「絵本」カテゴリーアーカイブ

なかのひろみ/ふくだとよふみ『う・ん・ち』

 タイトルの通り、動物の「うんち」を扱った写真本。たくさんの動物たちのたくさんの「うんち」写真が掲載されています。少し図鑑のような趣もありますが、文章の量はそれほど多くなく、写真絵本と言っていいかと思います。

 この「うんち写真」、圧倒的におもしろく、あっと驚く事実、へぇーと納得の事実が文字通りてんこ盛り。うちの子どもと一緒に大いに楽しみました。いや、子どものみならず大人にとっても実に興味深いです。

 表紙と裏表紙にもあしらわれていますが、動物たちがまさにうんちをしている瞬間の写真もいっぱい。みんな、それぞれのスタイルでふんばっています(^^;)。どことなくおかしみがあり、と同時に、人間も動物も変わりはなく、生きるってやっぱり食べて出すことなんだなあと、厳粛な気持ちにもなってきます。

 カバはプールをうんちで濁らせないと落ち着けないことや、カタツムリのうんちは食べたものによって色が変わること、などなど、うんちについてはじめて知ることが数多くありました。カニ、イソギンチャク、クジラやイルカといった海の生物、カメレオン、ヘビ、トカゲ、クモ、サソリ、ミミズといった生き物のうんち写真もあります。こんなうんちなんだなあと興味深いです。

 うんちそれ自体の接写写真もたくさん。よく見ると、ライオンのうんちには毛繕いでなめた自分の毛がたくさん含まれており、これに対し、ゾウのうんちは草だらけ、パンダのうんちは竹の葉入り。うんちは、それぞれの動物の生態を表していることが分かります。

 うちの子どもは、大きなうんち写真が載っているページに鼻を近づけてにおいをかいでいました(^^;)。うーん、この気持ち、分かります。実は私も念のため、においをかいでみました。だってね、山盛りのうんちのこんなにリアルで大きな写真です。本当に、におってきそうな感じ(^^;)。

 驚きと同時になるほどなあと思ったのは、「『うんち』のつづき?」と題されたページ。子ども動物園が舞台なのですが、ヒツジのうんちをブタが食べ、そのブタのうんちをカメが食べ、そしてカメのうんちは掃除されるという、うんちの物語が写真で描かれています。そのあとの文章を引用します。

しぜんの なかで うんちは
むしや バクテリアに たべられて
つちに なります。
そして つちは きや くさを そだてて
どうぶつを やしない
はなしは つづいていきます。

 ああ、そうなんだなあとあらためて納得。本来うんちは自然のなかを循環し、次に生きるものを育て養っていくわけですね。その一方で、私たちのばあい、水洗トイレに流すだけなので、このうんちの「きずな」が見えにくくなってしまう。アタマでは分かっていても、実感する機会はほとんどないなあと思いました。

 巻末には、本文に登場した動物も出てこない動物も合わせて「うんち図鑑」。数えてみたら全部で87。肉食動物、草食動物、雑食動物を色分けし、それぞれのうんちの写真、うんちの長さや様子、うんちをするときのスタイル、などの説明付き。おもしろいのは、一番ラストに、自分のうんちの写真を貼り付ける欄があるところ(^^;)。

 奥付のページには、構成と文を担当したなかのさんや、写真のふくださんの紹介に加えて、装丁・デザインを担当したまつ本さんの紹介、撮影地、写真協力、謝辞、さらには、表紙や裏表紙を飾っているたくさんのうんちオブジェ(これがまたユニーク!)の制作者・撮影者も記されていました。ここにも楽しい記述がいっぱいです。

 写真のふくださんによると、この『う・ん・ち』は13年間(!)のうんち撮影の集大成だそうです。すごいですね。やはり、これだけの数の動物のうんちシーンを撮影するのは大変な時間と労力がかかっているんですね。奥付のページに記されている撮影地を数えてみると、動物園や水族館など22施設もありました。

 構成・文のなかのさんは「抱腹絶倒の『うんち撮影・取材風景』を伝えられないのがちょっと心残り」とのこと。うーむ、これはおもしろそう。エッセイのかたちで本にまとめると、けっこうよいんじゃないでしょうか。ぜひ読んでみたいです。

