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R.イザドラ『ベンのトランペット』

 いやー、とにかくかっこよい絵本! 全編モノクロ、まさにクール! しびれます。途中、ジャズバンドのミュージシャンの演奏シーンが一人ずつ大きく描かれるのですが、ピアノ、サックス、トロンボーン、ドラムと楽器に応じて特徴的な描き方になっており、それぞれの音色、そしてそれらが一体となったスウィングが、画面からダイレクトに伝わってきます。

 物語のモチーフは、表紙の絵柄が表しているように、少年ベンとトランペッターの交流です。表紙にはトランペットを吹く二人の姿が二重写しに描かれているのですが、でもよく見ると、少年はトランペットを持たずに両手で吹く仕草をしていることが分かります。それは、この絵本のタイトル「ベンのトランペット」が何を意味しているのかを示しているように思えます。

 ベン自身はトランペットを持っておらず、自分の手でトランペットを吹くまねをする。それが「ベンのトランペット」。いつでもどこでも「じぶんのトランペット」をベンは吹きます。本物ではないけれども、少しでも近付きたい。トランペッターに対する少年の一途な憧れですね。それは、描かれたベンの手の繊細な「表情」にも表れているように思いました。

 でも、その「じぶんのトランペット」のゆえに、ベンは、友だちからからかわれてしまう……。失意と悲しみの緊張感のある表現、そのあとの解放は、とても印象的です。最後のページのセリフと絵(とりわけトランペッターの手、そして帽子をとった初めての表情!)、なんとも言えないあたたかさがじんわり伝わってきます。

 もう一つ、ベンの家族の描写も、さりげないながら、印象に残りました。ベンが、「ママとおばあちゃんとおとうと」、そして「パパとパパのともだち」にトランペットを吹くとき、みなはどうしているか。ベン、あるいはベンの家族のおかれた境遇、家族のまわりに広がる社会の姿が、それとなく示唆されていると思います。逆に、この背景の描写があるからこそ、トランペッターとの交流のかけがえのなさが心に迫ってくると言えるかもしれません。

 巻末の紹介によると、作者のレイチェル・イザドラさんは、もとプロのバレリーナだそうです。足のけがのため引退してから作家となられ、ジャズを愛するところから、この絵本が生まれたとのこと。また、本書は、1979年、コルデコット賞次席作品に選出されたそうです。

 原書“BEN’S TRUMPET”の刊行は1979年。

▼レイチェル・イザドラ 作・絵/谷川俊太郎 訳『ベンのトランペット』あかね書房、1981年、[印刷:精興社、写植:ゾービ写植、製本:中央精版印刷株式会社]

キャロル・オーティス・ハースト/ジェイムズ・スティーブンソン『あたまにつまった石ころが』

 久しぶりに再読。やっぱりいいなと思うと同時に、この絵本、なんとなく、成功するための指南書のような趣きもあります。

 ハーストさんのお父さんは、最後にはスプリングフィールド科学博物館の館長にまでなられるのですが、その大きな転機となったのは、ジョンソン館長との偶然の出会いでした。そのことによって、「あたまのなかとポケットが石でいっぱい」の専門家として認められ評価されていったわけです。

 このエピソードから、たとえば、人との出会いがいかに大切かといったことを言えるかもしれませんし、あるいは、偶然の出会いに備えて自分の能力や強みをどれだけ鍛えておけるかが重要だ、自分の道を貫いていればいつか誰かが認めてくれるのだ、といったことを引き出せるかもしれません。いわば成功するためのヒントですね。

 でも、たぶん、そうじゃないなとも感じます。ハーストさんは巻末で「父ほど幸福な人生を送った人を、わたしはほかに知りません」と書かれていますが、それは、ハーストさんのお父さんが最終的に社会的に成功したからではないように思えます。そうではなく、どんな状況にあっても、自分の関心を追い求め、そのために「学ぶ」ことを尊重し続けていたからなのでしょう。

