽しみました。うちの子どもはだいたい正解していましたが、ガラガラヘビははじめて見たようです。

 しっぽの説明も、うちの子どもは興味深く聞いていました。そんなにたくさんの動物が取り上げられているわけではありませんが、たとえばキツネのしっぽのはたらきなどは、私もはじめて知りました。本文最後の次の一文には納得。

どうぶつの くらしかたの ちがいによって、しっぽの
はたらきが ちがっているのです。

 ところで、最初のクモザルのところで、うちの子どもが発見したのは、クモザルの足の指が手の指と同じようになっていること。親指と人差し指の間が開いていて、足でなんでもつかめるんですね。それにしても、うちの子ども、よく見ているなあと感心(親ばか)。

 読み終わったとで、「どんなしっぽだったらほしい?」とうちの子どもに聞いてみると、クモザルのしっぽがいいそうです(^^;)。

▼川田健 文/藪内正幸 絵/今泉吉典 監修『しっぽのはたらき』福音館書店、1969年(「かがくのとも傑作集」としての発行は1972年)

井浦千砂/井浦俊介『ふしぎな はっぱ』

 いまでは海に沈んでしまった「シャッフル王国」。その王国が栄えていた時代の一人の王子の物語です。心優しき王子でみんなに好かれていたのですが、一つだけ困ったことがありました。それは、髪の毛を洗うのが大嫌いなこと。王様やお后様にいくら言われても、長く伸びた髪の毛を洗おうとしません。そんなある日、王様は、髪の毛を洗わなくても一晩できれいになるという薬を手に入れます。さっそく王子に勧め、王子はそれを頭に振りかけるのですが、朝になってみると、なんと頭から緑色の葉っぱ(!)が何本も生えてきたのです。

 いやー、実にとぼけた物語。このあと王子は、葉っぱを鉢に植えかえて育て、その白い小さな花は国中のみんなの心を和ませたというのがラスト。

 絵は、なんというか真面目で丁寧な印象。古風な静物画、あるいは壁画のようなところがあります。それは、失われた王国という物語の舞台に合っているのですが、髪を洗わないとか、頭に植物が生えてくるといったエピソードとのギャップがあって、なんともいえないおかしさを生んでいます。クスクス笑いたくなってくる感じ。

 というか、言い方を変えると、とても平和なんですね。絵からも伝わってくるのですが、「シャッフル王国」は豊かで栄えており、だからこそ、こんな大らかなお話が成り立つような気がします。そして、その王国がもはや地上に存在しないことも、逆に説得力があります。

 ところで、主人公の王子が一番得意なのは工作。「なにか おもしろいことが あたまに ひらめくと、すぐに じぶんで つくってしまう」そうです。うちの子どもにも少しそんなところがあるのですが(親ばか)、王子が作った「しかけおもちゃ」を興味深そうに見ていました。とはいえ、もちろん(?)、うちの子どもはちゃんと髪は洗うそうです(^^;)。

▼井浦千砂 原案/井浦俊介 文・絵『ふしぎな はっぱ』「こどものとも」1998年1月号(通巻502号)、福音館書店、1998年、[レイアウト:なかのまさたか、原画撮影:神村光洋]

渡辺茂男/赤羽末吉『へそもち』

 高い山の上の黒い雲の上に住んでいる「かみなり」。ときどき地上に飛び降りて、動物や村人のおへそを持っていってしまいます。ある日、「かみなり」の住む黒雲がお寺の上にやってきたので、和尚さんは長い槍を五重塔のてっぺんに結びつけておきました。すると、飛び降りた「かみなり」は槍に引っかかって宙ぶらりん。日頃「かみなり」に困り果てていた村の衆は「ころしてしまえ!」と叫びますが、「かみなり」曰く「おへそを食べないと雨を降らすことができません」。さて、どうしたものか? 和尚さんが考え付いた解決策が物語のラストです。

 この絵本、「こどものとも」のあの横長の画面をそのままぐるっと90度回転させて縦長にし、しかも縦にめくっていくというつくり。絵は見開き2ページをいっぱいに使っているので、横20センチに縦54センチというかなりの縦長画面です。

 そして、この縦長の空間が、雲の上と地上とを行きつ戻りつする物語にぴったりと呼応していて、非常に印象的。たとえば「かみなり」が出す稲妻は、縦見開き2ページの上から下へ勢いよく描かれ、かなりの迫力です。また「かみなり」がおへそを取ることを描写した画面では、縦見開き2ページの下におへそを取られた村人たちが横たわり、上にはおへそを手に持った「かみなり」が描かれています。「かみなり」の上下移動がそのまま画面に定着しており、実にダイナミック。