 装丁・デザインのまつ本さんの紹介には「今回、品のよいうんちの本をつくるのが特命」と記されていました。パソコンの画面から「におい」がするようになったそうですが(^^;)、「品のよさ」はこの本のすみずみから伝わってきます。

 そして、「うんちオブジェ」の制作はこの本の関係者、その家族や友人の方々。みんなでワイワイやりながら楽しく作っていったんじゃないかなと思います。アットホームな本作り、なんか、いいなあ。

 取材・撮影でお世話になった動物園や水族館への謝辞には次のように記されていました。

動物園や水族館の人たちはいつも親切ですが、うんちの撮影のときは いっそう親切だったような気がします。

 あー、なんだか分かるような気がします。というのは、最近、うちの下の子ども(1歳)が少し便秘ぎみで、食事のあと、うんうん言って涙を流しながらふんばっているんです。実につらそうなんですが、でも、大きなうんちをしたあとのスッキリとした表情が本当にすばらしく、また出てきたでっかいうんちを見ていると、こちらまでうれしく楽しくなってきます。上の子どもも「見せて!見せて!」「大きいねえ」とニッコリしているし、うんち一つで、家族みんな盛り上がっています(^^;)。

 なんだろうな。うんちをするのは、もちろん、そんなにきれいなことではないけれど、でも、それはもともと、うれしく楽しいことなんですね。「子どものうんちだから」ではなく、大人のうんちでも同じと思います。

 私が小学生のころは、とくに男子のばあい、学校でうんちをするとからかわれたりして、それがいやで、うんちをがまんすることがありました。どうやら今もそんな雰囲気があるようです。でも、うんちをするのは、汚いとか恥ずかしいではなく、楽しくうれしいこと。それが浸透するなら、うんち一つではありますが、学校の雰囲気全体もだいぶ変わるような気がします。この本を読んで、そんなことも考えました。

 もともとこの本は、福音館書店の月刊誌『おおきなポケット』2001年10月号に掲載された「フンフンうんち図鑑」を追加取材し大幅に増ページしてまとめたものだそうです。この写真絵本、強力に(!)おすすめです。

▼なかのひろみ 文/ふくだとよふみ 写真『う・ん・ち』福音館書店、2003年、[装丁・デザイン:まつ本よしこ]

かとうまふみ『えんぴつのおすもう』

 みんなが寝静まったある夜、鉛筆たちの相撲大会がおこなわれました。舞台は机の上。ふつうの鉛筆に色鉛筆、ちびたものから長いものまで、みんなで楽しく相撲大会をしていると、突然、ハサミの「チョキチョキきょうだい」が乱入して大暴れ。実は、「チョキチョキきょうだい」はすることなくつまらなかったのです。暴れ回る「チョキチョキきょうだい」を止めた「ちびたやま」はいいことを思いつき、最後は決勝戦とみんなで華やかなパレード。

 登場する文具一つ一つがカラフルで楽しい雰囲気。鉛筆たちにはそれぞれしこ名があり、まわしも付けています。鉛筆以外にも、消しゴムやカッター、定規、鉛筆入れのカップなども出てきて、よく見ると、それぞれ個性的に表情豊かに描写されています。電気スタンドの明かりが土俵になっており、その電気スタンドの名前が「しょうのすけさん」。いうまでもなく行司ですね。ちゃんと相撲団扇まで持っているところが、おもしろい。

 勝負の画面にはあたかも実況中継のように手書き文字が書き込まれ、読むときも力が入りました。「のこった! のこった!」のかけ声も楽しいです。あと、相撲の勝負はスピードとスリルに満ちていると思うのですが、その点をこの絵本では黒の線描きで表しています。動きの方向や勢い、力の入り具合がうすくかすれた黒で描き込まれていて、アクションの連続が伝わってきます。

 うちの子どもがニヤリとしたのは、最後のページの机の描写。最初のとびらのページにも同じ構図でその机が描かれているのですが、机の上の様子が微妙に違っています。つまり、相撲大会の前と後。人間の知らないところで楽しい一夜が明けたわけですね。

▼かとうまふみ『えんぴつのおすもう』偕成社、2004年、[編集:松田素子、デザイン:高橋雅之(タカハシデザイン室)]

