月別アーカイブ: 2004年2月

長 新太『絵本画家の日記』

 この本は、絵本画家9人(長さんもその一人)が編集に携わった絵本ジャーナル『Pee Boo』の連載をまとめたもの。日付はどれも「○月○日」と記されていますが、1ページに一日ずつ長新太さんの手書きの文章とイラストがつき絵日記のようになっています。カラーページも8ページくらいあります。

 中身は長新太さんの絵本と同じくユーモアにあふれているのですが、それ以上に、いまの絵本と絵本画家さんのおかれた状況をたいへん鋭く辛辣に語っています。

 まず、絵本編集者との戦い(?)の様子。たとえば、酒に酔った編集者にはこうからまれます。

「チョーさんは、編集者は絵がわからないバカなヤツ、と思ってるでしょ? ええ、ソーデスヨ、ヨーデスヨ。ゲージツなんて、どうでもいいやい! そんな絵本は売れないんだから。カワユーイ、アマーイ、なめたくなるような絵が一番いいのだ! そういったセンセイがたの絵本が売れて、もうかっているから、チョーさんみたいな人の絵本もわが社から出せるのよ。ありがたいと思いなさい。コラッ。こちらにいるセンセイは(注・女の人)売れる絵を描くセンセイですよ。チョーさん、最敬礼しなさい!」

 この文についているイラストでは、チョーさん(長 新太さん)が地面にゴツンと頭をぶつけて「最敬礼」している様子が描かれています。

 『Pee Boo』に、絵本の編集者や営業の人に意見を書いてもらおうとして苦労する様子も語られています。

 そして、絵本と絵本画家の社会的な地位の低さ。たとえば

○月○日。コマーシャルの仕事をしているイラストレーター曰く「はじめて絵本の仕事をしたけど、ギャラがメチャクチャ安いんでおどろいたよ。チョーさん、よくやってるねえー」1枚描けば、たちどころに絵本1冊ぶんのギャラが入るコマーシャルの世界。こちらは、子どものためにグワンバッテイルノダ!などと思うんだけど… なんかさみしい1日。

○月○日。つい最近、若いイラストレーターと、やり合ってしまった。若もの「ボクも、チョコチョコと、絵本をやってみたいんですけど、どっか、紹介してくださいよ」わたし「チョコチョコとはなんだ!」若もの「だって、子どもの本を見ると、チョコチョコもんばかりじゃないですか」わたし「チョコチョコ、チョコチョコと、チョコレートじゃないぞ、バカ!」――子どもの本の絵は、チョコレートみたいに甘く、そして苦いのであります。どこからか哀しい音楽がきこえてくる夕暮れ。

 その一方で、子どもの描いた絵に衝撃を受けたり、なにものにもとらわれず自由に描こうという一徹な姿勢も日記の記述からうかがえました。

 長 新太さんのように日本を代表する絵本画家の方ですら、絵本をとりまく無理解・無関心、孤独と苦悩のなかで格闘されていることが、ユーモアにくるまれながらも、ひしひしと伝わってきます。絵本に関心のある方には、ぜひぜひ一読をおすすめします。

 ただ、とても残念なことに、この本は現在、品切れ中。BL出版のウェブサイトで検索したらそう表示されました。私も図書館から借りて読みました。このあたりにも、絵本をとりまく状況のきびしさが現れているような気がします。昨年(2003年)には『絵本画家の日記2』も刊行されたことですし、この機会に、この『絵本画家の日記』も復刊してほしいところです。

▼長 新太『絵本画家の日記』BL出版、1994年、定価 1,121円
※残念ながらこの本は現在品切れのようです。

飯野和好さん関連のウェブサイト

 チャンバラ時代劇絵本で有名な飯野和好さん関連のウェブサイト。検索してみたら、以前ふれた飯野和好痛快活劇ビデオのサイトのほかにも、いろいろと関連サイトがありました。

