幼児絵本、あるいは赤ちゃん絵本の定番中の定番。うちの子どももお気に入りで、読むといつも、描かれている果物を指さして「すいか!」「りんご!」と言っています。
この絵本の魅力は、まずは描かれている果物それ自体。非常に瑞々しく美しく、しっかりとした存在感を放っています。手にとって食べられそうなくらいの迫力。子どもたちが引きつけられるのも当然と思えます。
そして、それら果物が誰の視点から描写されているかが、たぶん、この絵本の一番の特徴。よく指摘されることですが、子どもの目線に立って描かれているわけです。
すいか、もも、ぶどう……と幾つもの果物が描写されるのですが、最後のバナナを除いてすべて、はじめに皮をむいたり切り分けたりする前の果物それ自体が描かれ、その次に食べられるようになった果物と「さあ どうぞ」の文章が置かれています。最初の果物それ自体の圧倒的な存在感は、これ自体、子どもの目から見た果物の姿を捉えたものと言える気がします。そして、それに続く「さあ どうぞ」の文が付けられた絵は、どれも、読んでいる私たちに向かって果物が差し出される絵柄になっています。まさに子どもの目線からみた果物です。
ただし、子どもの視点は全体にわたって繰り返されるのですが、唯一、違うのがラストページ。ここでは、視点が反転し、子どもではなく、果物を差し出す側、おそらくは親の視点から、バナナの皮をむく子どもの姿が描かれています。
なんとなく思ったのですが、こうした視点の置き方と最後の反転には、もしかするととても大きな意味合いがあるのかもしれません。
まず、繰り返される「さあ どうぞ」の文と絵。ここで示されているのは、自分の意思で自由に食べることが出来ない者の存在と、食べることが出来るように世話してくれる者の存在です。読者は終始、前者の視点に立つことになります。
こういうシチュエーションは、おそらく大人にとっては、自分が出来ないこと、ある種の不能感を繰り返し確認することを意味するかもしれません。たとえば病気等で入院していて、身体が動かない状態です。変な言い方かもしれませんが、次から次へと「ほれ、食べろ、食べろ」と急かされているような感もなきにしもあらずです。
しかし、子どもにとっては、たぶん全く違う意味を持つでしょう。つまり、自分が守られていること、自分が相手に認められていること、相手に尊重されていることが、何度も示されているわけです。そのことの安心感、充足感もまた、この絵本が伝えているものの一つかなと思います。
そして、ラストページの視点の反転。ここでは、二つのことが表されている気がします。
一つは、この絵本を読む子どもの視点から見るなら、それまで「さあ どうぞ」と言われてきた者がまさに自分自身であることを確認するという意味です。果物を差し出されてきたのは誰なのか、ラストページではじめて自分と同じ子どもであることが示されます。だから、守られ大事にされているのが自分であることが確かめられるわけです。
もう一つは、世話されるだけの存在であった自分がみずから何かを成し遂げうることがここに表されています。それまで「さあ どうぞ」と言われて与えられるだけだったのが、今度はバナナの皮を自分でむいて、自分で食べる……。それは、大げさかもしれませんが、守られるだけの存在から一歩外に出ることを含意しています。そして、そういう自分のいわば新しい姿をそれまでとは別の視点から確認するわけです。こうしてみると、視点の反転は、受動性から能動性への反転を伴っていると言えるかもしれません。
いやまあ、なんだか難しくて、考えすぎかもしれませんが、なかなか奥が深い絵本であることは確かかなと思いました。
▼平山和子『くだもの』福音館書店、1979年(「福音館の幼児絵本」としての発行は1981年)、[印刷:三美印刷、製本:多田製本]
お久しぶりです。えほんうるふです。すっかりご無沙汰しているうちにサイトを新装開店されていたんですね。私もここ半年ほど妙に忙しく自分のブログの更新もままならなかったのですが、ようやく少し落ち着いたので旧交をあたためなおしに挨拶回りをしているところなのです。mkさんのサイトは他にない読み応えのある内容なので以前のブックマークから飛べなくなっていてショックだったんですが、ちゃんと見つかってホッとしました。「絵本を読む」が旧「今日の絵本」だとは知らずに訪れたのですが、この「くだもの」の書評を読んですぐにピンと来ましたよ♪ でもこうして改めて豊富な過去ログを拝見すると、コメントしたい記事が山ほどあって嬉しい当惑を感じています。少しずつ読みながら、またコメントさせていただきますね。
おっと、ついご挨拶が長くなってしまいましたが、本題。
子供に対しての作り手の思いやりというか、ただ単に写実的な果物の絵を見せて「おいしそう!」という反応だけを期待するのではなく、もっと上質なホスピタリティをこの作品から感じるのは私も同じです。
ただ、「こういうシチュエーションは、おそらく大人にとっては、自分が出来ないこと、ある種の不能感を繰り返し確認することを意味するかもしれません。」というくだりには、おおーっと目からウロコでした。確かに「ほれ、食べろ、食べろ」と急かされているようにも受け取れ、何となく気持ちに負担がかかるのですよね。
それでもやはり、私はこれはストレートな慈愛の表現なんだと思うのです。というのは、「ほれ、食べろ、食べろ」と相手が食べきれないほどの量と種類をこれでもかと強引に提供することこそが相手への最大の歓迎と受容の表現だと信じている人々が、世の中には少なからずいるのですね。今でも地方の農村地帯や年配の方にはこの傾向が強くて、町ネズミの私は若い頃はこういうもてなしを受けると「嫌がらせか?」などと勘ぐったものですが今は素直にありがたく思え、なんとかその気持ちに応えようと限界まで食べまくる羽目になるわけです。
…てなことをいつか自分のブログで語ろうと思っていたのですが…ほとんどここで語り尽くしてしまいました(^^;)
えほんうるふさん、お久しぶりです。またコメントをありがとうございます。
えほんうるふさんに「読み応えのある内容」と言っていただき、赤面の至りです。サイトを移転したはよいものの、本業が忙しくてあまり更新できず、いやはや困ったなあと思っていたところでした。えほんうるふさんのコメントをよいきっかけにして、また少しずつ書いていきたいなと思っています。
えほんうふるさんが指摘されている「ストレートな慈愛の表現」、なるほどなあと思いました。実は私は(いまは九州在住ですが)東北地方にも10年ほど暮らしたことがあります。えほんうふるさんのコメントを読んでいて、かの地で長く暮らしている方々にたいへんに歓待された経験を思い出しました。次から次へと料理が出て来るわけです。いや、本当に「ほれ、食べろ、食べろ」でした。
そのことを考えると、たしかに、この絵本の表現は、不能感の確認というよりは、やはり愛情の表れと理解するのがよいかもしれませんね。
あるいは、もしかすると私自身、そのような慈愛を感受する力が衰えているのかも。東北にいたときはけっこう喜んで歓待されていたのに、今では素直に受け入れられなくなっている気もします(^^;)。あ、えほんうるふさんとは逆だ……。
絵本って、実は、読む人の人格を映し出してしまうのかもしれませんね。
赤ちゃん 病気について
はじめまして、突然のトラックバック申し訳ありません。2児の母のみきです。赤ちゃん 病気情報のHPです。良い記事をアップしますので、宜しくお願い致します♪