かこさとし『どろぼうがっこう』

 これはおもしろい! タイトルのとおり、泥棒学校の先生と生徒のお話。表紙と裏表紙、とびらの絵は時代劇風ですが、中身は現代です。

 なによりおかしいのは、泥棒と学校の取り合わせ。ふつうの学校でおこなわれていることが、泥棒学校ではすべて泥棒の育成に関係付けられています。

 たとえば校長先生の「くまさか とらえもん せんせい」は物語の冒頭で生徒たちにこう言います。

おっほん、
どろぼうがっこうの せいとは、
いっしょうけんめい せいだして、
はやく いちばん わるい
どろぼうに なるよう、うんと
べんきょうしなければ いかんぞ。

 一生懸命がんばって一番悪い泥棒になれ! 実に教育熱心な学校です(^^;)。同様にして、宿題も遠足もなにもかも、泥棒学校ならではのもの。

 とくに笑ったのが遠足のやりとり。「お菓子を持っていっていいんですか」とたずねる生徒に、校長先生はこう言います。

ばかもん! どろぼうがっこうの えんそくに
おかしを もっていくやつが あるか。
ねじまわしと でばぼうちょうを
もってきなさい。

 うーむ、徹底しています。いや、学校という清く正しくあるべき空間が、泥棒という反社会的なおこないにささげられている……。この価値の転倒がなんとも痛快。

 なんだか、こんなふうに紹介すると、とてつもなく非道徳的な絵本に思われるかもしれませんが、ラストはちゃんと落ち着くところに落ち着いています。

 というか、道徳的かどうかなんて、この絵本のユニークで楽しい描写の前には無意味ですね。登場人物は、泥棒学校の先生と生徒ですから、もちろんワル。「生徒」とはいっても子どもではなく、みんな悪そうな顔つきのおっさんです。目つきは変だし顔に切り傷はあるし、ヒゲはぼさぼさで、服装も実にあやしい。でも、みな、どこか抜けていて、恐いというよりコミカルなんですね。うちの子どもも、だいぶ受けていました。

 で、一番おかしいのが校長先生の「くまさか とらえもん せんせい」。この先生だけ、なぜか時代劇の大泥棒、石川五右衛門のような格好。なにかというと眼をぎょろりとむいて歌舞伎のような決めのポーズを取っています。なんとも、おかしい。

 あ、そういえば、この泥棒学校の先生は校長先生一人だけ。教室もたぶん一つだけなんじゃないかな。小さな学校です。個人運営の私塾みたいな感じかも(^^;)。

 絵は部分的に活字がコラージュされたり、紙が切り貼りされたところがあり、おもしろいです。あと、墨書きのような黒く太い輪郭線がなんとなく和風な印象。表紙と裏表紙の見返しは、「ぬきあし さしあし しのびあし」ですね。これも楽しいです。

 かこさとしさんの「あとがき」によると、この絵本の原作は「13年前」、ということは1960年頃、かこさんの学位論文の下書きの裏に(!)黒と黄の二色で走り書きした紙芝居なのだそうです。当時、それを子ども会で見せることになったのですが、かこさんとしては、時間があまりなかったがゆえにデッサンも構図もいいかげんで乱暴な絵を見せることを残念に思っていました。ところが、その紙芝居は子どもたちに圧倒的に支持され、ことあるごとに何度も何度も見せることになったそうです。少し引用します。

何度となく、そのアンコールにこたえながら、わたしはかれらが表面上のきらびやかなケバケバしさや豪華さにひかれるのではなく、もりこまれた内容の高いおもしろさを求めているのだということを、子どもたちに教えられたのです。

 絵本であれ何であれ、子どもにとって「質の高さ」の意味を考えさせられる気がします。それは大人の評価とは異なるかもしれないし、たとえ大人が眉をひそめるようなものであっても、実はそこにすぐれた内容が潜んでいるかもしれない……。

 ただ、その一方で、表面上の刺激だけに惹かれることもあるかと思います。いずれにしても、「質」というものをあまり単純に捉えてはいけないと言えるかもしれません。

 そんな難しいことはともかく、確かなのはこの絵本のおもしろさ。おすすめです。

▼かこさとし『どろぼうがっこう』偕成社、1973年、[カバー/表紙デザイン:サム・プランニング]