 まず、月刊誌『こどもの本』2001年5月号から1年間掲載されていた、飯野さんのエッセー「あぜみち話」。この雑誌は日本児童図書出版協会から刊行されているのですが、連載の第一回最終回がウェブ上で読むことができます。

 第一回のエッセーによると、『ハのハの小天狗』は飯野さんが絵本の世界に本格的に入ることになったきっかけの絵本とのこと。また、「ハのハの」の名前の由来も書かれていました。

 最終回では、江戸時代の渡世人の格好(股旅姿!)をして日本全国で読み語りをしていることにもふれられています。

 この連載、タイトルは飯野さんの手書き、たぶん子どものときの飯野さんを描いたイラストもあり、なかなかおもしろいです。機会があったら『こどもの本』のバックナンバーで他の回のエッセーも読んでみたいと思いました。

 続いて、『愛媛新聞』愛媛CATVで放送している「愛媛新聞きゃっちMAT.」「特集 絵本作家・飯野和好ワールド(上)」。これは2001年12月10日に放送されたもので、動画とテキストの両方が掲載されています。

 動画の方では、飯野さんが松山市内での読み語り会で股旅姿で『ねぎぼうずのあさたろう その1』の読み語りをしているときの様子が見られます。いやー、本当に浪曲の読み語り。非常にしぶくて、また楽しそうです。

 インタビューでは、浪曲風絵本が誕生したときの経緯や渡世人の格好で読み語りをすることの楽しさ、チャンバラ時代劇絵本の魅力などを語られています。とくに絵本の魅力について話されているところは必見です。

 この「特集 絵本作家・飯野和好ワールド」の(下)は見つかりませんでした。残念。

 最後に、「絵本の世界を通してココロの冒険旅行をおすすめする架空の会社」絵本旅行社「ご報告まで。(原画展・絵本講座レポート)」にある「飯野和好 絵本原画展」のレポート。この原画展は2002年の7月から8月に宮城県の仙台文学館で開催され、『ねぎぼうずのあさたろう』をはじめとして5作品の原画とアイディアメモが展示されたそうです。原画にそえられた飯野和好さん自筆のメッセージも「絵本旅行社」のゆきなさんがメモされていて、読むことができます。『ハのハの小天狗』の試作本も展示されていて、じっさいに公刊されたものとは構図が違うとのこと。他の絵本も、原画と印刷されたものでは色調がかなり違うそうで、興味深いです。

飯野和好『ハのハの小天狗』

 飯野和好さんといえば、このウェブログでも以前取り上げた『ねぎぼうずのあさたろう』をはじめとするチャンバラ時代劇絵本の第一人者(?)。その飯野さんの最初のチャンバラ時代劇絵本がこの『ハのハの小天狗』だそうです。

 春もさかりの風もトロトロとあたたかいある日、みすずちゃんといっしょに学校から帰る途中、「ぼくたち」は忍者の一団におそわれます。思わず身構えた「ぼく」は、いつのまにか「ハのハの小天狗」に変身(?)、忍者の一団と戦いを繰り広げます。

 そんなわけで、この絵本では突然、時代劇に突入し、そしてまた突然、現代に戻るというとても不思議なストーリーになっています。「ぼく」や「みすずちゃん」が山の中で「ハのハの小天狗」や「みすず姫」に変身するところは、なんとなく子どものころのチャンバラ遊びを思い出しました。本気でサムライになったつもりで、「エイッ」「ヤアッ」と遊んでいた、あの感じです。

 絵は、たとえば現在の『ねぎぼうずのあさたろう』シリーズと比べると、筆のタッチや色使いが微妙に違っていて、なかなか興味深いです。文章も『ねぎぼうずのあさたろう』のように手書きではありません。現在よりはもう少し淡泊な感じでしょうか。だんだんとあの独特のこゆい作風が完成されていったのかなと思いました。