 じっさい、この絵本を読んでいると、たとえハーストさんのお父さんがジョンソン館長に出会うことがなく、そのため、仕事でずっと苦労し続けたとしても、それでも、ハーストさんのお父さんは「学び」をやめることはなく、その意味において「幸せ」であったように思います。社会的成功といった何か他のことのためではなく、それ自体が喜びであるような「学び」。それをハーストさんのお父さんは、なにより大事にして生きていたということ。

 いや、本当のところは分かりません。本当にそれだけだったら、はたして科学博物館の館長になれたかどうかは、何とも言えないかもしれません。館長という仕事は、当然ながら、組織を内外に対してマネジメントしなければならず、自分の「学び」の追求だけで務まるものではないでしょうから。

 だから、やはりこれは一種のファンタジーなのでしょう。しかし、それでも、「学び」をそれ自体として大事にするというメッセージは、心に響きます。なんだか、いまの自分に一番足りないものかもしれない……。自分にはそんな「学び」の対象は何かあるのだろうか……。

 まあ、ちょっと考えすぎですね。人生訓を読み込みすぎているかも(^^;)。

▼キャロル・オーティス・ハースト 文/ジェイムズ・スティーブンソン 絵/千葉茂樹 訳『あたまにつまった石ころが』光村教育図書、2002年、[装丁:桂川潤、印刷:協和オフセット印刷株式会社、製本:株式会社石毛製本所]

再開

 直近の記事が2007年3月31日。すでに7年近くたってしまいましたが、ゆるゆると再開しようと思います。

 7年もたち、絵本との関わりも変わりました。子ども達はもうかなり大きくなり、自宅で絵本の読み聞かせをすることはなくなりました。日常的に絵本に接する機会は7年前と比べるとだいぶ減りました。

 その一方で、この間、小学校での読み聞かせボランティアに参加し、今年度で8年目です。月一回、小学生たちの前で絵本の読み聞かせをしています。ただ、こちらのボランティアも、やれたとしてあと2年。絵本との接点は細くなっています。

 このサイトも、7年の間に、バックグランドのシステムを変えたり、一時的に閉じたり、レンタルサーバをあちこち漂流したり、実は、いろいろやっていました。古い記事は、まだ表示がおかしく、そのうち少しずつ直せたらと思っていますが、いずれにせよ、このサイト自体どうするか、自分でも決めかねていたようなところがありました。

 しかしまあ、3年ちょっととはいえ、絵本に関心を持ってあれこれ感じたり考えたりした記録であり、このサイトを消してしまうのは、なんだかもったいないなという気持ちはありました。たいした内容ではないのですが、それでも……。また、やはり自分は絵本というものが好きだなという感覚もずっとありました。

 ここ半年くらい、あらためてこのサイトを続けていこうという気持ちがだんだん湧いてきて、よし!と、再開することにしました。おそらく以前とは、内容も形式もだいぶ変わると思いますが、絵本に関することをあれこれ勝手に書いていくのは変わらないでしょう。2014年新春、ちょうど切りも良いことですし(笑)、ここで仕切り直してやっていこうと思います。

 いやまあ、とはいえ、のんびり、ゆっくりです。たまーに更新できたらいいかな、という感じ。

 あと、通常のブログの記事とは別に、二つの新しいセクションをつくってみました。絵本・リンク集絵本・切り抜き集です。前者は、絵本に関係するいろいろなサイトのリンク集で、後者は、絵本に関係するウェブ上のニュースや記事などの切り抜き集です。どちらも、ブックマーク作成のためのシステムを組み込んでいます。これらも、そんなに頻繁に更新はできないかもしれず、のんびり、ゆっくり続けていこうと思っています。