五来徹『ティラノサウルス物語』

 タイトルの通り、恐竜のティラノサウルスを扱った絵本。ティラノサウルスというと、恐竜のなかでも、もっともどう猛、凶暴というイメージが強いかと思います。映画や小説でも、どちらかといえば悪役が多いですね。

 この絵本がおもしろいのは、そのティラノサウルスの家族を描いていること。物語のはじまりは、ティラノサウルスの夫婦が巣のなかの卵を守っている場面です。やがて卵から赤ちゃんがかえり、そのうちの一匹の男の子、「ティラン」が主人公。お父さんティラノサウルスやお母さんティラノサウルスが子どもたちのために狩りをしたり、「ティラン」たちが少しずつ狩りの仕方を覚え自立していく様子が描かれていきます。そして、「ティラン」は、メスのティラノサウルスと出会い、やがて自分たちの家族を作っていくという物語。

 全体を通じて、ティラノサウルスのいわば家族愛がモチーフになっており、なかなか新鮮です。冒頭ページの説明によると、ティラノサウルスは、家族で生活した跡も見られ、現在のライオンのような生態系を持っていたと考えられるそうです。なるほどなあ。

 絵は変に擬人化することなく、非常にリアル。ティラノサウルスが家族でたたずんでいる画面は、本当にアフリカのライオンの家族を見ているよう。なんだか微笑ましい感じです。

▼五来徹『ティラノサウルス物語』新風舎、2003年、[編集:鬼沢幸江、デザイン:大竹美由紀]

舟崎克彦/飯野和好『にんじゃ にんじゅろう』

 この絵本は、舟崎克彦さんと飯野和好さんが組んだ忍者もの。主人公は忍者の家の一人息子、「くろくも にんじゅろう」です。「ねずぼうずのあさたろう」シリーズや「くろずみ小太郎」シリーズなど、飯野さんの他の時代劇絵本とは異なり、今回はふつう(?)の人間が主人公。

 「にんじゅろう」は忍者学校に通いながら、跡取り息子として、いつも「父上」や「母上」から尻を叩かれています。そんなある日の学校からの帰り道、あやしい気配を背後に感じた「にんじゅろう」は、急いで帰宅したのですが、どうも様子がおかしい。戸には鍵がかかっておらず、ロウソク一つ灯っていません。しかも「父上、母上」と呼んでも返事が返ってこないのです。「さては拙者の忍術の腕前を確かめようと、どこかに隠れてスキをうかがっているに違いない」と思いついた「にんじゅろう」、家のなかを探りはじめるのですが、突然、うしろから羽交い締めにされ、手裏剣まで飛んできて……。

 さあ、窮地に陥った「にんじゅろう」がどうなったか。そして「父上」と「母上」はいったいどこに? ラストは、なるほどね、のどんでん返しです。

 この絵本、飯野さんが絵も文も手がけたものと比べると、だいぶ文章の量が多め。とはいえ、やはり時代劇ものですから、たとえば「せっしゃ」「~ござる」「ちょこざいな!」といった言葉遣いになっていて、なかなか楽しい。読むときも力が入ります。

 絵は、ほとんどが夜の場面であるため、どちらかといえば暗めの色づかいですね。それはスリリングな物語に合っていて、なんとなくあやしい雰囲気をかもし出しています。

 それにしても、「父上」「母上」と比べて「にんじゅろう」は大したもの。なにより顔つきが違いますね。ほっぺは、ぽっちゃりとして子どもっぽく、にきび(?)がたくさん浮かんでいるのですが、眉毛はキリリと太く、そして何事にも動じない落ち着いたまなざし。子ども忍者として、なかなかの格好良さです。

 ところで、この絵本では、巻末にいろいろと「おまけ」が付いていました。まずは「にんじゃ親子 夜なべ問答」。「父上」「母上」と「にんじゅろう」が囲炉裏に薪をくべながら、忍者の心得や忍び道具などについて会話を交わします。