 とはいえ、もちろん、血湧き肉躍るチャンバラの楽しさとユーモアはこの絵本でもすでに確立されています。

 「タァーッ」「えーいっ、どうだっ」「トアーッ」「チェーイ」といったチャンバラのセリフの数々は読み聞かせでも思わず気合いが入ります。危機また危機の連続は、子どもも思わず身を乗り出します。

 とくにうちの子どもに大受けしていたのが、忍者の頭。「むふふふっ 小天狗やるな」と言って登場し、次から次へと手り剣をとばし、そして一言。

「ムッ
手り剣がなくなった」

 画面は、見開き2ページ、手り剣のなくなった両手を凝視する忍者の頭の上半身を下から仰ぎ見るような構図で、セリフは上述のものだけ。この間合いが実におかしい。

 また、忍者の一団は、緑色の服装といい、まんまるの胴体といい、どうみても木の実か野菜です。頭の上には葉っぱの付いた枝までくっついています。忍者の頭は、頭に漬けもの桶か何かをかぶっているみたいで、これも笑えます。

 そして、決戦の舞台はやはり峠。『ねぎぼうずのあさたろう』にも峠の決戦が何度かあったと思うのですが、峠というのは、向こうから何が現れるか分からないし、切り立った崖もあるし、何か不穏な雰囲気があるんですね。この舞台設定も飯野さんならではでしょうか。

 もう一つ、気になったのが、裏表紙やとびら、表紙・裏表紙の見返しに記されている手書きの謎の文字です。どうもローマ字のようなのですが、独特の字体でなかなか解読できません。『ねぎぼうずのあさたろう』など現在の飯野さんの絵本ではあまり見かけないのですが、こういうところもおもしろいですね。

▼飯野和好『ハのハの小天狗』ほるぷ出版、1991年

クォン・ジョンセン/チョン・スンガク『あなぐまさんちのはなばたけ』

 強烈なつむじ風がふいた日のこと、あなぐまおばさんはまちの市場まで吹き飛ばされてしまいます。家に帰る途中の学校でみつけたお花畑に、あなぐまおばさんはうっとり。そこで、峠の家でもお花畑を作ろうとします。言われたとおり、あなぐまおじさんが、くわであたりを掘り起こしはじめると、

「あー、おまえさん! それは なでしこよ。ほっちゃ だめ!」
「アイゴー! それは つりがねにんじんよ。ほっちゃ だめ!」

 家のまわりをよく見ると、そこにはいろんな花が咲き乱れていて、そのままお花畑。冬だって白い雪の花が山一面に咲きます。あなぐまおばさんは、日ごろ見落としていた大事なものにあらためて気づくのです。

 このストーリーに加えて、この絵本の魅力は絵の美しさです。使われている黒色はたぶん墨書きだと思うのですが、たとえば力強い山々の稜線など、その躍動感あふれる筆使いは一見の価値ありです。また、墨色以外の彩色も非常にあざやかで魅力的。たとえば、あなぐまおばさんが自分たちの家のまわりの花畑に気づく画面はとても幻想的に描かれています。あるいは、アメリカの画家ポロックを彷彿とさせる画面もあり、アクション・ペインティングと墨書きが融合したかのような独特の美しさです。

 もう一つ注目されるのが、彩色されている紙(?)の質感です。日本でいえば和紙のような感じでしょうか。あたたかで味わい深くまた微妙な色合いで、墨書きによくマッチしています。この紙(?)に水分を含ませてその上で彩色してあるようなところもあり、色のにじみがとても美しいです。

 著者紹介によると、絵を担当したチョン・スンガクさんは、韓国古来の絵画の持つ美しさを取り入れた絵本づくりに力を注いでおられるとのこと。私は韓国の絵画はまったく知らないのですが、この絵本の筆使いや紙面の独特の質感は本当に美しいと思いました。