 この間、ウェブの世界は、SNSが一般化し、だいぶ様変わりした印象もあります。自分も、去年、Twitterのアカウントをとってみました。絵本と…… (ehon_to)さんはTwitterを使っていますです。まだほとんど何もありませんし、何をどうするかも分かりませんが、何か使えるとよいかな。

 さて、そんなわけで、次の更新はいつになるか分かりませんが(一カ月、いや一年くらい先かも?)、あらためて絵本を読んで感じて考えていこうと思っています。

福音館子どもの本ブログがスタート

 少々、遅れた話題ですが、福音館書店のブログ、「福音館子どもの本ブログ」が3月2日から公開されています。福音館子どもの本ブログです。

 福音館書店のブログというと、「こどものとも」の全バックナンバーを1年間かけて紹介したこどものとも50周年記念ブログが知られています。そのなかの福音館書店から(第54回)、また「福音館子どもの本ブログ」についてに説明がありますが、今後は「福音館子どもの本ブログ」をメインにするようです。

「こどものとも50周年記念ブログ」のコンテンツもすべて、新しいブログに移転するとのこと。「50周年記念ブログ」のコンテンツは本当に貴重なものと思います。それが、場所は変わるものの、以前と変わらず誰でも閲覧できるのは、素晴らしいです。

 また、新ブログでは、「こどものとも傑作集」新規製版にちなみ、絵本の製版について精興社の技術担当の方の連載が掲載されています。こちらも非常に興味深い。これからも、ぜひ、絵本を支えている方々の記事を期待したいです。

 さらに、今後は「母の友」のブログもスタートとのこと。どんな内容になるのかな。こちらも期待大ですね。

 ところで、新ブログは、ニフティのココログ上で運営されています。「50周年記念ブログ」は福音館書店さんの自サイトで運営されていました。少々うがった見方かもしれませんが、これは、ブログ運営の負担を軽減するためかもしれません。

 「50周年記念ブログ」では、以前からスパム・トラックバックが集まっているようでした。このあたりにも、自サイトでの運営の難しさが表れている気がします。

 とはいえ、運営に難しさがあるからといって止めてしまうのではなく、よりよい環境でさらに充実した情報発信に取り組まれているのは、本当にすごいです。これは、福音館書店の担当の方の熱意の表れのように思いました。

小風さちさん、「わにわに」シリーズの誕生

 日本海新聞、2006年12月24日付けの記事、子どもら夢中で本選び 絵本ワールド開幕。「絵本ワールドinとっとり2006」が12月23日と24日の両日、鳥取県米子市で開催されたというニュースなのですが、そのなかで、小風さちさんの講演会が少しふれられています。

 非常に興味深かったのは、「わにわに」シリーズの誕生秘話について語られている部分。引用します。

リアルなワニのキャラクターで人気を集める小風氏の絵本『わにわに』シリーズが生まれたのは、東京都内の公園でワニの出没騒ぎがあったことがきっかけ。ワニを心待ちにしているうちに「ずる ずり ずる ずり」とワニが体を引きずる音が聞こえてきたといい、「お話が自ら生まれてこようとしていて、私が媒体となったうれしい瞬間だった」と話した。

 あの「わにわに」の背景にはこんなエピソードがあったんですね。なるほどなあ。たしかに、ワニが体を引きずる音は、「わにわに」シリーズのとても重要な要素と思います。声に出して読んでいると、あの擬態語がとても気持ちよいのです。力が入るというか、リズムが刻まれるというか、非常に体感的。その「ずる ずり ずる ずり」という音から、まさに「わにわにシリーズ」は生まれたわけで、たいへん興味深いです。

 少し検索してみたら、実際に講演会に出席された方のブログがありました。子育て支援ネット西部-すこもも – livedoor Blog(ブログ)の、絵本ワールド  小風さち さんです。すこももさんの記事でも、小風さんの講演の内容が少し触れられています。「赤ちゃんは言葉を食べてしまう、だからできるだけ良い言葉を食べさせたい」という小風さんの考えは、「わにわに」シリーズにも体現されているように思いました。

