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絵本の著作権

 以下は、Yahoo! ニュースに出ていました。もともとは共同通信社から発信された記事です。

定番絵本の作者が提訴へ 「ページ構成など酷似」

 ロングセラーの赤ちゃん絵本「いない いない ばあ」(童心社)の作者松谷みよ子さん(78)と瀬川康男さん(71)が、自らが作り出した表現方法を学習研究社(東京都大田区)の絵本で無断で使われ、著作権を侵害されたとして、同社と作者に、計約2100万円の損害賠償などを求める訴訟を25日、東京地裁に起こす。
[以下略]

 二つの絵本の写真(見開き2ページ)も掲載されています。たしかによく似ています。

 著作権の専門的な議論はよく分かりませんが、注目したいのは、模倣された要素の一つとして「見開き2ページを使って動物などが『いない いない』という動作をし、次の2ページで『ばあ』という動作をする」が挙げられている点。ページのつくりと絵の配置がここでは問題になっていると言えます。

 たしかに絵本のばあい、個々の文や絵のみならず、絵本全体をどのように構成していくかにも、作者の独創性と創造性が発揮されていると思います。そのことは、前の記事で紹介した中川素子さんの『絵本は小さな美術館』でも指摘されていました。この意味での著作権も看過されてはいけないのかもしれませんね。

中川素子『絵本は小さな美術館』(その5)

 この本の最終章である「第4章 絵本が語る現代」では、現代社会を絵本がどのように映し出しているのかが扱われています。

 美術史の世界ではアプローチの仕方もイコノグラフィ(図像学)、様式論、記号論、心理学などと多様だが、作品を時代精神の中で考えるイコノロジー(図像解釈学)が最も作品を深くとらえているように思う。絵本論ではまだイコノロジーによりアプローチしたものはあまり見受けられないが、母親、老人、子どもなどの絵には歴史的、風土的、社会的なイメージが重ねられている。絵本の絵がそのイメージを再構成すると同時に、新しいイメージを世の中に広める力にもなる。つまり、一冊の絵本が新しい人間の在り方や人間関係のイメージを作り出す大切さを理解していただけたらと思うのだ。(168-169ページ)

 この中川さんの議論はよく理解できます。女性や子育てや老いについて新しいイメージを意欲的に提示している絵本もたくさんあると思います。食わず嫌いをせずに、そういった絵本も読んでいきたいものです。

 だた、その一方でおそらく絵本は、それが絵本であるがゆえに新しいイメージの創出に困難を抱えているところもあると思います。

 つまり、多くの絵本は、イメージを革新するというよりは、むしろ、既存の凝り固まったイメージをそのまま反復しそれをますます強固にしているかもしれません。絵本が子どもを対象に作られていること、そこでの「子ども」観がそれ自体一定のイメージにしばられていること、そしてまた絵本をもっぱら教育の手段ととらえてしまいがちなこと、こういったことが絵本におけるイメージの冒険を阻んでいる可能性は否定できない気がするのですが、どうでしょう。

 とはいえ、具体的に何か新しいイメージを創出するわけではなくても、もう少し抽象的な水準で絵本は大きな力を発揮しているのではないかと考えました。たとえば女性の生き方や環境問題や死などを直接に扱っていなくても、イメージとの関係の結び方やつきあい方について絵本が伝えていることもあるように思います。こういう水準での絵本の可能性も考えられるかもしれません。

 なんだか自分でも難しくてよく分からなくなってきましたが(笑)、ともあれ、中川さんの本を読んであれこれ思考が刺激されました。この本、絵本についてとても新鮮な見方・読み解き方が示されており、読んで損はないと思います。新書で割と簡単に手に入りますし、一読をおすすめします。

▼中川素子『絵本は小さな美術館』平凡社新書、2003年、定価(本体 880円+税)

中川素子『絵本は小さな美術館』(その4)

 この本でおもしろいと思ったのが、ヴィジュアル・リテラシーという考え方。長いですが、引用します。

リテラシーという言葉がある。読み書き能力といった意味で、最近はメディア・リテラシーなどという場面でも使うが、私たちはヴィジュアル・リテラシーということに、もっと注意してよいように思う。絵本のどんな片隅の小さな絵にも、必ず作者の託した意味がある。子どものように隅から隅まで何度も見ることにより、浮かび上がるものがあるはずだ。(42-43ページ)