 原書の刊行は1997年。

▼クォン・ジョンセン 文/チョン・スンガク 絵/ピョン・キジャ 訳『あなぐまさんちのはなばたけ』平凡社、2001年

長谷川集平さん関連のウェブサイト

 昨日紹介した『トリゴラス』の作者、長谷川集平さん関連のウェブサイトです。

 まずは、長谷川集平さんとロックバンド、シューヘーのウェブサイト、SHUHEI’S GARAGE。無知でぜんぜん知らなかったのですが、長谷川集平さんは、チェロとギターのライブ・ユニット「シューヘー」で音楽活動もされているんですね。これまでの遍歴やライブレポート、スケジュール、歌詞集など詳細な情報が掲載されています。長谷川集平さんの著作リストもあり、本やCD、絵はがきやTシャツは通販もされています。本については、内容紹介や書評などの情報もたくさん掲載されていて、とても充実しています。ただ、絶版が多いのが少々悲しいですね。あと、3ヶ月に1度、「シューへー通信」というニュースレターを発行されていて、その案内もありました(一部は記事も読めます)。掲示板には長谷川さんご自身も登場されて、活発なやりとりになっています。

 続いて、長谷川集平さんが講師となって1995年から2ヶ月に一度おこなわれている自主的な連続文化講座、長崎絵本セミナリヨのウェブページ。SHUHEI’S GARAGE と同じcojicoji.com のなかにあります。この講座は、「絵本について」「絵本と映画について」「絵本と音楽について」の三つのテーマを順番に取り上げながら、絵本を文化という観点から取り上げていくものだそうです。すでに52回を数えています。スタッフの方のレポートもありました。ここのサイトに掲載されている、「長崎絵本セミナリヨ七ヶ条」は必見です。

 そして、復刊ドットコム『長谷川集平』復刊特集ページ以前紹介したスズキコージさんもそうでしたが、長谷川集平さんも、数多くの著作が絶版で、復刊リクエストのあったものがリストになっています。絵本ガイドでもしばしば目にする『はせがわくんきらいや』も三度も絶版になり、復刊ドットコムでようやく復刊が決まったそうです。他にも『映画未満』や『絵本未満』といった割と有名な著作も絶版のようです。この機会に私も幾つか復刊のリクエストを投票しました。

 この特集ページには、長谷川さん自身のメッセージも掲載されていました。少し引用します。

作品には時として作者の思惑を越えたものが埋め込まれることがあります。作者も受け手のひとりとして、長い時間をかけて宝探しを続けることになります。せっかちな商売の仕組みと落ち着きのない精神生活の中で、ぼくらに必要な「長い時間」が失われがちになっているのを残念に思います。

 いまや本が消耗品になってしまったことは、ずいぶん以前から指摘されてきたかと思います。絵本もまたどんどん絶版になっているのが現状なのでしょう。でも、絵本はもともと、瞬間風速的に受容されるものではなく、長い時間をへて繰り返し読まれていくもののような気がします。私も自分が小さいころに読んだ絵本を自分の子どもたちに読み聞かせたりし、そのとき私は長い時間をへてもう一度絵本に出会い、あらたな感動を得たりします。何十年も前に描かれたものでも、まったく古びることのない絵本はたくさんあります。長谷川さんの「長崎絵本セミナリヨ七ヶ条」を読みながら、絵本のまわりに「ぼくらに必要な長い時間」が流れるには何が大事なんだろうと考えてしまいました。

長谷川集平『トリゴラス』

 大風が「びゅわん びゅわん」と鳴る夜のこと、少年はこの音が「トリゴラス」という怪獣の飛ぶ音に違いないと妄想します。少年の話では、「トリゴラス」はまちを破壊し、「かおるちゃん」をさらっていくのです。

 この絵本、少年の暴力衝動と性衝動、そのいい意味での焦燥感を余すところなく表現していると思います。多くの元少年が身に覚えのある感覚をよびさまされてしまう、そんな絵本です。

