長谷川義史『どこどこどこ いってきまーす』

 今日は3冊。うちの子どものリクエストにより、『どこどこどこ』、また図書館から借りました。もう一回読みたくなったとのこと。もう忘れているかなあと思っていたら、私もうちの子どももけっこう覚えていました。だいぶ苦労して楽しんだからねえ。それにしても、あらためて見てみると、本当にすごい描き込みです。
▼長谷川義史『どこどこどこ いってきまーす』ひかりのくに、2003年

斉藤洋/杉浦範茂『ルドルフとイッパイアッテナ』

 最近ずっと毎日読む絵本が1冊だったのは、この本を少しずつ読んでいたから。「ルドルフとイッパイアッテナ」シリーズの第一作です。私と妻とで交替で読んでいったのですが、なかなかおもしろかったです。ラストのイヌの「デビル」との対決は緊迫した展開で、子どもともども盛り上がりました。
 以前読んだ『ルドルフといくねこくるねこ』のときも思いましたが、このシリーズの基本はなんとなくハードボイルドですね。登場するネコたちは必要以上に甘えないし依存しない。表紙の杉浦さんの絵の通り、キッパリとまっすぐに生きている、そんな印象を持ちました。と同時に、いろいろ笑えるところも多くてユーモラス。うちの子どももだいぶ受けていました。
▼斉藤洋 作/杉浦範茂 絵『ルドルフとイッパイアッテナ』講談社、1987年

木葉井悦子『クロ てがみかこう』

 アフリカで生まれ小金井町で暮らしているイヌの「クロ」。もともとの飼い主(?)アフリカの「ムフおじさん」に、主人公の女の子「わたし」が「クロ」の1年間の様子を手紙に書くという物語。「クロ」と「わたし」の交流が四季折々の自然のなかで描かれており、その強いきずなが伝わってきます。

 絵はダイナミックで迫力があります。まずは表紙、「わたし」と「クロ」が背中合わせに座って笑っている画面がなんとも暖かな雰囲気。本文では、ドクダミの葉摘み、梅雨の雨、夏の川遊び、台風、大晦日の準備など、自然の風情が勢いのある筆致で描かれています。ラストページは赤いポスト。つまり、手紙を出すんですね。裏表紙の見返しには周辺の地図が描かれているのですが、「わたし」の家の隣に「おじいちゃん」の家があり、そこがとても自然豊かであることが分かります。

 はじめの方のページ、家の郵便受けをよく見ると「木葉井」と表札がかかっていました。もしかすると「クロ」は作者の木葉井さんが飼っている(飼っていた)実在のイヌなのかもしれません。

▼木葉井悦子『クロ てがみかこう』「こどものとも」1991年6月号(通巻423号)、福音館書店、1991年

ラーシュ・クリンティング『だいくしごとをしようっと!』

 今日は1冊。この絵本は「カストールのたのしいまいにち」シリーズの1冊。今回、ビーバーの「カストール」は木の道具箱を作っていきます。見開き2ページで作業工程が一つ一つ段階をふんで描かれており、しかも左ページには「カストール」が使う道具、右ページにはその道具を使った大工仕事が描写されています。道具の絵は大きく写実的で道具のかたちそのものが興味深く、またそれを使う「カストール」の様子からは、大工仕事のおもしろさが伝わってきます。終わりの方にはすべての道具を並べたページや、また道具箱の設計図も載っており、自分で作ってみることもできそうです。道具箱が完成したあと、「カストール」は満足げにお茶(?)とお菓子。それにしても、自分専用の木工室があるというのは、なんともうらやましい。
▼ラーシュ・クリンティング/とやま まり 訳『だいくしごとをしようっと!』偕成社、1999年

岩崎京子/村上豊『うみぼうず』

 今日は1冊。この絵本は「日本の民話えほん」シリーズの1冊。お盆には漁をしない決まりになっているのに海に出ていった若者たち。たくさんの魚を捕るのですが、突然現れた海坊主に襲われます。この海坊主、かなり恐いです。黒々とした顔と体、ほとんどのっぺらぼうで小さな目と大きな赤い口、まるでタコかヘビのように体と手がぐーんと伸びてきます。船に乗っている若者たちは大混乱。必死で逃げるのですがまったくかないません。真っ青になってふるえるばかり。とはいえ、なんとなくユーモラスなところがあって、そこも魅力的。
 絵は墨のような色合いを使ったダイナミックな筆致が美しい。表紙には青の題字に同じく真っ青な顔の若者たち、めくった見返しは濃い青で波の模様が描かれています。本文中の海も黒と青を使って描かれており、それが全体の共通したトーンになっています。
▼岩崎京子 文/村上豊 画『うみぼうず』教育画劇、2000年

松居スーザン/堀川真『ちいさな ごるり』

 「ちいさな ばけものの おとこのこ」「ごるり」が、「かあさん」と話をするなかで「ぼくは何だろう」と自分のことを考えていく物語。羽としっぽがあったり、歌がじょうずだったり、いたずらしたり、あるいはいろんなモノを持っていたり……。いろいろなかたちで、自分が何なのかが語られていきます。そして、自分が自分でなかったなら「かあさん」は自分のことをどうするのだろうという疑問も。このときの画面は主に藍色で描かれ、自分が「ごるり」ではなく「クシピーのにんぎょう」だったらと想像している「ごるり」は不安そう。「ごるり」はそのうち本当に「クシピーのにんぎょう」になってしまうのですが、最後はハッピーエンド。なんとなく哲学的ないし心理学的な含意も読み取れそうです。ただ、まだ十分に煮詰められていないというか、少し中途半端な印象を受けました。でもまあ、「ぼくは何だろう」という疑問は子どもにとっては割と身近かもしれませんね。
▼松居スーザン 文/堀川真 絵『ちいさな ごるり』童心社、1996年