絵本作家たちが、絵本の部位のすべてを使って表現しようと努力していることをきちんと受け止めたい。(83ページ)

今まで表紙、本文部、裏表紙と各部位を見てきたが、絵本の部位はすべて表現の場であることがおわかりいただけたと思う。変なたとえだが、一匹の魚を買い、身を刺身にして、残ったあらや骨などもすべて料理しつくすように、絵本の部位のそれぞれの味を味わっていただきたい。(87ページ)

 絵本のばあい、このヴィジュアル・リテラシーはなかなか重要ですね。中川さんが書かれているとおり、絵本は、他の種類の本以上に、本というモノそれ自体が徹底的に活用されています。表紙、裏表紙、見返し、扉、背、といった物体としての本のいろんな部位にさまざまなメッセージが刻まれており、そのことが絵本の表現の厚みと幅を生んでいるように思います。もちろん、それは本文の絵のあり方にも関係します。浮かび上がってくるさまざまなメッセージに目と耳をすませると、ますます絵本がおもしろくなってくる気がします。

 そうしたヴィジュアル・リテラシーは、ついつい文を読んでしまう大人より、言葉にとらわれず絵を隅々まで見ている子どもの方がむしろ高いかもしれませんね。私も、読み聞かせのときうちの子どもからいろいろ教えられて、なるほどなあと感心することがあります。

 また、こういうヴィジュアル・リテラシーは、絵本だけではなく、当然、他のあらゆる視覚表現に対しても有効でしょう。別にそのことを目的にする必要はありませんが、絵本を通じてヴィジュアル・リテラシーをとぎすませることができるなら、それはそれで有意義と思います。

▼中川素子『絵本は小さな美術館』平凡社新書、2003年、定価(本体 880円+税)

中川素子『絵本は小さな美術館』(その3)

 子どもにどんな絵本を選んだらよいのかは誰しも悩む点ですが、これについて中川さんは次のように書かれています。

私は、「子どもにどんな絵本を見せたらよいのですか」という質問をされる時があり、そういう時たいてい逃げ腰になる。私自身、まったく行き当たりばったりで選んでいたからだ。
[中略]

 まず、どんな絵本でもいいから自分の目で見て、おもしろいなと思ったものを選んでいただきたい。子どもや孫のためでなく、自分のために絵本を選んでみる。あなたを支え、力になる絵本がきっとあることと思う。絵本の幸福な記憶は、子ども時代だけに形作られるわけではないのだ。

 最近の調査では、世界中で本を読む子どもの順位は、日本が調査した国の中での最下位ということだ。どうして日本の子どもたちはそんなに本離れしてしまったのだろう。でも、大人たちも絵本を愛するなら、絵本に親しむ子どもたちも自然に増えていくのではないだろうか。幸福な記憶を大人と子どもで共有できるということも、絵本が私たちにくれるすばらしい贈り物といえるだろう。

(19ページ)

 この中川さんの考え方にはかなり共感できました。

 もちろん、自分がよいと思う絵本を子どもに押しつけてはいけないと思います。でも、自分が楽しめなくては、子どもといっしょに絵本を読むことも難行苦行になってしまいます。世間で評価されている「よい絵本」を探して血眼になるなんてことも、ありえない話ではないでしょう。絵本の読み聞かせも、義務としてやっているなら、子どももそのことに気がつき息苦しくなるのではないでしょうか。子どものため、教育のため、といった考え方から一度おりてみる、そんなことが求められるのかもしれません。

 中川さんが書かれているように、まずは「自分のために絵本を選んでみる」。そのうえで、「絵本の幸福な記憶」を独りよがりなものにするのではなく子どもと共有できるようにすること、これが大事なんじゃないかと思います。

 そして、そのためには、たぶん、絵本についての思いこみや先入観をなるべく取り去ることが必要になるのかもしれません。「絵本なんてこんなもの」「こんな絵本がいい絵本」とは思い込まずに、いろんな絵本を読んでみる、絵本の多様性と広がりを自分なりに楽しんでみる。

 なんだか私もえらそうに書いていますが、中川さんの文章を読んで、自分が子どもと「幸福な記憶」を共有できているかなあと少し考えてしまいました。

▼中川素子『絵本は小さな美術館』平凡社新書、2003年、定価(本体 880円+税)