 「暴力と性? じゃあ、小さい子どもには読ませられない!」、なんてことはまったくありません。さらにプラスして、ユーモアとペーソスがあります。

 うちの子どもも、この絵本を非常に楽しんでいました。何がいいって、まずは「トリゴラス」、この怪獣がそれ自体、実に魅力的。ビルの上を低く飛び、口から「ひみつへいき」の「トリゴラ・ガス」を吐き、戦闘機やミサイルの攻撃をものともしない、圧倒的な強さです。これが子どもにとってはたまりません。いや、昔「子ども」だった大人にとっても、です。そういえば、はじめの方のページで、少年の机の上にはウルトラマンと怪獣の人形がかざってあり、ふすまにはスター・ウォーズのポスターが貼ってありました。

 そして、うちの子どもがもっとも受けていたのが、関西弁の文章。ユーモラスでしかもリズミカル。ついつい自流の関西弁で読み聞かせも楽しめます。たとえば、こんな感じ。

もう、めちゃくちゃや。
まち、ぐちゃぐちゃや。
もう、わやくちゃなんや。

 この文章がついた画面には、列車を口にくわえたトリゴラスが、燃え上がる(?)街と飛び交う戦闘機やミサイルを背景に力強くそびえ立っています。読み聞かせでここのページになると、うちの子どもはいつも、ウハハハと大受けしていました。

 それから、少年のお父さんが絶妙の突っ込みキャラクターになっています。もともと「なにゆうとんじゃ!」といった表情をしているのですが、妄想がエスカレートする少年に対し最後にがつんと一言、

あほか、おまえは。
あの音は、ただの風の音じゃ。
そんな しょうもないこと ごちゃごちゃゆわんと、
はよねえ!

と言って電気を消します。次のぺージで少年は暗い顔をして「かおるちゃん……」。このお父さんの突っ込みがあるのとないのでは大違いじゃないかなと思います。この突っ込みがあるからこそ、少年のどうしようもない煩悶がくっきりと浮かび上がってきます。

 絵は鮮やかな色彩はまったくなく、あたかもモノクロ映画のようです。じっさい「トリゴラス」が少年の分身であることを同じ構図の絵で暗示したり、映画のような画面構成もおもしろいです。たとえば「トリゴラス」がまちを破壊するシーンは映画『ゴジラ』の第一作を彷彿させますし、「かおるちゃん」をさらっていくところは『キングコング』です。

 とくに電気を消す画面では、見開き2ページで寝室を描くかたちになっているのですが、左のページにはお父さんが電気に手をのばすシーンが描かれ、右のページには電気が消え暗くなったなかじっと闇を凝視している少年の姿が描かれています。このページのつくりは、電気を消すという時間の流れとお父さんと少年の対比を印象深く表していて、とてもおもしろいと思いました。

 あと、この絵本のもっとも不思議なところが表紙です。写真に彩色したかのようになっていて、映画ポスター『トリゴラス』の看板が小さく空き地に立っています。映画のポスター風なのはおもしろいのですが、中身とギャップがあって、この表紙は何を意味しているんだろうと思いました。あるいは少年の妄想のどうしようもなさ・いかんともしがたさを表しているのかしれませんね。

 この絵本、改版が2003年10月に同じく文教出版から刊行されているようです。「改版」とのこと、もしかして絵や文章が変わっているのでしょうか。機会があったらぜひ見てみたいと思います。

▼長谷川集平『トリゴラス』文教出版、1978年

竹内オサム『絵本の表現』

 著者の竹内オサムさんは、奥付の著者紹介によると、マンガ史と児童文化が専門の大学の先生で、『手塚治虫論』や『戦後マンガ50年史』といった著作があります。

 「あとがき」を読むと、大学の幼児教育学科と児童学科の学生に、絵本の読み聞かせを指導したり、紙芝居の実演、さまざまな絵本の紹介などに取り組んでこられたそうです。そうした経験のなかで考えてこられたことが、この本にまとめられています。

 この本のテーマは、絵本の「表現技法」。つまり、どんなふうにして絵本が描かれているのか、その表現のテクニックを考えてみることです。ただし、絵本を描こうとする人へのハウツー本というわけではなく、日頃から絵本に接している人や絵本に関心を持っている人に、「絵本はこんなふうにも読める」という新しい見方を提供したいとのこと。