 そして、一番ラストに付いているのが「にんじゃえまき」。表には

いきをととのえ、右にめくり、
しずかに、たてにひらくのじゃ。

という飯野さんの手書き文字が記してあります。折りたたんである紙を広げると、A2版の大きなスペースに、忍者の道具や装束、返送、さまざまな術から手裏剣の打ち方まで、飯野さんの鮮やかなイラストと説明がありました。これは、ポスターみたいに壁に貼っておけますね。楽しい趣向です。うちの子どもも、この絵巻にはだいぶ惹かれたようで、私と一緒に読んだとき以外にも、一人で何度も見ていました(^^;)。

 なんとなく思ったのですが、この絵本もシリーズになるのかな。このキャラクターと設定、まだまだ続きが作れそうな感じです。

▼舟崎克彦 作/飯野和好 絵『にんじゃ にんじゅろう』学習研究社、2004年、[編集:寺村もと子、編集協力:清水秀子]

バージニア・リー・バートン『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』

 久しぶりに「けいてぃー」。読む前に「けいてぃーって、男の子だと思う?女の子だと思う?」と聞いてみたら、うちの子ども曰く「男の子!」。

 うーん、やっぱり、そう思っていたか。いや、実は私もしばらく前までは「けいてぃー」は男の子だと思い込んでいたのです。間違いに気付いたのは、バージニア・リー・バートンさんの伝記を読んだとき。原書の一部が写真で掲載されていたのですが、代名詞が”she”だったのです。英語だと代名詞で女性か男性かはっきり分かるのですが、日本語だとそのあたりがあいまいになります。というか、考えてみれば、そもそも「けいてぃー」という名前は女性の名前ですよね。いかに自分が既成のものの見方にとらわれているか、あらためて痛感しました。ほんとにつまらない先入観です。

 それで、今回うちの子どもにも「けいてぃー」は女の子なんだよと説明しました。「えー! 女の子なの!」とびっくりしていました。本文扉の前のページに描かれている、バートンさんの他の絵本の主人公たちを指して「じゃあ、これは?これは?」。スチーム・ショベルの「メアリ」も「いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう」も女の子だよと言うと「へぇー!」。うちの子ども、少し驚きはしたようですが、「あ、そうなんだ」と割と自然に受け止めていました。

 絵本はまずは楽しむものですが、しかし、そこに何が描かれているのか、もっと自覚的でないといけないなと反省。

▼バージニア・リー・バートン/石井桃子 訳『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』福音館書店、1978年

アラン・メッツ『はなくそ』

 タイトルの通り、「はなくそ」をモチーフにした絵本。家族みんなで大受け、大爆笑しました。うちの子どもは、途中からずーっと笑いっぱなし。いやー、これはおもしろい!

 主人公はブタの男の子「ジュール」。「ジュール」は家がお隣で毎朝いっしょに学校に行くの女の子「ジュリー」が大好きなのですが、なかなか告白できません。「ジュリー」はといえば、「いつも よごれて はえが ブンブンしている ジュールが いやで たまりませんでした」。

 そんなある朝、「ジュール」が勇気をふりしぼって、ついに愛を告げようとすると、「ジュリー」曰く「わたしね、あした ひっこすの」。驚く「ジュール」はだまって「ジュリー」のあとを付いていくだけ。森を歩く二人はそのうち、大きな恐ろしいオオカミに捕まり、牢屋に閉じこめられてしまいます。食べられそうになった「ジュリー」を救うべく「ジュール」が取った行動とは……。

 このあとの展開は、ぜひ読んでみて下さい。大爆笑間違いなし、開放感あふれるビロウな物語です。

 まあ、汚いと言えば汚いお話。しかも、教育上あまりよろしくないかもしれません(^^;)。「そんなことしちゃいけません!」なんて言われて眉をひそめられそうです。

 でも、子どもはもちろんのこと、大人になっても、こういう汚いものを楽しむ感覚ってありますね。ついつい、いろんなものの臭いを嗅いでしまうとかね。だって、楽しいもんなー。

 それに、この絵本、単にばっちいだけではないような気がします。主人公の「ジュール」は、前半のページではたしかに汚くて何も考えていなさそうなんですが、どうしてどうして、オオカミの様子をよく観察し、実に的確な判断を下しています。その場の状況に臨機応変に対応し、しかも最後には「ジュリー」の愛まで勝ち取ってしまうのです。実はとても聡明な男の子なのかも(^^;)。

