かこさとし『どろぼうがっこう』

 これはおもしろい! タイトルのとおり、泥棒学校の先生と生徒のお話。表紙と裏表紙、とびらの絵は時代劇風ですが、中身は現代です。

 なによりおかしいのは、泥棒と学校の取り合わせ。ふつうの学校でおこなわれていることが、泥棒学校ではすべて泥棒の育成に関係付けられています。

 たとえば校長先生の「くまさか とらえもん せんせい」は物語の冒頭で生徒たちにこう言います。

おっほん、
どろぼうがっこうの せいとは、
いっしょうけんめい せいだして、
はやく いちばん わるい
どろぼうに なるよう、うんと
べんきょうしなければ いかんぞ。

 一生懸命がんばって一番悪い泥棒になれ! 実に教育熱心な学校です(^^;)。同様にして、宿題も遠足もなにもかも、泥棒学校ならではのもの。

 とくに笑ったのが遠足のやりとり。「お菓子を持っていっていいんですか」とたずねる生徒に、校長先生はこう言います。

ばかもん! どろぼうがっこうの えんそくに
おかしを もっていくやつが あるか。
ねじまわしと でばぼうちょうを
もってきなさい。

 うーむ、徹底しています。いや、学校という清く正しくあるべき空間が、泥棒という反社会的なおこないにささげられている……。この価値の転倒がなんとも痛快。

 なんだか、こんなふうに紹介すると、とてつもなく非道徳的な絵本に思われるかもしれませんが、ラストはちゃんと落ち着くところに落ち着いています。

 というか、道徳的かどうかなんて、この絵本のユニークで楽しい描写の前には無意味ですね。登場人物は、泥棒学校の先生と生徒ですから、もちろんワル。「生徒」とはいっても子どもではなく、みんな悪そうな顔つきのおっさんです。目つきは変だし顔に切り傷はあるし、ヒゲはぼさぼさで、服装も実にあやしい。でも、みな、どこか抜けていて、恐いというよりコミカルなんですね。うちの子どもも、だいぶ受けていました。

 で、一番おかしいのが校長先生の「くまさか とらえもん せんせい」。この先生だけ、なぜか時代劇の大泥棒、石川五右衛門のような格好。なにかというと眼をぎょろりとむいて歌舞伎のような決めのポーズを取っています。なんとも、おかしい。

 あ、そういえば、この泥棒学校の先生は校長先生一人だけ。教室もたぶん一つだけなんじゃないかな。小さな学校です。個人運営の私塾みたいな感じかも(^^;)。

 絵は部分的に活字がコラージュされたり、紙が切り貼りされたところがあり、おもしろいです。あと、墨書きのような黒く太い輪郭線がなんとなく和風な印象。表紙と裏表紙の見返しは、「ぬきあし さしあし しのびあし」ですね。これも楽しいです。

 かこさとしさんの「あとがき」によると、この絵本の原作は「13年前」、ということは1960年頃、かこさんの学位論文の下書きの裏に(!)黒と黄の二色で走り書きした紙芝居なのだそうです。当時、それを子ども会で見せることになったのですが、かこさんとしては、時間があまりなかったがゆえにデッサンも構図もいいかげんで乱暴な絵を見せることを残念に思っていました。ところが、その紙芝居は子どもたちに圧倒的に支持され、ことあるごとに何度も何度も見せることになったそうです。少し引用します。

何度となく、そのアンコールにこたえながら、わたしはかれらが表面上のきらびやかなケバケバしさや豪華さにひかれるのではなく、もりこまれた内容の高いおもしろさを求めているのだということを、子どもたちに教えられたのです。

 絵本であれ何であれ、子どもにとって「質の高さ」の意味を考えさせられる気がします。それは大人の評価とは異なるかもしれないし、たとえ大人が眉をひそめるようなものであっても、実はそこにすぐれた内容が潜んでいるかもしれない……。

 ただ、その一方で、表面上の刺激だけに惹かれることもあるかと思います。いずれにしても、「質」というものをあまり単純に捉えてはいけないと言えるかもしれません。

 そんな難しいことはともかく、確かなのはこの絵本のおもしろさ。おすすめです。

▼かこさとし『どろぼうがっこう』偕成社、1973年、[カバー/表紙デザイン:サム・プランニング]