 五重塔のてっぺんに引っかかった「かみなり」の描写も、高い高い五重塔が縦見開き2ページの一番下から上に向かってぐいぐいのびていき、そのてっぺんに小さく「かみなり」が描かれています。五重塔の巨大さに対して「かみなり」の頼りなさが際立っています。

 うちの子どもは、おへそがおもしろかったようで、「かみなり」がおへそを手に持っている画面では「あっ、おへそ!」と指さしていました。このおへそ、見ようによっては和菓子のようにも見え、なんだか、おいしそうなんですね。

 おへそを取られた村人たちの様子も、たしかに難儀そうなのですが、どことなくユーモラス。「おへそがえる・ごん」シリーズの「へそとりごろべえ」のエピソードを思い出しました。

 あと、五重塔に引っかかった「かみなり」に村の衆の一人が「ひぼしにしろ!」と叫ぶのですが、うちの子どもはこれを「煮干し!?」と言い換えて大受けしていました。うーむ、「かみなり」の「煮干し」かあ。うちの子ども、おもしろいぞ!(^^;)。

 ともあれ、この絵本、おすすめです。

▼渡辺茂男 作/赤羽末吉 絵『へそもち』福音館書店、1966年(こどものとも傑作集としての刊行は1980年)

V.グロツェル/G.スネギリョフ/松谷さやか/高頭祥八『むらいちばんのりょうしアイパナナ』

 久しぶりに「アイパナナ」。今回あらためて思ったのですが、この絵本のモチーフは、まさに北国ならではのもの。厳しい冬にみんなで食べ物を分かち合い、助け合いながら生き抜いていくことが描かれています。

 たとえば、物語の冒頭には、親のいない子どもには優先的に肉を与えるという村の習慣が説明されており、また最後には、「アイパナナ」がしとめたクマの肉をみんなで分け合います。「アイパナナ」とネズミの家族のエピソードには、人間同士のみならず、人間と動物との助け合いも描かれているように思いました。

 厳しい自然環境のなか、誰もが餓えに直面するなかで育まれている知恵やきずな、そんなことが伝わってきます。

▼V.グロツェル/G.スネギリョフ 再話/松谷さやか 文/高頭祥八 画『むらいちばんのりょうしアイバナナ』「こどものとも 年中向き」1997年2月号(通巻131号)、福音館書店、1997年

和田誠『ねこのシジミ』

 タイトルの通り、ネコの「シジミ」を描いた絵本。赤ちゃんのときに公園でひろわれたこと、「シジミ」という名前の由来、毎日の生活や他の動物との付き合い、泥棒が入ってきたときのこと、などが淡々と描写されています。

 どうやら「シジミ」は、作者である和田さんちの実在の飼い猫のようです。登場する子どもの名前が「ショウちゃん」で、「おかあさん」の絵を見てもこれは和田さんの奥さんの平野レミさんですね。この「おかあさん」のエピソードが少しコミカルで笑えます。

 実在のネコですから、この絵本では、まさに事実おこったことが変に飾り立てられることなく、ゆったりと描かれています。泥棒のエピソードも、ストーリーとして盛り上がるようなものではなく、あっさりとした描写。物語というよりは何かエッセーを読んでいるような印象です。

 文章の語り手は「シジミ」自身。冒頭の一文を引用します。

ぼくは ねこです。なまえはシジミ。

夏目漱石の『吾輩は猫である』を彷彿とさせますね。そのあとの流れをみても、たぶん『吾輩は猫である』を念頭に置いて描かれたんじゃないかなと思います。

 見開き2ページの左ページに文章、右ページに絵というのが基本のつくり。絵はどれも同じ大きさの四角に描かれており、銅版画に淡い色調の彩色、シンプルですっきりとしています。主人公の「シジミ」も、変にかわいかったり擬人化されたりすることなく、写実的に描かれています。絵のなかに人間はあまり登場しません。

 物語としての盛り上がりもなく絵も淡泊となると、なんだか地味でおもしろみがないように思われるかもしれません。でも、この絵本、なんともいえない魅力があります。淡々とした、しかしあたたかみのある描写のなかで、「シジミ」が家族みんなに愛されてることが伝わってきます。そしてまた、静かな日常のいとおしさが深く実感できるように思いました。