 具体的に取り上げられている技法は、たとえば、誰の目からどんな位置から描くのか、その視点を画面と場面でどう連続させていくか、表紙と裏表紙をどのように描くか、絵と絵、場面と場面をどうつなげていくか、絵と言葉のコンビネーションの仕方や語り手の置き方、時間の流れをどのように扱うか、などです。

 この本、少々難しくとっつきにくいところもありましたが、日頃あたりまえに接している絵本を違った角度から見直すことができ、なかなかよかったです。100ページくらいのうすい本ですが、多くの絵本を例に挙げて具体的に説明していて、なるほどなあと思ったところがけっこうありました。

 竹内さんも書かれていますが、私たちは通常、完成品としての絵本に接していて、その絵本がどのような行錯誤の結果できあがったのか、あまり意識しません。でも、表現技法に注目してあらためて絵本を見てみると、作家の方々の創意工夫が多少なりとも感じられるような気がします。

 また、竹内さんは、表現技法を分析することの意味について次のように書かれていました。

ただ楽しむのではなく、分析的に見る見方も身につけてほしい。それが絵本に限らずメディアそのものを対象化し、ときには批判的に見る目を養うことに、きっとつながっていくはずなのだ。
[中略]
ものごとには、ふたつの眼で接するのが一番だと、ぼくなどは思う。「理解しつつ愛する」という態度が大切なんだと。冷静に対象のあり方を理解しつつ、その一方で対象を深く愛すること。そのような二重の接し方が、対象と自分との関係をよりよいものにしていくはずだと信じる。(105ページ)

 これはとても納得がいきます。「技法」や「分析」というとなんだか冷たい印象がありますが、まったく逆で、表現の工夫やその「すごみ」が分かると、ますます絵本が魅力的でおもしろくなってくると思います。子どもに読み聞かせをしたり、子どもと絵本について話したりするときも、もっと楽しくなるんじゃないでしょうか。

 あと、細かなところで「へー」と思ったのは、「幼年童話の三種の神器」です。これは竹内さんが考えたというわけではなく一般に言われているみたいですが、「食べ物」「遊び」「動物」の三つが「三種の神器」なのだそうです。これらのうちの一つか二つ、できれば三つ取り上げると、子どもたちは興味を持って物語に引き込まれるという説です。たしかに、これは当たっているかもと思いました。

 この本は、久山社から刊行されている「日本児童文化史叢書」の第32巻。この叢書、他のもおもしろそうなタイトルが幾つかあります。たとえば、加藤理『<めんこ>の文化史』、上地ちづ子『紙芝居の歴史』、福田誠治『子育ての比較文化』、早川たかし『明日の遊び考』、畑中圭一『街角の子ども文化』など。そのうち、機会があったら他の本も読んでみようと思います。

▼竹内オサム『絵本の表現』久山社、2002年、定価(本体 1,553円+税)

五味太郎さんのウェブサイト

 昨日の記事、『ヘリコプターたち』の作者、五味太郎さんのウェブサイト gomitaro.com です。このウェブサイトは五味太郎さんご自身が運営されていて、あの特徴的な色合いとイラストがサイトを飾っています。サイトの中身も充実しています。

 まず五味太郎さんの全書籍リスト。これは、五十音別、出版社別、年代別に整理されており、使いやすいと思います。何百冊もののリストは圧巻の一言。でも、古いものほど絶版が多いようで、少し悲しくなります。

 それから、書籍以外にも CD-ROM やビデオやカードゲームも制作されていて、そのリストもありました。なんと、お皿(大皿と小皿セット)やシルクスクリーンによる額装画(限定品)もあって、これも購入できるようです。

 あと、「おまけ」として『らくがき絵本 五味太郎50%』(ブロンズ新社)という本の2ページ分が PDF ファイルでダウンロードできるようになっています。プリントアウトして遊べます。