五来徹『ティラノサウルス物語』

 タイトルの通り、恐竜のティラノサウルスを扱った絵本。ティラノサウルスというと、恐竜のなかでも、もっともどう猛、凶暴というイメージが強いかと思います。映画や小説でも、どちらかといえば悪役が多いですね。

 この絵本がおもしろいのは、そのティラノサウルスの家族を描いていること。物語のはじまりは、ティラノサウルスの夫婦が巣のなかの卵を守っている場面です。やがて卵から赤ちゃんがかえり、そのうちの一匹の男の子、「ティラン」が主人公。お父さんティラノサウルスやお母さんティラノサウルスが子どもたちのために狩りをしたり、「ティラン」たちが少しずつ狩りの仕方を覚え自立していく様子が描かれていきます。そして、「ティラン」は、メスのティラノサウルスと出会い、やがて自分たちの家族を作っていくという物語。

 全体を通じて、ティラノサウルスのいわば家族愛がモチーフになっており、なかなか新鮮です。冒頭ページの説明によると、ティラノサウルスは、家族で生活した跡も見られ、現在のライオンのような生態系を持っていたと考えられるそうです。なるほどなあ。

 絵は変に擬人化することなく、非常にリアル。ティラノサウルスが家族でたたずんでいる画面は、本当にアフリカのライオンの家族を見ているよう。なんだか微笑ましい感じです。

▼五来徹『ティラノサウルス物語』新風舎、2003年、[編集:鬼沢幸江、デザイン:大竹美由紀]

舟崎克彦/飯野和好『にんじゃ にんじゅろう』

 この絵本は、舟崎克彦さんと飯野和好さんが組んだ忍者もの。主人公は忍者の家の一人息子、「くろくも にんじゅろう」です。「ねずぼうずのあさたろう」シリーズや「くろずみ小太郎」シリーズなど、飯野さんの他の時代劇絵本とは異なり、今回はふつう(?)の人間が主人公。

 「にんじゅろう」は忍者学校に通いながら、跡取り息子として、いつも「父上」や「母上」から尻を叩かれています。そんなある日の学校からの帰り道、あやしい気配を背後に感じた「にんじゅろう」は、急いで帰宅したのですが、どうも様子がおかしい。戸には鍵がかかっておらず、ロウソク一つ灯っていません。しかも「父上、母上」と呼んでも返事が返ってこないのです。「さては拙者の忍術の腕前を確かめようと、どこかに隠れてスキをうかがっているに違いない」と思いついた「にんじゅろう」、家のなかを探りはじめるのですが、突然、うしろから羽交い締めにされ、手裏剣まで飛んできて……。

 さあ、窮地に陥った「にんじゅろう」がどうなったか。そして「父上」と「母上」はいったいどこに? ラストは、なるほどね、のどんでん返しです。

 この絵本、飯野さんが絵も文も手がけたものと比べると、だいぶ文章の量が多め。とはいえ、やはり時代劇ものですから、たとえば「せっしゃ」「~ござる」「ちょこざいな!」といった言葉遣いになっていて、なかなか楽しい。読むときも力が入ります。

 絵は、ほとんどが夜の場面であるため、どちらかといえば暗めの色づかいですね。それはスリリングな物語に合っていて、なんとなくあやしい雰囲気をかもし出しています。

 それにしても、「父上」「母上」と比べて「にんじゅろう」は大したもの。なにより顔つきが違いますね。ほっぺは、ぽっちゃりとして子どもっぽく、にきび(?)がたくさん浮かんでいるのですが、眉毛はキリリと太く、そして何事にも動じない落ち着いたまなざし。子ども忍者として、なかなかの格好良さです。

 ところで、この絵本では、巻末にいろいろと「おまけ」が付いていました。まずは「にんじゃ親子 夜なべ問答」。「父上」「母上」と「にんじゅろう」が囲炉裏に薪をくべながら、忍者の心得や忍び道具などについて会話を交わします。

 そして、一番ラストに付いているのが「にんじゃえまき」。表には

いきをととのえ、右にめくり、
しずかに、たてにひらくのじゃ。

という飯野さんの手書き文字が記してあります。折りたたんである紙を広げると、A2版の大きなスペースに、忍者の道具や装束、返送、さまざまな術から手裏剣の打ち方まで、飯野さんの鮮やかなイラストと説明がありました。これは、ポスターみたいに壁に貼っておけますね。楽しい趣向です。うちの子どもも、この絵巻にはだいぶ惹かれたようで、私と一緒に読んだとき以外にも、一人で何度も見ていました(^^;)。