 うちの子どもは、この絵本、けっこう気に入ったようで、読み終わったあと「おもしろいねえ」と言っていました。後日もう一度読んだときには「この絵本は全部好き!」とのこと。実は図書館から借りるとき気に入らないかなと思っていたのですが、意外にもまったく逆の反応。うちの子どもは、こうしたゆったりとした描写の絵本も好きなんだあとあらたな発見です。

 あと、うちの子ども曰く「絵を描くのに使えるねえ」。ネコの絵のことかなと思っていたら、色えんぴつのような画材で彩色されていることに惹かれたみたいです。

 ところで、この絵本は、ほるぷ出版から刊行されている「イメージの森」シリーズの1冊。「イメージの森」シリーズは「新しい絵本ワールドにチャレンジする」と銘打たれているのですが、考えてみると、たしかにこの絵本、絵本としてはかなり意欲的かもしれません。人目を引くような派手な描写もなく実に淡々と「シジミ」の日常が描かれていく……。こういうスタイルの絵本は珍しい気がします。

 けっこう大人向けと言えるかもしれませんが、でも、うちの子どもには大受けでした。なんだろうな。つまり、物語の起伏やあからさまなメッセージ、絵のはなやかさには寄りかからない、むしろ、そういったものとは距離を置いたおもしろさがあり、それもまた子どもにとって一つの魅力なんじゃないかと思います。なんとなくですが、そこには絵本の新しい可能性があるような気もします。

 ともあれ、この絵本、おすすめです。

▼和田誠『ねこのシジミ』ほるぷ出版、1996年、[編集:トムズボックス]

片山令子/片山健『たのしいふゆごもり』

 久しぶりに『たのしいふゆごもり』。何度読んでも、ニコニコしてくる絵本です。うちの子どもも楽しそう。

 今回思ったのは、この絵本、「こぐま」の成長物語でもあるんだなということ。物語の冒頭、「こぐま」は一人で眠れなかったのですが、最後は「おかあさん」が作ってくれた「ぬいぐみ」と一緒に一人で眠れるようになります。そして、この「ぬいぐるみ」、「こぐま」の小さくなってしまったオーバーをこわして作るんですね。たしかに、オーバーを着た「こぐま」の姿からは、袖や裾など合わなくなっている様子がうかがえます。

 たぶん「おかあさん」は、「こぐま」の成長を喜びながら「ぬいぐみ」を作っていたんじゃないかな。

 うちの子どもも、いまは一人で眠れるのですが、しばらく前までは私や妻にぴたっとくっついて眠っていました。そのときのことを少し思い出しました。

▼片山令子 作/片山健 絵『たのしいふゆごもり』福音館書店、1991年

バージニア・リー・バートン『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』

 一ヶ月ぶりに「けいてぃー」。うちの子どもは「冬といえば、この絵本だよね」と持ってきました。「けいてぃー」の活躍を見ていると、寒い冬でもなんだか体のなかから力がわいてくる感じです。

 以前も思ったのですが、この絵本は絵も文も実にリズミカル。たとえばページのすみを囲うさまざまなイラストや線模様、あるいは除雪した道に付いたキャタピラの跡や脇によけられた雪の模様、「けいてぃー」が通った道々やその周囲に立ち並ぶ家々、ページ内の文章の配置……。いろいろなかたちと線と色が、何か秩序と力と流れを持ってリズムを刻んでいます。

 線と線、曲線と曲線、かたちとかたち、色と色が、響き合い共鳴し合い、まるで音楽が聞こえてくるような感じ。あるいは美しく力強いダンスを見ているような感じと言っていいかもしれません。それは、降り続く雪のリズムや、「けいてぃー」の規則正しいエンジン音、また「じぇおぽりす」というまちそれ自体の息吹をも伝えていると思います。

 そもそも絵本にとって、リズムというのはとても大事な要素なんじゃないかなと今回あらためて感じました。

▼バージニア・リー・バートン/石井桃子 訳『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』福音館書店、1978年

ジョン・バーニンガム『ボルカ』

 生まれつき、羽が生えていないガチョウの「ボルカ」。お医者さんガチョウの勧めで、お母さんガチョウは毛編みの羽を編んであげます。「ボルカ」は大喜び。しかし、一緒に生まれたきょうだいのガチョウたちはそんな「ボルカ」を笑うだけ。仲間に入れない「ボルカ」は、飛ぶことも泳ぐことも覚えられません。「ふつう」ではないがゆえに周りに受け入れられない「ボルカ」。

