「絵本」カテゴリーアーカイブ

長谷川義史『いっきょくいきまぁす』

 うーん、面白い! 長谷川義史さんならではのサービス満点のエンタティメント絵本。

 ストーリー(?)は、タイトルにも伺えるように「ぼく」「おとうさん」「おかあさん」がカラオケに行って歌を歌うというもの。というか、ストーリーはあってないようなもので、とにかく3人が次から次へと歌っていきます。

 基本的に曲を選んで、司会の「ミスターカラオケ」の導入があり、ページをめくると、見開き2ページいっぱいに歌の世界が広がっています。ユーモラスな描写、楽しいディテールがてんこ盛りで、実に楽しめます。よく見ると、ページの端々に可笑しいものが描き込まれているんですね。

 なかには長谷川さんのあの傑作、『どこどこどこ』が「サービス」で付いているページもあり、うちの子どもも大受けでした。表紙・裏表紙の見返しも、隅から隅まで仕掛けがあって面白い。

 また、3人が歌う曲は誰もが知っているような童謡や昔のヒット曲ばかり。子どもが知らないものもありますが、親の世代はもちろん知っている曲です。読み聞かせというよりは、歌い聞かせ(?)になって、妙に盛り上がります。なんだか熱が入っちゃうんですよね。いや、楽しいです。

 有名な「ぐりとぐら」シリーズをはじめとして、絵本のなかに歌の要素が含まれていることはよくあると思いますが、ここまで歌がメインになっている絵本は、あまり他にないかも。

 選曲も絵も、下世話と言えば下世話。上品とはとても言えないかもしれません。しかし、ここまで娯楽を徹底すると、(ちょっと大げさかもしれませんが)従来の絵本の世界を越え出ていくような、そういう勢いがあるように思えてきます。雑然としていて、でも大らかでユーモラス、そのパワーです。

 長谷川義史さんの芸風(?)って、けっこう貴重と思うのですが、どうでしょう。

▼長谷川義史『いっきょく いきまぁす』PHP研究所、2005年、[印刷・製本所:凸版印刷株式会社、制作協力:PHPエディターズ・グループ]

ラスカル/ルイ・ジョス『オレゴンの旅』

 非常に印象深い絵本。子どもだけでなく大人が読んでも深く感銘を受けると思います。でも、もしかすると読者を選ぶかもしれません。あるいは大人向けと言えるかも。

 物語はいわばロードムービー、サーカスのクマとピエロがピッツバーグからオレゴンへ旅をするというストーリーです。

 クマの名前は「オレゴン」。「ぼくを大きな森まで連れてっておくれ」と言う「オレゴン」の頼みに、ピエロは一緒にサーカスを出ることにします。長距離バス、ヒッチハイク、貨物列車、そして歩いて、1人と1匹は「大きな森」を目指します。まるで優れた映画を見ているかのような陰影に富んだ静謐な描写。慎み深い色彩、抑えた筆遣いが、たいへんに美しい。

 そして、ピエロという主人公の設定から浮かび上がってくる、社会から排除された者の悲哀。ヒッチハイクで乗せてもらった黒人ドライバーとの会話はそのことを如実に物語っています。

 途中まで私は、クマとの悲しい別れを予感していました。なぜなら、ピエロにとって、「オレゴン」との旅は幸せなものだったからです。「ぼくたち」はいつも一緒に歩き、食べ、眠ります。「世界中のすべては、ぼくたちのものでした」。そのことは、常に「ぼくたち」が並んだ画面に表れているように思います。

 けれども、「大きな森」にたどり着いたとき、いったいどうなるのか。クマの「オレゴン」が自分の居場所を見つけたとき、ピエロはどうするのだろうか。無二の存在との別れがやってくるのではないか。

 しかし、結末は違っていました。社会から排除されているがゆえに自分で自分に縛られていたピエロもまた、この旅を通じて自由な自分を取り戻したのだと思います。文字のない最後のページには、そのことが象徴的に描き出されています。ほんの少しの悲しみと孤独をたたえながら、それでも、未来への開放と希望を感じさせるラストです。

 なんとなく思うのですが、「ぼくたち」の旅は、身に付いてしまっていた色々なものをどんどん捨て去っていく旅だったのかもしれません。余分な荷物は持たず、片道切符だけ。お金はすぐになくなり、カバンの底に残っていた1ドル硬貨は、川で水切り遊びに使ってしまう。何も要らない、ただ「もっと美しい場所」へと向かうだけ。

 そして、「オレゴン」との約束を果たしたときはじめて、最後の最後まで残っていたものを捨て去り、今度はまさに自分自身の新しい旅に出発するわけです。「オレゴン」との旅は、自分を無くすことで自分を再生する旅と言ってもいいかもしれません。

 もう一つ、とても印象深いのが、扉の向かいのページ、献辞の下に記されたエピグラフ。「感覚」というアルチュール・ランボーの詩です。表紙にもなっている、本文の真ん中の見開きページに呼応しているように思います。

 「話もしないし、なんにも考えないのに、かぎりない愛が魂にあふれてくるんだ、……」。たしかに「オレゴン」は、「大きな森まで連れてっておくれ」という冒頭の一言以外、何もしゃべらないのです。それでも「ぼくたち」の間に「かぎりない愛」があふれていたことは間違いありません。だからこそ、ピエロは何もかも捨て去り、そして自分を取り戻せたのだと言えるかもしれません。