 なんとなく思ったのですが、この絵本もシリーズになるのかな。このキャラクターと設定、まだまだ続きが作れそうな感じです。

▼舟崎克彦 作/飯野和好 絵『にんじゃ にんじゅろう』学習研究社、2004年、[編集:寺村もと子、編集協力:清水秀子]

中学生による手作り絵本の読み聞かせ

 先日の記事で高校生による読み聞かせを取り上げたのですが、今度は、中学生による読み聞かせです。『中日新聞』2005年1月21日の記事「浜松・蜆塚中生らが 幼稚園で手作りの絵本を読み聞かせ」。少し引用します。

浜松市蜆塚中学校の三年生約七十人が二十日、近くの浜松海の星幼稚園を訪れ、手作りの絵本を園児たちに読み聞かせた。家庭科の幼児の遊びについて学ぶ授業の一環で、一人一冊ずつ作製した。

 検索したら、浜松市立蜆塚中学校のサイトもありました。サイトのなかでは、今回の取り組みについて説明は見つかりませんでした。

 最近の家庭科ではこういう授業もおこなわれているんですね。手作り絵本というところがまたすごい。

 2作ほど絵本の内容も紹介されています。それを見る限りでは「しつけ絵本」の類が多いのかも。とはいえ、園児たちへの呼びかけや、やりとりも作り込まれ、工夫されているようです。

 最後に中学生の感想の声も掲載されていました。「楽しんでもらえるように、反応を見ながら読みました」とのこと。うーむ、なかなか。

 私は自分の子どもと一緒に絵本を読むだけですが、けっこう、子どもの反応を忘れがちです。どうしても文字に集中してしまいますし、隣にいる子どもの様子をいつも、きちんと見ているとは、とても言えません。

 集団での読み聞かせなら、なおさら緊張してしまい、まわりが見えなくなるかも。これに対し、この記事の中学生のみなさんは、たいしたものです。

 見知らぬ異年齢の相手のことを考えて絵本を手作りし、相手の反応を見ながらそれを読み聞かせする……こういう活動は、あるいは、コミュニケーションの力を育成するのに効果があるのかもしれないなと思いました。

 しかしまあ、ことさら教育的な効果をねらうよりは、その場をともに楽しむことが重要なんでしょうね。

ルース・スタイルス・ガネット/ルース・クリスマン・ガネット『エルマーとりゅう』

 「エルマー」シリーズの第2巻、読み終わりました。第1巻は危機また危機の冒険物語でしたが、今度は宝探し。「どうぶつ島」を脱出した「エルマー」と「りゅう」は家に帰る途中ひどい嵐にあい、小さな島に降り立ちます。そこは逃げたカナリヤたちが住んでいる「カナリヤ島」。「エルマー」は、カナリヤたちがかかっている「しりたがりのでんせんびょう」を直すという物語。

 この「しりたがりのびょうき」、ナンセンスでおかしいのですが、なんとなく分かるような。誰かが秘密にしていると、こちらも知りたくなってくる、そういう心理はたしかにあります。

 ところで、今回うちの家族の大疑問は「エルマーはみかんを食べ過ぎなんじゃないか?」。というのも、「エルマー」、たまにはキャンデーも食べていますが、ほとんど、みかんしか食べていません。しかも、一回に19個とか11個とか15個とか、ありえない数。数字がきちんと記録されているのも、なんだかおかしいのですが、それにしても、こんなにみかんばかり食べていて本当に大丈夫なんだろうかと、要らぬ心配をしてしまいます(^^;)。

 うちの子ども曰く「そうだよねえ。みかんばかり食べていると、おしっこが出るよねえ。あ、でも、エルマー、おしっこも、うんこも、してないね。なんでだろう」。うーん、鋭い! というか、まあ、「エルマー」がおしっこやうんこをしている場面を読みたいかって感じですね。

 いや、きたない話でスミマセン。

▼ルース・スタイルス・ガネット 作/ルース・クリスマン・ガネット 絵/渡辺茂男 訳/子どもの本研究会 編集『エルマーとりゅう』福音館書店、1964年

マタニティ・ブックスタート

 『朝日新聞』のasahi.com : MYTOWN : 山口の記事「おなかの赤ちゃんに読んで/出産前の母親に絵本」。山口県小野田市の取り組みです。少し引用します。