 五味太郎さんからの近況コメント(ちょっとひとこと)も掲載されていました。パリでワークショップをされるとのこと、おもしろそうです。ただ、このコメントは最新のものだけで過去の分のバックナンバーは見つかりませんでした。以前のコメントも見てみたいなと思いました。

五味太郎『ヘリコプターたち』

 長くひとりぼっちだった緑のヘリコプターがピンクのヘリコプターと出会い、いっしょに旅を続け、そして新しい生命が生まれる、というストーリー。

 この絵本、なによりも色の使い方がとても印象的です。緑とピンクのヘリコプター以外、背景の白をのぞくとほとんど黒や茶色のくすんだ色しか使われていません。ヘリコプターたちが上空を飛んでいく森も海も村も、何もかもが暗くどんよりと描かれ、荒涼とした景色が続きます。森の植物(のように見えるもの)には生命の気配がまったく感じられませんし、人間も含めて動物は一つも登場しません。

 だからと言うべきか、緑とピンクのヘリコプターたちには、それが機械であるにもかかわらず、深く命を感じます。見開き2ページの広い紙面のなかでつねに小さく描かれているヘリコプター、人間のように多くの表情があるわけではないのですが、でも、よくみると微妙な表情や身振りを示しています。病気のときには羽がひしゃげているし、子どもたちの生まれる前のピンクのヘリコプターは少しだけおなかがふくらんでいます。

 そして、子どもたちが生まれる場面、この場面だけ、ずっと白か黒だった背景が朝焼けに黄色く染まります。新しい生命の誕生を祝福するかのような彩色です。

 もう一つ、この絵本では、文章の言葉の選び方と並べ方が特徴的。たとえば、こんな感じ。

ヘリコプターが飛んでいる――飛びつづけている――もう だいぶながいこと――ひとりぼっち

ようやく――めぐりあい――たわいなく――めぐりあわせ

輝く朝の光の中――生まれた――稚い――無数の

 一つの文として完結させるのではなく、言葉のかたまりを横線(――)をはさんでつなげるかたちになっています。しかも、改行はいっさいなく、見開き2ページの紙面のなかほどに横一線に言葉が並びます。これは、飛びつづけるヘリコプターたちの移動と一定の間隔で回り続ける羽根の音と、そして一途さを表しているかのようです。

 最後のページには、次のように書かれています。

おや――あのヘリコプターたち――あれから 何処へ行ったのだろう。

 ここに、はじめて句点(。)が打たれています。出会っていっしょに旅をして新しい生命をはぐくむ、その一連のいとなみを一続きのものとしてこの文が表現しているように思います。

 そしてまた、ここに句点が打たれていること、「あのヘリコプターたちはあれから何処へ行ったのだろう」と記されていること、最後のページには子どものヘリコプターが一台(?)だけ描かれていること、これらから受ける印象は、緑とピンクのヘリコプターたちがもういなくなってしまったんじゃないかということです。この理解、間違っているかもしれません。でも、一つの生命のいとなみがあり、それが次の生命へと引き継がれて終わる、そんな読後感を持ちました。

 奥付の説明によると、この絵本ははじめ1981年にリブロポートで出版されたそうです。その後、1997年になって現在の偕成社からあらためて刊行されたとのことでした。実はこの偕成社版は、もともとのリブロポート版を10%縮小しているそうです。リブロポート版の大きさで読むと、また印象が変わるかもしれませんね。

▼五味太郎『ヘリコプターたち』偕成社、1997年

キャロル・オーティス・ハースト/ジェイムズ・スティーブンソン『あたまにつまった石ころが』

 この絵本は、文を担当しているハーストさんのお父さんを描いたノンフィクションです。

切手にコイン、人形やジュースのびんのふた。
みなさんも集めたこと、ありませんか?
わたしの父は子どものころ、石を集めていました。
[中略]
まわりの人たちはいったそうです。
「あいつは、ポケットにもあたまのなかにも
石ころがつまっているのさ」
たしかにそうなのかもしれません。