 あと、すこももさんの記事によると、小風さちさんは松居直さんの娘さんだそうです。ぜんぜん知りませんでした。いや、びっくりです。

 ちなみに、「絵本ワールド」は、子どもの読書推進会議が主催で2006年度は全国11会場で開催しているとのこと。絵本ワールドに紹介があります。また、絵本ワールド開催予定にはスケジュールと詳細が掲載されています。

竹内通雅さんの「私の生きる道程(みち)」

 BIGLOBEのサイト、BB-WAVEアサヒビールとの提携セクションの過去シリーズに、私の生きる道程(みち)というものがあります。「独自の生き方、夢を持った生き方、人とちょっと変わった生き方をしている人に、彼らの『人生』や『仕事』、『趣味』などについて語ってもらうコーナー」とのこと。このシリーズの第2回で竹内通雅さんが登場していることを偶然、知りました。たぶん3年くらい前のテキストと思います。

 アサヒビールが関係しているためか、お酒の話も出てきて、これはこれで面白かったのですが、絵本についていろいろ興味深い内容が記されています。

 まず、竹内さんが絵本作家としてデビューするに至るまでの経緯。まったく知らなかったのですが、竹内さんはもともと現代美術作家を志しておられ、その後、イラストレーターの仕事をされていたそうです。80年代、いわば売れっ子のイラストレーターとして活躍されたとのこと。バブルがはじけて仕事が激減し、そのあと、39歳のときにはじめての絵本を出版。思いもがけない経緯で絵本の世界に入られたことがうかがえます。

 また、絵本が作家と編集者との共同作業によって生まれることも示唆されていて、興味深い。たとえば『森のアパート』の一部には編集者のアイデアが生かされているそうです。少し引用します。

絵本って、企画から出版までに結構時間をかける。原案を持って行くと編集会議にかけられて、いろいろ直されたりして。直す個所によっては大元から考え直さなきゃという場合もあるしね。その絵本がストーリー性のあるものなのか、フラットな展開のものか、絵画集的なものなのかによっても作り方は違ってくるけど、緻密さがアナーキーの下に隠れているのが絵本なんだ。

 「緻密さがアナーキーの下に隠れている」というのは、なるほどなあと思いました。一見したところ思いのままに自由に描かれているように見えて、実は細部に至るまで考え抜かれた表現であること。そこには、作家のみならず、編集者のアイデアも反映されているし、おそらくは出版社のいろいろな意図も(よい意味でも悪い意味でも)入ってくると言えます。

 それから、絵本の可能性やこれからのことについて。面白いなと思ったのは「絵本の世界を紙の上から空間に広げる」という構想。竹内さんは変わらず現代美術への志向を持っておられ、絵本もまた「現代美術のフィルターを通して」作られているそうです。その延長線上で、「いままでやってきたことをみんな生かして自分のアート作品をつくりたい」とのこと。どんなものになるか、かなり興味をひかれます。もう一つ、竹内さん作曲の絵本のテーマソングも、ぜひ一度、聞いてみたいですね。

 あと、最後の一文が非常に印象的。子どもたちは小学生になると絵本よりテレビゲームの方が楽しくなってしまうことを指摘されたあとで、次のように語られています。

でも絵本の記憶って、頭のどこかに必ず刷り込まれてる。普段は忘れてても、大人になってからも何かのきっかけでふと思い出すことってあるよね。そういうのが絵本のいいとこだなあって思う。イラストは消費物だったけど絵本は作品。いまの自分自身は、なかなか気に入っているよ。

 おそらく、絵本もまた「消費物」であることは確かなのではないかと思います。売られて買われる「商品」であり、とりわけ財布を握る親にとってはそうでしょう。しかし、子どもにとっては、たぶん、ただの「消費物」で終わらないのではないか、「消費物」からはみ出す部分が相当にあるんじゃないかと思います。