0歳から絵本を通して言葉と心を育むため、出産後の母親に絵本を贈る「ブックスタート」運動が全国の自治体に広がる中、小野田市は出産前に贈る独自の「マタニティー・ブックスタート」に取り組んでいる。育児で忙しい出産後より、おなかの赤ちゃんにゆっくり読んであげながら出産を迎えてほしいという。

 うーん、どうなんでしょうね、これ。

 いや、たしかに有意義な部分も大いにあると思います。母親が(もちろん父親も)絵本に接する機会がそれだけ早くなるわけですし、それは赤ちゃんが生まれてからの絵本とのつきあい方にもよい影響を及ぼすと言えます。また、母親にとっても父親にとっても、絵本を渡されることで、自分たちが「親」になることをこれまで以上に自覚できるかもしれません。さらに、記事でも書かれていましたが、出産前の方が余裕があるというのも重要な点でしょう。

 とはいえ、生まれてしばらくの赤ちゃんに絵本を読んでも、おそらく赤ちゃんは絵本を受け入れないのではないでしょうか。少し大きくなってからも遊び道具にすることが多いと思います。そもそも絵本が「絵本」として認知されるのは、それなりに条件が整わないと難しい気がします。

 そうだとすれば、親が期待するほどには赤ちゃんが絵本を楽しんでくれないとき、逆に絵本なんていらないということになりはしないか……。考えすぎかもしれませんが、絵本とのかかわり方が阻害されることもありうるように思いました。もちろん、このあたりについては、事前にきちんと伝えておけばよいのでしょうが……。

 あと、この取り組みがある種の方向に進んでいくと、たとえば「胎教によい絵本の読み聞かせ」とか「胎教におすすめの絵本」といったところまで行くかもしれませんね。最近は絵本ブームと言われていますし、もしかすると、どこかの出版社がすでに企画を立てているかも。たぶん出版社にとっては新しい市場になるような気がします。

 まあ、少し考えすぎかな。どんなもんでしょう。

バージニア・リー・バートン『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』

 久しぶりに「けいてぃー」。読む前に「けいてぃーって、男の子だと思う?女の子だと思う?」と聞いてみたら、うちの子ども曰く「男の子!」。

 うーん、やっぱり、そう思っていたか。いや、実は私もしばらく前までは「けいてぃー」は男の子だと思い込んでいたのです。間違いに気付いたのは、バージニア・リー・バートンさんの伝記を読んだとき。原書の一部が写真で掲載されていたのですが、代名詞が”she”だったのです。英語だと代名詞で女性か男性かはっきり分かるのですが、日本語だとそのあたりがあいまいになります。というか、考えてみれば、そもそも「けいてぃー」という名前は女性の名前ですよね。いかに自分が既成のものの見方にとらわれているか、あらためて痛感しました。ほんとにつまらない先入観です。

 それで、今回うちの子どもにも「けいてぃー」は女の子なんだよと説明しました。「えー! 女の子なの!」とびっくりしていました。本文扉の前のページに描かれている、バートンさんの他の絵本の主人公たちを指して「じゃあ、これは?これは?」。スチーム・ショベルの「メアリ」も「いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう」も女の子だよと言うと「へぇー!」。うちの子ども、少し驚きはしたようですが、「あ、そうなんだ」と割と自然に受け止めていました。

 絵本はまずは楽しむものですが、しかし、そこに何が描かれているのか、もっと自覚的でないといけないなと反省。

▼バージニア・リー・バートン/石井桃子 訳『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』福音館書店、1978年

絵本の読み聞かせのいろいろなかたち

 子どもたちに向けた集団での絵本の読み聞かせというと、その担い手はやはり女性が中心かと思います。とはいえ、最近は、いろんな取り組みが試みられるようになってきたようです。そこで、ここ数ヶ月に右サイドバーの MyClip でクリップした記事に基づき、そうした試みの幾つかを簡単にまとめてみようと思います(といっても、かなり長文になってしまいました^^;)。

男性による読み聞かせ

 まずは男性による読み聞かせ。近年、とみに注目されてきました。その筆頭はもちろん、絵本ナビ パパ’s絵本プロジェクト。新聞や雑誌などのマスメディアでもさかんに取り上げられていますね。