 しかも、そのうち誰も「ボルカ」を気にとめなくなってしまいます。毛編みの羽を編んでくれたお母さんガチョウですら、日々の忙しさのゆえに「ボルカ」のことが見えなくなってしまう……。

 きょうだいに捨てられ親にも捨てられてしまう「ボルカ」。いや、「捨てる」という能動的な行為の対象ですらありません。ただ単に「忘れられてしまう」のです。これほど切なくつらいことはないんじゃないかと思います。親しき者たちのなかで自分の存在が、いつの間にか無きものになってしまうわけです。

 そして、冬が近づいた、ある寒くて湿っぽい日、「ボルカ」を残して、ガチョウたちはみんな南へ旅立ってしまいます。

 しかし、ボルカは、いきませんでした。ボルカはとべなかったのです。いかないで、ボルカは、ひっそりかくれ、みんなの出かけるのを、見まもっていました。ボルカがいっしょじゃないなんて、だれも、きがつきませんでした。とおくまでの旅行のことをかんがえるだけで、みんな、せいいっぱいでした。

 こうして独りぼっちになってしまった「ボルカ」を救うのが「クロムビー号」。「ボルカ」が偶然入り込んだ船です。「ボルカ」はすぐにイヌの「ファウラー」や「マッカリスター船長」、船員の「フレッド」と仲良しになり、一緒にロンドンに向かいます。そして、ロンドンの「キュー植物園」で他のガチョウたちと一緒に幸せに暮らすというのがラスト。

 なんとなく思ったのですが、「ボルカ」を助けるのが船乗りというのは、何か含意があるような気がします。いろんなところを旅して、いろんなことに接してきた船乗りだからこそ、「ボルカ」をごくふつうに受け入れられるのかも。

 また、「ボルカ」が幸せに暮らすのがロンドンというのも興味深いです。ロンドンでは「ボルカ」に羽がないことなど誰も笑ったりしません。つまり、都市とは、多様な他者が互いにきずなを結び生きる場。まあ、本当にそうなのかどうか、若干、疑問が残る気もしますが、都市というもののある一面を捉えていると思いました。

 ところで、この絵本は、ジョン・バーミンガムさんが27歳のときにはじめて出版した絵本だそうです。私もそんなに読んでいるわけではありませんが、後年の作品と比べると筆のタッチが力強く、また色合いもより鮮やかな印象。また、なんとなくですが、ページによって彩色の仕方や色の出し方が変化しているような気がします。もしかすると実験的に試行錯誤しながら描かれたのかもしれません。

 とはいえ、たとえば夏が終わり秋が深まっていくことを表した画面の微妙な色合いはとても美しく、あるいは、ガチョウたちがいっせいに飛び立っていく姿のいわば幾何学的な表現もおもしろいです。

 あと、やはり印象的なのは「ボルカ」が悲しみに沈む画面。たとえば、毛編みの羽をみんなに笑われてアシの茂みで泣くところや、みんなに置いてきぼりにされて入江でたたずむところ。広い空間のなかに「ボルカ」がぽつんと立ちすくみ、かすれた色合いの空に夕日がにじんでいます。うち捨てられた「ボルカ」の孤独と寂寥がなにより迫ってくるように感じました。

 あらためて考えてみれば、こうした絶望のふちに追いつめられるというモチーフは、以前、読んだ『ずどんと いっぱつ』にも読み取れました。ハッピーエンドも同様です。なんとなく、バーミンガムさんの表現のもっとも基底にあるものの一つが伺える気がします。

 それはともかく、巻末の「訳者あとがき」によると、登場するキャラクターの名前にはいろいろ工夫があるのだそうです。日本語の訳文ではその含意が十分に伝えられないため、少し説明が記されていました。なかなか興味深いです。

 原書”BORKA The Adventures of a Goose with no Feathers”の刊行は1963年。この絵本、おすすめです。

▼ジョン・バーニンガム/木島始 訳『ボルカ はねなしガチョウのぼうけん』ほるぷ出版、1993年

みかんぐみ/加藤朋子『家のきおく』

 この絵本は、「みかんぐみ」という建築設計事務所の4人の建築家が自分の子どものころの「家のきおく」をイラストと文章でまとめたもの。ストーリーはとくになく、見開き2ページに一つずつ、「きおく」に残っている家にかかわる情景が描かれていきます。

 左ページに絵、右ページに文章というつくり。それぞれの絵の基本色が赤、黄、緑、青の4色に限定されており、どうやら、これは4人の建築家それぞれに対応しているようです。また、絵のなかに登場する人物の頭には、みかんの葉っぱのようなものが付いていて、これは文字通り「みかんぐみ」を表しているのでしょう。