 あるいは、子どもと一緒に絵本を読む大人にとっても、そういうところは多分にある気がします。子どもに何度も何度も読んでぼろぼろになった絵本は、もはや「消費物」ではありません。大切な宝物と言っていいと思います。それは、きわめて個人的な記憶と結びつき、他とは決して取り替えることのできない何かです。

 一人ひとりの記憶と分かちがたく結びつき、いわば人生に寄り添うところが、まさに絵本の「作品」性なのかもしれません。

長谷川義史『いいから いいから』

 うーむ、これは面白い。「いいから、いいから」が口癖(?)の「おじいちゃん」と、「ぼく」が、雷と一緒にやってきた「かみなりのおやこ」をもてなす物語。

 「おじいちゃん」は相手が「かみなり」でもまったく気にせず、「いいから、いいから」と手厚くもてなします。その桁外れのホスピタリティ(?)が、とても可笑しい。ラストのオチも爆笑間違いなしです。うちの子どももウヒウヒ受けていました。

 この絵本、とびきりユーモラスで大笑いなのですが、実はかなり奥が深いと思いました。タイトルにもなっている「いいから、いいから」は、考えてみると、非常に含蓄のある言葉です。自分とは異なるものを安易に拒否するのではなく、大らかに受け入れていく、そんな懐の深さを表しています。たとえ人間ならざるものであっても、それを平気で迎え入れる度量と言ってよいかもしれません。

 「いいから、いいから」は、いいかげんでちゃらんぽらんにも聞こえます。けれども、今の世の中にあって、もっとも必要とされることがらを表している気がします。目くじら立てて視野狭窄に陥りがちな私の日常において、一番欠けているものかもなあと思いました。もう少し、ゆったり構えてもいいんじゃないか、そんなメッセージが聞こえてくるようです。

 関連しますが、子どもと一緒に読むとき、「おじいちゃん」のこのセリフ、「いいから、いいから」をどんなふうに声に出せるか、割と大きなポイントかもしれません。けっこう難しいんですよ、これ。すべてを肯定し歓待していく、そういう読み語りは、一朝一夕には出来ないと思うのですが、どうでしょう。何かというとすぐ早口にまくしたてて、相手の言うことも遮ってしまうような人(つまり私です^^;)には、とても困難。読む人の人となりが試される絵本かもしれません。

 あと思ったのは、「おじいちゃん」だけでなく、「おかあさん」がけっこう、すごいんじゃないかということ。文中には一つのセリフもなく、絵のなかに少ししか登場しないのですが、この「おかあさん」、「おじいちゃん」以上の傑物かも。なんでも受け入れてしまう「おじいちゃん」を叱ったり疎んじたり、そんなそぶりは微塵も見せません。ほとんど驚いたりもしません。にっこり笑って普段通りなのです。

 いや、もちろん、絵本だから当然そうなのだと言えるかもしれません。でも、どことなく浮世離れした「おじいちゃん」にこのように接していることは、それ自体すごいことだし、けっこう重要な意味があるんじゃないかと思いました。例によって考えすぎかもしれませんが……(^^;)。

▼長谷川義史『いいから いいから』絵本館、2006年、[装丁デザイン:広瀬克也、印刷・製本:荻原印刷株式会社]

バーバラ・マクリントック『ダニエルのふしぎな絵』

 絵を描くのが好きな女の子「ダニエル」と「おとうさん」の物語。「ダニエル」は、写真家の「おとうさん」の写真のように、目に見える通りに描こうとするのですが、いつもうまくいきません。不思議な絵ばかり描いています。そのうち、「おとうさん」の写真は売れなくなり、病気で寝込んでしまいます。「ダニエル」はなんとかしようとするのですが……。