 「大人になったら何になりたい?」と聞かれて「何か石と関係のあることだったらいいなあ」と言っていたハーストさんのお父さん、結局、ガソリン・スタンドをはじめます。当時はちょうどアメリカが自動車社会に突入した時代で、T型フォードが大人気。そこで、T型フォードの部品を集め修理をはじめると、これが大繁盛。

 ところが、1929年の大恐慌が起こり、ガソリン・スタンドも店をたたみます。いっしょうけんめい仕事を探し、どんな仕事でも引き受けたそうです。仕事が見つからないときは、科学博物館に出かけ、石の標本の部屋ですごします。この間もずっと、ハーストさんのお父さんは石を集め続けていました。

 そんなある日、科学博物館の館長グレース・ジョンソンさんに出会います。

「なにか、おさがしのものでも?」
「自分のもっているのより、いい石をさがしてるんです」
「どのくらい見つかりました?」
「10個です」
女の人は、部屋じゅうのガラスケースのなかにある、
何百個という石を見回していいました。
「たったの10個なの?」
「えーと、11個かもしれません」
父はそういって、にっこりしました。
女の人もわらいました。

 そうして、ハーストさんのお父さんは、科学博物館で夜の管理人の仕事につき、その後、ジョンソンさんの推薦で博物館の鉱物学部長になるまでが、この絵本で描かれています。

 この絵本でなによりも魅力的なのは、ハーストさんのお父さんの人柄です。「石ころじゃあ、金にならん」とか「あの石ころが何の役に立つの」とか言われても、「うん、そうかもしれない」とひょうひょうと受け流し、まったく意に介せず自分の大好きな石集めを続けます。ジョンソンさんに鉱物学部長に推挙されるときも、こんな具合です。

「わたしはね、こういったのよ。
ここに必要なのは、あたまのなかとポケットが
石でいっぱいの人だって。
あなたみたいにね」
「ああ、わたしならそうかもしれません」
父は、ポケットからひとつ、石をとりだしていいました。
「ところで、ほら、ちょっと見てください。
いい石を見つけたんですよ」

 ハーストさんのお父さんにとって、自分が鉱物学部長になることより、いい石を見つけたことの方が大事なのかもしれません。自分が本当に心底楽しいと思っていることを続け、そしてそれが他の人たちにも認められていく、そんな幸せな人生がここに描かれていると思います。

 絵はとても素朴で、ハーストさんのお父さんの人生をへんに思い入れもなく、たんたんと描写しています。それはまた、ハーストさんのお父さんの人柄そのものを映し出しているかのようです。

 また、ページのあちこちに、ハーストさんのお父さんが集めていたいろんな石のイラストが散りばめられています。名前が記されているものもあります。白雲母やガーネット、ほたる石、石英、方解石……。

 ほかにも、T型フォードの集めた部品やチェスの駒、石をみがく歯ブラシなど、日常の細々としたもの、でもハーストさんのお父さんの思いが表れているもののイラストも置かれていました。これもまた、小さくても自分が大切にしていることをずっと続けていくというこの絵本のモチーフと密接に結びついているように感じます。

 ハーストさんのあとがきによると、お父さんは、博物館の鉱物学部長になったあと働きながら大学に通い、その後、ジョンソンさんが退職したあとにスプリングフィールド科学博物館の館長に就任したのだそうです。

 そんなお父さんをハーストさんは次のように書いています。

父が情熱をかたむけたのは、石や鉱物だけではありませんでした。「学ぶ」ということそのものをこよなく愛し、尊重していたのです。

 まわりから何と言われても、一つのことに情熱をかたむけ学び続け、そしてそれが自分の仕事にもなる。こうした生き方は、大人にとっても一つの理想かもしれません。

▼キャロル・オーティス・ハースト 文/ジェイムズ・スティーブンソン 絵/千葉茂樹 訳『あたまにつまった石ころが』光村教育図書、2002年