 絵はもちろんユーモラス。「ジュール」の汚さ具合の描写がよい感じです。頭の上にはいつもハエが一匹飛んでいるのですが、最後の最後にいなくなっているのも、おもしろい。「ジュール」の汚さに降参するオオカミの変化も、見ものです。

 あと、付けられた文章も秀逸。「ジュール」の一挙一動とそれに対するオオカミの反応が、まるで映画を見ているかのように伝わってきます。ばっちいアクションの連続には、なんともいえないおかしみがあります。

 ともあれ、家族みんなでこれだけ大笑いした絵本は、ちょっと珍しいかも。汚いのは嫌いという人には向きませんが、そうでなければ、おすすめです。

 原書”Crotte de nez”の刊行は2000年。

▼アラン・メッツ/伏見操 訳『はなくそ』パロル舎、2002年

古田足日/田畑精一『おしいれのぼうけん』

 「さくらほいくえん」で恐いものは「押入」。静かにしない子がいると、「みずのせんせい」はその子を押入に入れて戸を閉めてしまうのです。そして、もう一つ恐いのが先生たちの人形劇に登場する「ねずみばあさん」。ある日、昼寝の時間に騒いでいた「あきら」と「さとし」は、「みずのせんせい」に押入に入れられてしまいます。「ごめんなさい」を言わずにがんばる二人は、やがて押入の奥の不思議な世界へと入り込み、「ねずみばあさん」と戦うという物語。

 なにより印象的なのは、「あきら」と「さとし」のぎゅっと握り合った手。この絵本の背と表紙にも描かれているのですが、押入のなかの二人は多くの場面で手をつなぎ、肩を抱き合います。それは、二人の友情と連帯の表れであり、互いを励まし合うきずなです。

 しかも、すごいなと思うのは、握り合った手があつく汗ばんでいること。いや、当たり前といえば当たり前です。でも、手と手によるこの体感的な交流があってこそ、暗い押入のなかで相手がそこにいることをしっかりと確認し、自分を奮い立たせていることがよく伝わってきます。「ねずみばあさん」に対峙した二人にとって、握り合った手のぬくもりと感触以上に確かなものはなかったとすら言えるかもしれません。

 また、「あきら」と「さとし」の人物造形も魅力的。もちろん、分かりやすく単純化されていますが、ストーリーとも密接に関係しています。途中までは「さとし」の方が気丈夫で「あきら」はすぐに弱音を吐きそうになるんですが、それが最後にどうなったか。よくある展開と言えるかもしれませんが、それでも二人が互いに対等にがんばりぬいたことが表れているように思いました。

 絵は、全体を通じてモノクロ。そのなかで、冒険のはじまりと終わりを示す画面だけが鮮やかなカラーです。別の世界に入っていき、そしてまた戻ってきたことが印象的に描かれています。

 あと、一番最初のページと最後のページの対比もおもしろい。絵も文章もまったく対照的。もしかすると「あきら」と「さとし」の冒険は「みずのせんせい」を変え「さくらほいくえん」そのものを変えたと言えるのかもしれません。いや、ちょっと大げさかな(^^;)。

 うちの子どもは、次はどうなるんだろうと、かなり集中して聞いていました。読み終わったあとで聞いてみると、うちの子ども曰く「ぼくの幼稚園にはこんなに騒ぐ子はいない」。えー、ほんとー?(^^;)。あと、どうやら、うちの子どもが通っている幼稚園には押入はないようです。

▼古田足日/田畑精一『おしいれのぼうけん』童心社、1974年

川端誠『めぐろのさんま』

 川端さんの落語絵本シリーズの1冊。はじめてサンマを食べた殿様のトンチンカンぶりがおかしいです。でも、うちの子どもは、話のオチがよく理解できなかったようでした。いろいろ説明して、一応、分かったみたいです。

 うーん、落語絵本を以前読んだときもそうだったのですが、子どもがスムーズに理解するのは難しいですね。元にする落語にもよるでしょうが、なんだろうな、直接的で体感的な笑いとは違うからだろうか。というか、以前のページに描かれている物語の伏線をよく了解していないと最後のオチが分からないんですね。けっこう要求水準が高いかもしれないと思いました。