 この絵本はいろんな読み方が出来ると思いますが、私がなにより引き込まれたのは、二人きりの家族のきずな。写真が売れなくてカフェに入ったとき、「おとうさん」を元気づけようとする「ダニエル」、そしてページをめくると、二人が路地をだまって歩く姿が描かれています。ここを読んでいて、なんだか切なくなりました。その後、「おとうさん」が病に伏せってから「ダニエル」が奮闘する姿にも心動かされました。

 どちらにも、少し離れた視点から俯瞰する構図が見られるのですが、それは、親子の姿が小さく描かれるがゆえに逆に、そのきずなの強さを伝えているように思います。二人が互いを思いやる様子が画面の端々に表されており、気持ちが引き込まれます。

 また、「ダニエル」のけなげで懸命な様子からは、落胆、絶望、希望、喜びといった心の動きが鮮やかに浮かび上がってきて、ラストでは「ダニエル」と一緒にこちらまでうれしくなります。画面のなかの「ダニエル」はいつも小さいのですが、本当に多くのことを物語っています。非常にエモーショナルな絵本だと思います。

 そういえば、カフェの場面は物語のラストと呼応していますね。ささいなことですが、同じものが別の意味を込めて再び現れています。これも、ある意味で家族のきずなの掛け替えのなさを表現しているように感じました。

 ところで、この絵本のもう一つの大きなモチーフは、「ダニエル」が自分の居場所を見つけること。目に見える通りに写真を撮る「おとうさん」と自在にイマジネーションの翼を広げる「ダニエル」がまさに対照をなしており、そのために物語の前半で「ダニエル」はいつも自分で自分を否定しています。

 そんな「ダニエル」がある出会いによって、自分がありのままでいていいことを理解し、そして「おとうさん」もそれを認めていきます。一つの才能が見出され生かされていくことの幸福が描かれているように思いました。別の角度から見るなら、子どもの自由を周りの大人がきちんと評価し受け入れることの重要性を表していると言えるかもしれません。

 絵は端正で、クラシカルな雰囲気。スペースを広くとり、細部にまで丁寧に筆が入れられ、静謐でとても美しい画面です。また、全体を通して、くすんだセピア色の色調は、どことなくノスタルジック。「ダニエル」と「おとうさん」のつつましくも幸せな暮らしを浮かび上がらせていると思います。

 と同時に、比較的抑えた画面のなかで、「ダニエル」の描く絵だけが非常にカラフルに彩色されています。この対比は、「ダニエル」の「空想のつばさ」が自由自在に羽ばたく様を感受させるように思いました。

 カバーには「作者のことば」が記されています。それによると、作者のバーバラ・マクリントックさんのお父さんも写真家だったそうです。「ダニエル」と同じように、マクリントックさんも子どもの頃から不思議な動物の絵を描いていたとのこと。マクリントックさんのお父さんは、いつも励ましてくれたそうです。この絵本は、そんなお父さんとお母さんに捧げられています。

 原書“The Fantastic Drawings of DANIELLE”の刊行は1996年。

▼バーバラ・マクリントック/福本友美子 訳『ダニエルのふしぎな絵』ほるぷ出版、2005年、[日本語版装丁:湯浅レイ子、印刷:共同印刷株式会社、製本:株式会社ハッコー製本]

マレーク・ベロニカ『ブルンミのたんじょうび』

 タイトルの通り、「ブルンミ」の誕生日をみんなでお祝いする物語……。

 のはずなんですが、でも、読みようによっては、少しブラックな趣きがあります。だってさー、なんで、そんなに「ひみつ」「ひみつ」なのよ? どうして「ブルンミ」の鼻先で「バターン」とドアを閉めちゃうわけよ? 「ブルンミ」を泣かすなよー!