 なんと長野県には「伊那支部」も発足。北原こどもクリニックの北原文徳さんらによる取り組みです。そのライブレポートもあります。なんか、いいなあ。とても楽しそうです。

 北原さんのウェブサイトでは、絵本についての興味深い考察がおとうさんと読む「絵本」しろくまの不定期日記に掲載されており、こちらもおすすめです。

 えー、少々こっぱずかしいのですが、北原さんのウェブサイトのリンク集では「絵本を読むお父さんなら、「今日の絵本」に訊け!」と、うちの今日の絵本にリンクを張っていただいています。いや、「訊け!」っていうほどの内容がなくて恐縮なのですが、本当にありがたいなあと思っています。この場を借りて、感謝いたします。

 話を元に戻して、男性による読み聞かせですが、陸奥新報に2004年11月21日に掲載された記事男性の読み聞かせ、子供たちを魅了。青森県での取り組みです。

 こちらはパパ’s絵本プロジェクトとはとくに関連はなく、単独の活動のようです。少し記事を引用します。

県内で初となる男性の読み聞かせグループ「お話ちゃんこなべ」(高嶋豊明代表)が二十日、絵本の読み聞かせを弘前市門外二丁目の堀越公民館で行い、児童を引き付けた。これまで読み聞かせといえば主に女性だったが、「男性の包容力のある声で聞くのもいい」と好評だった。

 「お話ちゃんこなべ」のメンバーは、弘前市や青森市に住む男性6人。結成は2004年9月。なかには、絵本を読み聞かせするのが今回はじめてという方もいらしたそうです。もちろん、本番の前には1週間かけて練習をされたとのこと。

 男性による絵本読み聞かせ、徐々に広がってきているようです。

高齢者による読み聞かせ

 続いて、年齢限定、60歳以上の高齢者による読み聞かせ。中日新聞の記事にあったのですが、いまは見ることができないようです。そこで、Google にキャッシュしてあったものから引用します。滋賀県長浜市での取り組みです。

長浜市内の小学校で、60歳以上のメンバーが集まる本の読み聞かせボランティア「ジーバーぽこぽこ」が活動している。子どもたちの読書習慣の支援と、高齢者の健康維持、増進につなげようという一石二鳥の試み。県内では初の取り組みだ。

 記事によると、2004年6月に長浜市の保険センターが高齢者の読み聞かせボランティアを募集。8回にわたり講義や実技を受講し、その後、9月からじっさいの活動をはじめたとのこと。メンバーは17人。かなり人気があるようで、市内の小学校から引っ張りだこだそうです。

 「ジーバーぽこぽこ」という名前の由来は、おじいさんやおばあさんからいろんな話が出てくるという意味。なるほど、おもしろいですね。

 記事の最後に説明があったのですが、高齢者による読み聞かせは、東京都老人総合研究所が健康増進に効果的として提案しているそうです。

 同研究所のサイトを検索してみると、広報誌の老人研NEWSに関連記事を見つけました。No.205 平成16年11月(PDFファイル)の「トピックス シニア読み聞かせボランティアのあゆみ」です。

 この記事によると、すでに1990年代にアメリカで同種のプログラムが実施されており、日本では、同研究所が中心になって、東京都中央区、川崎市多摩区、滋賀県長浜市の3地区でおこなわれているようです。活動開始後6ヶ月ごとにお年寄りのフォローアップ健診をし、お年寄りの心身の健康にとっての意義を評価するとのこと。また、お年寄りの読み聞かせが小学校などの教育現場に対してどんな意義や効果を持っているかも聞き取りを進めていく予定だそうです。かなり本格的な調査研究です。

 そういえば、お年寄りに対する読み聞かせの取り組みもあったと思います。でも、もしかすると、お年寄りがみずから小学校に出向いて絵本を読む方が、お年寄りにとってはよりよいかもしれませんね。

高校生による読み聞かせ

 今度は若い世代の読み聞かせ。岩手日報の2005年1月7日の記事、読書会が結ぶ世代の絆 伊保内高生徒。少し引用します。

今回で25年目を迎えた九戸村の伊保内高(牛崎隆校長、生徒182人)の子ども読書会は6日、村内各地区で始まった。7日までの2日間、生徒60人が村内21会場を回り、児童・幼児に宮沢賢治の童話を読み聞かせたり、手作りの紙芝居を上演して交流を深める。

 今年で25年目! 生徒60人で村内21会場! うーむ、これはすごい。ハンカチ落としなどのゲームもするそうです。参加した子どもたちの声も載っていますが、とても楽しそう。毎年、楽しみにしている子どももいるとか。小さいときに読書会に参加した子が高校生になって今度は読み手として活動していることもあるそうで、これは素晴らしいですね。