 巻頭には、この絵本を作るに至った経緯が少し説明されていました。引用します。

じつは、いつも4人で建物のデザインを考えているのに、
おたがいが、子どものころにどんな家で
生活していたのかまったく知りませんでした。
そして、その家のイメージは、
私たちが子どものころに身についた
「家のきおく」というものとも
深くかかわっているように思えます。
そこでわたしたちは、
おたがいの「家のきおく」について
さぐってみることにしました。

 本文では、4人の建築家が子どものころ住んでいたさまざまな家(谷間の家、団地の家、アフリカの家、郊外の家、社宅など)とそこでの記憶(縁側、隣家、庭、遊びや冒険、個室、友だちの家、増築など)が一つ一つ描写されています。

 読んでいると、自分の「家のきおく」も呼び覚まされてきます。夏の縁側や離れの寝床、悪いことをして暗いところに閉じこめられたこと、家族みんなで壁紙を張り替えたこと、などなど、いろんなことが思い出されてきます。この絵本のカバーに記されているのですが、まさに「家の記憶は思い出だけでなく、わたしの生きた体験」です。

 巻末には「みかんぐみ」が設計した家々が写真入りで紹介されていました。ちなみに「みかんぐみ」のウェブサイトはみかんぐみウェブサイトです。サイトにもたくさんの作品の写真が掲載されています。

 私は建築のことはよく分からないのですが、非常にユニークで楽しそうな建物です。どれもひと味違うというか、「家ってこんなもの」という私たちの思いこみをなんだか気持ちよく揺さぶってくれる気がしました。そして、たしかに、その家々は、4人の建築家の「家のきおく」と遠くから通じ合っているように思います。おもしろいです。

 なんとなく感じたのですが、子どもたちにとって家がどのように見えていて、子どもたちが家をどのように活用しているのか、これがおそらく「みかんぐみ」の設計のモチーフの一つなんじゃないかな。子どもにとって、大人が決めた家の約束事はあってないようなもの。そこに、より自由で心地よい空間が現れているのかもしれません。

 4人の建築家へのインタビューも載っています。「みかんぐみ」の名前の由来や4人での仕事の進め方、建築の道に進んだ経緯、「みかんぐみ」設立のいきさつなどが語られていました。

 「あとがき」もなかなか印象的です。ちょっと長くなりますが、一部を引用します。

自分が生活する場所のことを考えるのは楽しいことです。
それは、決して難しいことではありません。にもかかわらず、その楽しいことを
実際にしている人は、それほど多くはないように思います。なぜでしょうか。
そういうことを考えることに慣れていない人にとっては、なんだか面倒くさい、
どうでもいいことのように感じられているのかもしれません。
子どものころから、自分が生活する場所について考えることに
慣れ親しんでいれば、面倒くさいなんて思わないだろうし、
どうでもいいことなんて考えないはずです。
いつも、この楽しさを多くの人たちと共有したいと思っているし、
そうなってくれば、街並みまでもがもっと楽しいものになるにちがいありません。

 ああ、なるほどなあと思いました。たしかに私なんかのばあい、家のつくりや空間の使い方について、日頃とても無頓着で、あまり自覚的ではありません。マス・メディアの表層に流れているものを無意識のうちに当然と考えてしまったり、たいした根拠もなく受け継がれてきたものをそのまま無批判に受け入れていたり、「面倒」というよりは、空間について思考が停止しているんですね。

 でも、この絵本に描かれている「家のきおく」を読み、また「みかんぐみ」が設計した家の写真を見ていると、とても新鮮で、こういう見方・考え方もありだなと思えてきます。なんというか、認知と思考の枠組みが広がる気がします。そして、一度、「常識」を取り払ってみれば、自分の生活する場所や空間の可能性をあれこれ考えるのは、ワクワクするような楽しいことだなと思いました。

 少し主旨が違うかもしれませんが、たとえば子どものころの秘密基地づくり。いろんな材料を使って、とにかく自分たちにとって居心地のよい場所をなんとか作り出そうと熱中していたなあと思い出しました。まあ、そんなに大したものはできなかったのですが、本当に懸命に取り組んでいました。これも「家のきおく」の一つと言えそうです。あのときの楽しさは、いま自分が生活する空間を考えるときにも大事な気がします。