 ラストの一文では、「ブルンミ」はこんなふうに言っています。

そして ブルンミの たんじょうびを みんなでたのしく すごしました。
ああ なんてすてきなんだろう! ありがとう アンニパンニ!――

 けなげな「ブルンミ」……。でも、「ブルンミ」、君はだまされていると思うよ……(なんちゃって^^;)。

 いやまあ、マレーク・ベロニカさんの絵は明るい色彩とセンスのよい造形で、とてもおしゃれですし、ハッピーエンドであることは間違いないのですが、少々意地悪な物語にも読めてしまうのです。

 やっぱり考えすぎでしょうか? こちらの性格が歪んでいるからかなあ。素直に読めない自分が悪いのかしらん。

 とはいえ、ほんの少しの翳りがあるところも、マレーク・ベロニカさんの絵本の魅力なのかもしれないなと思いました(ちょっと無理があるかな?)。

▼マレーク・ベロニカ/羽仁協子 訳『ブルンミのたんじょうび』風濤社、2003年、[印刷:吉原印刷株式会社、製本:榎本製本株式会社、装幀・組版:文京図案室]

パク・ジェヒョン『とらとほしがき』

 ううむ、これはすごい! 韓国で語りつがれてきた昔話を元にした絵本。自分はこの世の王であると信じていたトラが、ある日、とんでもなく恐ろしいやつに出会うという物語。

 後書きで訳者の大竹聖美さんが書かれていますが、日本の昔話にもよく似たお話しがあります。もともとはインドの説教説話集『パンチャタントラ』にさかのぼるとのこと。最初のページに作者のパク・ジェヒョンさんの説明が少し記されているのですが、パクさんは、この昔話を小さいころ、おばあちゃんから繰り返し聞いたそうです。

 物語そのものはクラシカルと言えそうですが、とにかく、この絵本のすごさは、絵です。表紙と裏表紙が合わせて1つの絵になっているのですが、実に力強い描写。本文でも、色彩といい造形といい、圧倒的な迫力です。細かなタッチが幾重にも重ねられ、まるで匂い立つかのような濃密な画面が続きます。なんとなくですが、筆が入れられる紙そのものが普通とは違うように感じました。色のノリが独得なのです。これは、ぜひ一度、原画を見てみたいですね。

 作者のパク・ジョヒョンさんの説明によると、この絵本では「韓国の伝統的な美しさを表現するために、絵をかく道具や紙、かき方にもくふうを」されたそうです。民画と呼ばれる韓国の伝統的な絵画の手法が用いられているとのこと。

 これまでに読んできた韓国の絵本を振り返ってみても、絵のすごさが強く印象に残っています。それは、韓国絵画の伝統を生かしたものと言えるのかもしれません。

 絵本の絵におけるこうした伝統との対話は、日本の場合には少し希薄な気がしますが、どうでしょう。私もそんなにいろいろ読んでいるわけではありませんが、たとえば赤羽末吉さんの絵本には、日本の絵画の歴史を生かした部分がかなりあると思います。しかし、現在において、赤羽さんがされていたことを引き継ぐような方は、あまりいらっしゃらない気がします。

 それはともかく、この絵本、迫力があると同時にとてもユーモラス。とくに主人公「とら」の表情がよいです。気持ちの変化が如実に表れていて、可笑しい。なんだかマンガのようと言ったら言い過ぎかな。

 あと、子どもと一緒に読んでいて楽しかったのが「アイゴ」。いろんなニュアンスで出てくるのですが、場面に応じて声音を変えると、なかなか面白いです。表紙カバーの説明によると、「びっくりした気持ちや悲しい気持ち、思わず出てしまう叫びやつぶやきを表す韓国の言葉」とのこと。日本語だと、これに類する言葉はあまりないかもしれませんね。

 原書の刊行は2002年。作者のパクさんはカナダ在住。この絵本はパクさんの初めての絵本で、カナダ総督文学賞の候補作になったそうです。

▼パク・ジェヒョン 再話・絵/大竹聖美 訳『とらとほしがき』光村教育図書、2006年、[装丁:城所潤、印刷所:株式会社精興社、製本所:株式会社ブックアート]