 うちの子どもを見ていても思うのですが、異年齢の子どもと遊ぶ機会がとても少ないです。高校生と接する機会などほぼ皆無。また逆に、高校生が幼児や小学生と接することもあまりないのではないでしょうか。そういうなかで、児童や幼児と高校生が交流できる読書会は、非常に有意義なんじゃないかと思います。

 岩手県立伊保内高等学校のサイトもありました。子ども読書会のセクションには詳しい情報が掲載されています。

 見てみると、参加する高校生は男子の方が多いんですね(男子32人・女子20人)。学校の公式の行事ということもあると思います。とはいえ、女子よりもむしろ男子にとって、この取り組みはよい経験になるんじゃないでしょうか。いや、私の高校時代を振り返ってみても分かるのですが、こういう子ども読書会は自分の社会を広げる一つのきっかけになると思います。

 サイトのトップページによると、この子ども読書会は平成16年度の善行青少年表彰を受賞したそうです。この表彰については、青少年育成ホームページ平成15年度善行青少年等表彰についてに説明がありました。

 ただ、Google で検索してみると、伊保内高校は、岩手県の高校再編の対象になっており、存続を求める運動がおこなわれているようです。おそらく少子化の問題が背後にあるのでしょう。当事者ではありませんし細かな事情が分からないので何も言えませんが、これだけ優れた活動に取り組んでいる高校がなくなってしまうのは、非常に惜しいと思います。

共有地としての絵本の読み聞かせ

 今回は、ほんの少しのクリップした記事しか見ていませんが、それでも、読み聞かせにはいろんな可能性があるなあと思いました。

 とくに感じたのは、読み聞かせが双方向的であること。もちろん、読み聞かせは子どもたちのために行われるわけですが、でも、それは子どもたちに対して絵本をただ読んでいくだけではありません。

 男性にせよ、高齢者にせよ、高校生にせよ、読み聞かせを通じて自分たちもまた多くのものを得ていると思います。東京都老人総合研究所ではお年寄りに対する読み聞かせの効果が一つの研究テーマになっていましたし、岩手県の伊保内高校の子ども読書会も高校生自身にとっての教育的意義は大きいでしょう。

 しかも、いずれの取り組みでも、参加した子どもたちもまた、楽しんでいるようです。つまり、読み聞かせをする側の独りよがりではなく、なにより子どもたちにとって魅力的な時間と場所を作れているということ。

 こんなふうに考えてみると、絵本の読み聞かせというのは、いわば共有地のようなものかなあと思いつきました。

 理解が間違っているかもしれませんが、みんなで一緒になって作り上げている空間であり、しかも、そこから誰もが多くのものを得て学んでいる空間。それが絵本の読み聞かせのときに現れてくる空間かなあと。

 いや、私自身は自分の子どもに絵本を読んでいるだけなので、集団での読み聞かせがどのようなものなのかじっさいにはよく分かりません。とはいえ、読む側から聞く側への一方的な情報伝達ではなく、読む側と聞く側が双方向的にともに何かを作って獲得していく場なんじゃないかなと考えました。そして、それは、うちの子どもに絵本を読むときにも当てはまるような気がします。

アラン・メッツ『はなくそ』

 タイトルの通り、「はなくそ」をモチーフにした絵本。家族みんなで大受け、大爆笑しました。うちの子どもは、途中からずーっと笑いっぱなし。いやー、これはおもしろい!

 主人公はブタの男の子「ジュール」。「ジュール」は家がお隣で毎朝いっしょに学校に行くの女の子「ジュリー」が大好きなのですが、なかなか告白できません。「ジュリー」はといえば、「いつも よごれて はえが ブンブンしている ジュールが いやで たまりませんでした」。

 そんなある朝、「ジュール」が勇気をふりしぼって、ついに愛を告げようとすると、「ジュリー」曰く「わたしね、あした ひっこすの」。驚く「ジュール」はだまって「ジュリー」のあとを付いていくだけ。森を歩く二人はそのうち、大きな恐ろしいオオカミに捕まり、牢屋に閉じこめられてしまいます。食べられそうになった「ジュリー」を救うべく「ジュール」が取った行動とは……。