中川素子『絵本は小さな美術館』(その2)

 前の記事で紹介した『絵本は小さな美術館』ですが、読んでいていろいろ考えたことがあったのでメモしておきます。ちょっと長いですが、4つの記事に分けて書いていきます。

 筆者の中川さんによると、物語からではなく表現そのものから絵本を見ていくこと、いいかえると美術的な見方が、絵本についてのこれまでの議論には根本的に欠けているとのこと。「はじめに」ではその理由が4点、指摘されています。簡単にまとめてみます。

 第一に、絵本は絵として見られることはあっても、表紙や見返しや裏表紙、本文の流れをともなった一冊の絵本全体としては考えられていない。

 第二に、絵はあくまで物語の二義的なものとしてのみ捉えられている。つまり、物語をいかにうまく説明表現できているかという図解の意味で絵が論じられており、そのため、絵を描く素材や技法、また紙質などについて語られることはあまりない。

 第三に、絵本は、美術の領域の動向とは区別されて論じられている。そのためまた、海外の絵本についても、偏った紹介がされている。

 第四に、視覚表現は感覚的なものとのみ考えられており、非常に浅く狭く捉えられている、つまり、視覚表現のなかになんらかのロジックや思想が表れているとは見られていない。

 この最後の第四点ですが、少し引用します。

絵本の視覚表現性は何かときかれたなら、私は即座に「認識」という言葉をあげる。絵本に限らず、視覚イメージというものは認識であり、思考そのものといってよい。視覚表現には、絵本を描いた人が時空間や人間関係などをどのように認識し解釈しているかが表れている。それは絵本作家個人としての認識であるが、同時に時代の認識でもある。(17-18ページ)

 言葉になっているものだけがなんらかの思考を表しているわけではなく、絵のような視覚表現もまた、言葉に劣らず、むしろ言葉以上に、世界や社会や人間についての一定の認識そして思想を表しているということかなと思います。

 しかも、絵本では絵と文(言葉)がいっしょになっているわけですが、絵は文からは独立してそれ固有の認識・思想を伝えていると言えるのでしょう。だから、視覚表現を物語やテーマに安易に還元するのではなく、それ自体、独自のメッセージを発しているものとして読み解く必要があるのかもしれません。

 というか、そのように立体的に捉えると、絵本を読むのがより楽しくなると思います。

▼中川素子『絵本は小さな美術館』平凡社新書、2003年、定価(本体 880円+税)

中川素子『絵本は小さな美術館』(その1)

 この本は、「視覚表現性」に着目して絵本を読み解いていく本。「視覚表現性」というと少し難しいですが、要するに絵本のなかの目に見える要素すべてを指しているのではないかと思います。

 より具体的には、表紙や見返しや裏表紙の表現、本文における構成の仕方、色の使い方や形の工夫、文字の大きさや並べ方、絵を描く素材や技法、基材としての紙、といったものが扱われています。

 この本、少し難しいところもありますが、一つ一つの絵本に即して非常に具体的に語られています。カラーの口絵も8ページほどあって、「視覚表現性」の中身もよく理解できます。

 また、中川さんの文章は的確かつ細やかで、それも魅力的です。個々の絵本の「視覚表現」が発している声とメッセージをていねいに聞きとっている、そんな印象を受けました。

 私もそんなにえらそうなことを言えませんが、この本を読んでいて、こんな見方もあるんだなあと新鮮に感じたところがたくさんありました。読んでいくうちに、これまで見過ごしていた絵本の新たな世界がどんどん目の前に広がっていくように感じました。絵本の見方、接し方をあらためて考えるうえでとても有意義で、それは、子どもに絵本を読み聞かせするときも生きてくるように思います。

 サブタイトルとして「形と色を楽しむ絵本47」と付けられていますが、紹介されている絵本は全部で約120冊ほど。なかには海外の絵本もあって、ブックガイドとしても役立ちます。

 筆者の中川素子さんは、文教大学教授で造形美術論が専門のようです。絵本学会の呼びかけ人の一人で理事もつとめられています。本書以外にも、絵本について論じた著作が何冊かあるようなので、機会があったら読んでみたいと思います。

▼中川素子『絵本は小さな美術館』平凡社新書、2003年、定価(本体 880円+税)