福田幸広/結城モイラ『ウリボウ なかよしだいかぞく』

 今日は2冊。この絵本は、イノシシの子どもたち(ウリボウ)を撮影した写真絵本。登場するのは六甲山の森の奥で生活するイノシシの家族です。はじめて知ったのですが、イノシシは、親戚みんなが集まって暮らしているのだそうです。イノシシのお母さんやおばさんやおばあさんは、みんな自分の子どもたちを連れていっしょに生活。お父さんたちは離れて暮らすとのこと。
 で、このウリボウたちが実にかわいい。5匹くらいがいつもいっしょで、互いにじゃれあったりお母さんのおっぱいを飲んだりお昼寝したり……。なんだか、うちの下の子どもと重なってしまいます(^^;)。よく撮影できたなあと感心するほどとても自然な写真。
 巻末には「ニホンイノシシ」の説明と写真家の福田さんの「あとがき」がありました。「あとがき」から少し引用します。

ウリボウのように大勢のきょうだいがいて、親戚中がわいわい暮らす姿を見ているとほんの少し前まで日本の人々のなかにもあった大勢での暮らしが、ダブって見えてくるような気がします。そこには大変ではあるけれど、暮らすことの楽しさや、安堵感などがあったはずです。イノシシの親子を見ていると私たちが忘れかけている何かを感じずにはいられません。こんな大勢での暮らしがもう一度見直されてもよいのではないでしょうか。

 それが家族や親族というかたちを取るかどうかは別にして、多様な人間関係のなかで生活することはたしかに大事だなと思います。というか、子どもより前に私自身がそのようなたとえ弱くても有意義な人間関係を築けているのかどうか……あまり自信がないです。
▼福田幸広 写真/結城モイラ 文『ウリボウ なかよしだいかぞく』ポプラ社、2001年

秋野和子/秋野亥左牟『たこなんかじゃないよ』

 久しぶりに「たこなんかじゃないよ」。散歩の途中で「たこ」に食べられてしまう「にじいろざかな」、最初のページにもすでに描いてあるような気がして、それを話したら、うちの子どもは即座に「かたちが違うよ」。よく見ると、たしかに別の魚でした。さすが、子どもはよく覚えています。いいかげんなことは言えませんね。今日の疑問は「にじいろざかなって本当にいるの?」「たこの足はちゃんと生えてくるの?」。むむむ、ちゃんと答えないとまずいよなあ(^^;)
▼秋野和子 文/秋野亥左牟 絵『たこなんかじゃないよ』「こどものとも」1995年7月号(通巻472号)、福音館書店、1995年

ジョン・バーニンガム『ショッピング・バスケット』

 今日は2冊。この絵本で描かれる動物たちと「スティーブン」の会話は、なかなか緊張感があります。なにせカツアゲをしようとする動物と「スティーブン」の対決ですから、当然ですね。子どもに読むときも、ついつい、なんとなくドスをきかせたような声と間合いになってしまいます。うちの子どもは別に恐くはないみたいですが(^^;)。
 それはともかく、気になるのが物語のラスト。家にたどりついた「スティーブン」にお母さんは「いったい、なにしてたんだい、スティーブン」「……いったい、なにをぐずぐずしてたんだい」。またもや訪れた危機を「スティーブン」はどう切り抜けたんだろう、もしかしてお母さんもやっつけてしまうのかなあと思ったのですが、うちの子ども曰く「動物たちのことを説明したんじゃないの」。あ、そうか、そうだよねえ。でも、めくりのリズムがどうもアタマに残っているので、何か起こりそうな気になってしまいます。
 うちの子どもは今回、ブタが引っかかってしまう柵に注目していました。ブタは「スティーブン」に会う以前にも柵を通り抜けようとして、だから、少しすきまが空いているんじゃないか、とのこと。うーむ、どうだろうね。
▼ジョン・バーニンガム/青山南 訳『ショッピング・バスケット』ほるぷ出版、1993年、[表紙デザイン:羽島一希]

ウィリアム・スタイグ『空とぶゴーキー』

 今日は1冊。お父さんとお母さんが出かけてしまったあと、台所を実験室にして「ゴーキー」が作り上げた金色の液体。香水瓶に詰めておまじないをかけると、瓶を握りしめた「ゴーキー」の体は空に上っていくという物語。
 「ゴーキー」はカエルなんですが、その体がフワリフワリと浮かび上がっていく様子は実に気持ちよさそう。空を飛ぶと言っても、スーパーマンのようにぐんぐん飛ぶのではなく、あたかもシャボン玉のように浮かぶ感じです。見開き2ページで空間を広くとった画面が、そのなんともいえない浮遊感を表しています。飛んでいる(or 流されていく)ときの「ゴーキー」のかっこうも、横になったり縦になったり斜めになったり、水のなかでプカプカ浮かんで泳いでいるようでおもしろい。その様子をあぜんとして見守る他の動物たちもおかしいです。
 物語のオチは、「ゴーキー」がどうやって地上に戻るか。なるほどね、と納得の結末です。原書の刊行は1980年。
▼ウィリアム・スタイグ/木坂涼 訳『空とぶゴーキー』セーラー出版、1996年