 このあとの展開は、ぜひ読んでみて下さい。大爆笑間違いなし、開放感あふれるビロウな物語です。

 まあ、汚いと言えば汚いお話。しかも、教育上あまりよろしくないかもしれません(^^;)。「そんなことしちゃいけません!」なんて言われて眉をひそめられそうです。

 でも、子どもはもちろんのこと、大人になっても、こういう汚いものを楽しむ感覚ってありますね。ついつい、いろんなものの臭いを嗅いでしまうとかね。だって、楽しいもんなー。

 それに、この絵本、単にばっちいだけではないような気がします。主人公の「ジュール」は、前半のページではたしかに汚くて何も考えていなさそうなんですが、どうしてどうして、オオカミの様子をよく観察し、実に的確な判断を下しています。その場の状況に臨機応変に対応し、しかも最後には「ジュリー」の愛まで勝ち取ってしまうのです。実はとても聡明な男の子なのかも(^^;)。

 絵はもちろんユーモラス。「ジュール」の汚さ具合の描写がよい感じです。頭の上にはいつもハエが一匹飛んでいるのですが、最後の最後にいなくなっているのも、おもしろい。「ジュール」の汚さに降参するオオカミの変化も、見ものです。

 あと、付けられた文章も秀逸。「ジュール」の一挙一動とそれに対するオオカミの反応が、まるで映画を見ているかのように伝わってきます。ばっちいアクションの連続には、なんともいえないおかしみがあります。

 ともあれ、家族みんなでこれだけ大笑いした絵本は、ちょっと珍しいかも。汚いのは嫌いという人には向きませんが、そうでなければ、おすすめです。

 原書”Crotte de nez”の刊行は2000年。

▼アラン・メッツ/伏見操 訳『はなくそ』パロル舎、2002年

古田足日/田畑精一『おしいれのぼうけん』

 「さくらほいくえん」で恐いものは「押入」。静かにしない子がいると、「みずのせんせい」はその子を押入に入れて戸を閉めてしまうのです。そして、もう一つ恐いのが先生たちの人形劇に登場する「ねずみばあさん」。ある日、昼寝の時間に騒いでいた「あきら」と「さとし」は、「みずのせんせい」に押入に入れられてしまいます。「ごめんなさい」を言わずにがんばる二人は、やがて押入の奥の不思議な世界へと入り込み、「ねずみばあさん」と戦うという物語。

 なにより印象的なのは、「あきら」と「さとし」のぎゅっと握り合った手。この絵本の背と表紙にも描かれているのですが、押入のなかの二人は多くの場面で手をつなぎ、肩を抱き合います。それは、二人の友情と連帯の表れであり、互いを励まし合うきずなです。

 しかも、すごいなと思うのは、握り合った手があつく汗ばんでいること。いや、当たり前といえば当たり前です。でも、手と手によるこの体感的な交流があってこそ、暗い押入のなかで相手がそこにいることをしっかりと確認し、自分を奮い立たせていることがよく伝わってきます。「ねずみばあさん」に対峙した二人にとって、握り合った手のぬくもりと感触以上に確かなものはなかったとすら言えるかもしれません。

 また、「あきら」と「さとし」の人物造形も魅力的。もちろん、分かりやすく単純化されていますが、ストーリーとも密接に関係しています。途中までは「さとし」の方が気丈夫で「あきら」はすぐに弱音を吐きそうになるんですが、それが最後にどうなったか。よくある展開と言えるかもしれませんが、それでも二人が互いに対等にがんばりぬいたことが表れているように思いました。

 絵は、全体を通じてモノクロ。そのなかで、冒険のはじまりと終わりを示す画面だけが鮮やかなカラーです。別の世界に入っていき、そしてまた戻ってきたことが印象的に描かれています。

 あと、一番最初のページと最後のページの対比もおもしろい。絵も文章もまったく対照的。もしかすると「あきら」と「さとし」の冒険は「みずのせんせい」を変え「さくらほいくえん」そのものを変えたと言えるのかもしれません。いや、ちょっと大げさかな(^^;)。

 うちの子どもは、次はどうなるんだろうと、かなり集中して聞いていました。読み終わったあとで聞いてみると、うちの子ども曰く「ぼくの幼稚園にはこんなに騒ぐ子はいない」。えー、ほんとー?(^^;)。あと、どうやら、うちの子どもが通っている幼稚園には押入はないようです。

▼古田足日/田畑精一『おしいれのぼうけん』童心社、1974年