 それはともかく、絵はなかなかコミカル。うちの子どももこの絵にはだいぶ惹かれていました。川端さんのあとがきに書かれていましたが、主人公の殿様がおかしいです。川端さんによると、絵を描く前に登場人物のキャラクターデザインをするそうで、今回、殿様については、無邪気なとっちゃん坊や風にし、好奇心の強そうな表情を作ってみたとのこと。まあるい顔で、ほっぺたがふくらんでいて、じっさい物語にとても合っていると思いました。

 笑ったのはラストページ。殿様の抜け具合にみんながガクッとなるわけですが、よく見ると、床の間に飾ってある花も折れています。あと、表紙もよいですね。目黒で取れるたくさんの野菜のなかのサンマ。これも物語の伏線と言えそうです。

 初出は月刊『クーヨン』2001年11月号「おはなし広場」。

▼川端誠『めぐろのさんま』クレヨンハウス、2001年

岸田衿子/中谷千代子『ジオジオのかんむり』

 ライオンのなかでも一番強かった「ジオジオ」。文字通り百獣の王。でも、本当は「ジオジオ」はつまらないと感じていました。もうキリンやシマウマを追いかけるのもいやになってしまい、誰かとゆっくり話してみたいと思っていたのです。そんなときに出会ったのが「はいいろのとり」。6つの卵をすべて失っていた「はいいろのとり」に「ジオジオ」は一つの提案をします。それは、「ジオジオ」の頭の冠に卵を生んだらどうかというもの。こうして「はいいろのとり」は冠に巣を作り、「ジオジオ」といっしょに生活し、ひなを育てていくという物語。

 この絵本のモチーフの一つはおそらく老いと孤独。物語のなかで細かく説明されているわけではありませんが、前半の描写からはなんとなく「ジオジオ」の寂寥感が伝わってくるよう。

 たしかに、最初のページでは、りっぱなたてがみに真一文字の口元、鋭い眼光、地面にしっかりと足を下ろした立ち姿。まさに百獣の王の威厳に満ちています。しかし、その目元には皺が刻まれ、表情にも何か憂いが浮かんでいます。

 というのも、「ジオジオ」はすでに年を取り、白髪が増え眼がよく見えなくなっているのです。若い頃にはみんなから恐れられ孤高であることを誇りにしていたかもしれません。ところが、老いた「ジオジオ」にとって、そんな自分の姿はもはや疎ましいだけ。とはいえ、いまとなっては、なかなか素直に他の動物たちと接することも難しい。

 「ジオジオ」のそんな現在を何よりも象徴しているのが、頭上の黄色く輝く冠。他の動物たちは冠が光っただけでも逃げていくのです。脱ぎたくてももはや脱ぐのも困難な冠。それは他者に対する鎧であり、「ジオジオ」の心の鎧だったと言えるかもしれません。

 そして、この物語がすごいなと思うのは、他者を威圧する冠が、まさに新しい生命を育むよりどころになること。それはまた、「ジオジオ」と「はいいろのとり」やその雛たちとの絆でもあります。冠の意味が変わったことで同時に、孤独だった「ジオジオ」の世界もまた変わったわけです。

 ラストページが印象的。明るい色調を背景にして、「はいいろのとり」と七羽の小鳥が「ジオジオ」のまわりを飛び交っています。「ジオジオ」のたてがみやしっぽに留まる小鳥たち。

 途中から「ジオジオ」は眼がよく見えなくなり、ずっとまぶたを閉じているのですが、しかしラストページの「ジオジオ」の表情はとても穏やか。おそらく、「はいいろのとり」とともに過ごし雛たちの成長を見守ることは、それまでの「ジオジオ」にはありえなかった充実した時間だったのではないか、そんなことが感じ取れます。

 ところで、「ジオジオ」の冠について、うちの子ども曰く「バランスがたいへんだねえ」。つまり、卵や雛を載せて歩くは難しいんじゃないかということです。うーむ、なるほどね(^^;)。

 この絵本、おすすめです。

▼岸田衿子 作/中谷千代子 絵『ジオジオのかんむり』福音館書店、1960年(こどものとも傑作集としての発行は1978年)