 ところで、この絵本は、物語絵本とも図鑑とも異なる独自な内容、文章も幼児がスムーズに理解するには難しいかもしれません。

 うちの子どもは最初、ぱらぱらと自分でめくって見ていて、「うーん、読んでみないと分からないねえ」と言っていました。そして「この絵は何で描いているのかな?」。「コンピュータで描いているんじゃないの」と言うと「あ、やっぱり。そうだと思った」。子どもはよく見ているなあとびっくりしました。

 で、読んでいくと、うちの子どもには、それなりにおもしろかったようで、ふーん、という感じで聞いていました。でも最後のページで眠ってしまいました(^^;)。もう少し大きくなると、もっとよく理解できるかなと思います。小学生以上向きかもしれません。

 それはともかく、うちの子どもにとって、いま自分たちが住んでいる家はどんなふうに記憶されるのかなあ。大きくなってから聞いてみたいです。楽しみでもあり、不安でもあり……。そういえば、先日、一緒にお風呂に入っていたら「僕はこの家から引っ越したくなーい」なんて言っていました。古くてそんなに広くないのですが、いまの家がだいぶ好きなようです(^^;)。あるいは、他の家のことをあまり知らないからかな。

 この絵本は、「くうねるところにすむところ 子どもたちに伝えたい家の本」というシリーズの一冊。奥付にはこのシリーズの「発刊のことば」がありました。現在、「家に守られる、家を守る、家とともに生きるという一体となった感覚」「家文化」が衰退しており、それが子どもたちにも影響を及ぼしているのではないかというのが基本の問題意識のようです。ここでの「家」とは、社会制度としての「家」ではなく、具体的な空間・建物としての「家」ですね。で、その「家文化」の再生に取り組むために、建築家やアーティストや作家が子どもの目線で家について伝えていくというのが、このシリーズの主旨。他には益子義弘『家ってなんだろう』と伊礼智『オキナワの家』が刊行されています。

▼建築家 みかんぐみ/作画 加藤朋子『家のきおく』インデックス・コミュニケーションズ、2004年、[プロジェクト・ディレクター:真壁智治、アート・ディレクション:油谷勝海、デザイン:池田博範/田中弘子、解説・建築家紹介:鈴木明、編集プロデューサー:堀込一博、編集:崎浜志津、翻訳:菊池真実、本文使用書体:金井和夫 作 解築地明朝体+本明朝体]

寺沢孝毅『アザラシに会いたい』

 北海道の野生のアザラシを撮影した写真絵本。写真を撮られた寺沢さんが生活する天売島では、毎年、冬になると、ゴマフアザラシの群れが上陸するのだそうです。この絵本の前半は、天売島でのアザラシの様子が紹介されています。

 そして後半は、知床半島の流氷の上での赤ちゃんアザラシ。ゴマフアザラシは2月から4月にかけて出産するのですが、天売島には赤ちゃんアザラシがいません。というのは、ゴマフアザラシは流氷の上でしか出産と子育てをせず、そのため、流氷の来ない天売島には赤ちゃんアザラシはいないそうです。北海道でゴマフアザラシが出産と子育てをするのは、流氷が流れ着く知床半島周辺の海に限られるとのこと。

 このアザラシの写真、とてもかわいいです。遠くから群れを写した写真、泳いでいるときの海中写真、眠っているときの写真、クローズアップもあります。つぶらな瞳と表情ががなんとも愛らしい。

 もちろん、野生のアザラシなので、撮影には苦労されているようです。写真に付けられた文章は、基本的に寺沢さんの視点から語られており、アザラシに近づいたときの出来事や知床で赤ちゃんアザラシを探したときのことを、自分も寺沢さんと一緒に撮影に参加しているような感覚で読んでいけます。

 ところで、ゴマフアザラシは、冬に南下し、春になるとまた北に移動するそうです。そのルートを示した簡単な地図も付いていました。注記によると、千キロ近くも移動するため、その調査は難しく、移動のすべてが解明されているわけではないとのこと。そんなに長距離を移動するなんて、はじめて知りました。しかも、まだ分かっていないことが多い。すごいですね。

 うちの子どもは、アザラシの写真をニコニコしながら見ていました。とくに裏表紙。横になったアザラシが顔を上げて振り返っている写真が載っているのですが、これが気に入ったらしく、自分でもまねをしています(^^;)。ごろんと腹ばいになって、顔を上に向けニコリ。うちの子ども、かわいいぞ!(親ばか^^;)。

▼寺沢孝毅 文・写真『アザラシに会いたい』「たくさんのふしぎ」2005年3月号(第240号)、福音館書店、2005年、[地図作成:ジェイ・マップ、レイアウト:三村淳]