 原書“Le Voyage D’Oregon”の刊行は1993年。

▼ラスカル 文/ルイ・ジョイス 絵/山田兼士 訳『オレゴンの旅』セーラー出版、1995年、[印刷・製本:大日本印刷]

平山和子『くだもの』

 幼児絵本、あるいは赤ちゃん絵本の定番中の定番。うちの子どももお気に入りで、読むといつも、描かれている果物を指さして「すいか!」「りんご!」と言っています。

 この絵本の魅力は、まずは描かれている果物それ自体。非常に瑞々しく美しく、しっかりとした存在感を放っています。手にとって食べられそうなくらいの迫力。子どもたちが引きつけられるのも当然と思えます。

 そして、それら果物が誰の視点から描写されているかが、たぶん、この絵本の一番の特徴。よく指摘されることですが、子どもの目線に立って描かれているわけです。

 すいか、もも、ぶどう……と幾つもの果物が描写されるのですが、最後のバナナを除いてすべて、はじめに皮をむいたり切り分けたりする前の果物それ自体が描かれ、その次に食べられるようになった果物と「さあ どうぞ」の文章が置かれています。最初の果物それ自体の圧倒的な存在感は、これ自体、子どもの目から見た果物の姿を捉えたものと言える気がします。そして、それに続く「さあ どうぞ」の文が付けられた絵は、どれも、読んでいる私たちに向かって果物が差し出される絵柄になっています。まさに子どもの目線からみた果物です。

 ただし、子どもの視点は全体にわたって繰り返されるのですが、唯一、違うのがラストページ。ここでは、視点が反転し、子どもではなく、果物を差し出す側、おそらくは親の視点から、バナナの皮をむく子どもの姿が描かれています。

 なんとなく思ったのですが、こうした視点の置き方と最後の反転には、もしかするととても大きな意味合いがあるのかもしれません。

 まず、繰り返される「さあ どうぞ」の文と絵。ここで示されているのは、自分の意思で自由に食べることが出来ない者の存在と、食べることが出来るように世話してくれる者の存在です。読者は終始、前者の視点に立つことになります。

 こういうシチュエーションは、おそらく大人にとっては、自分が出来ないこと、ある種の不能感を繰り返し確認することを意味するかもしれません。たとえば病気等で入院していて、身体が動かない状態です。変な言い方かもしれませんが、次から次へと「ほれ、食べろ、食べろ」と急かされているような感もなきにしもあらずです。

 しかし、子どもにとっては、たぶん全く違う意味を持つでしょう。つまり、自分が守られていること、自分が相手に認められていること、相手に尊重されていることが、何度も示されているわけです。そのことの安心感、充足感もまた、この絵本が伝えているものの一つかなと思います。

 そして、ラストページの視点の反転。ここでは、二つのことが表されている気がします。

 一つは、この絵本を読む子どもの視点から見るなら、それまで「さあ どうぞ」と言われてきた者がまさに自分自身であることを確認するという意味です。果物を差し出されてきたのは誰なのか、ラストページではじめて自分と同じ子どもであることが示されます。だから、守られ大事にされているのが自分であることが確かめられるわけです。

 もう一つは、世話されるだけの存在であった自分がみずから何かを成し遂げうることがここに表されています。それまで「さあ どうぞ」と言われて与えられるだけだったのが、今度はバナナの皮を自分でむいて、自分で食べる……。それは、大げさかもしれませんが、守られるだけの存在から一歩外に出ることを含意しています。そして、そういう自分のいわば新しい姿をそれまでとは別の視点から確認するわけです。こうしてみると、視点の反転は、受動性から能動性への反転を伴っていると言えるかもしれません。

 いやまあ、なんだか難しくて、考えすぎかもしれませんが、なかなか奥が深い絵本であることは確かかなと思いました。

▼平山和子『くだもの』福音館書店、1979年(「福音館の幼児絵本」としての発行は1981年)、[印刷:三美印刷、製本:多田製本]

小風さち/山口マオ『わにわにのごちそう』

 しばらく前から我が家の定番に加わっているのが、この『わにわにのごちそう』。「わにわに」シリーズの1冊です。

 主人公の「わにわに」が台所に入ってきて、お肉を料理して食べるという、きわめてシンプルなストーリー。「こどものとも年少版」で刊行されたものなので、小さな子どもでも十分ついていける物語です。

 しかし、この絵本、大人の目から見てもとても魅力的です。何が良いって、まずは主人子「わにわに」の造形。ワニが料理するわけですから、当然、その行動は擬人化されています。

 とはいえ、「わにわに」それ自体は比較的リアルなんですね。かわいこぶっているところがあまりなく、黄色い目にしても、鋭い刃が並んだ口にしても、深い緑の皮膚にしても、野性味があります。骨太な筆致が効果的で、這いずり方一つとっても、ずっしりとした重さが伝わってくるような描写です。

 そして、このリアルなワニが這いずっているのが、どことなく懐かしさを覚えるような少し古めの日本家屋であることも面白い。木の柱に木目の床、木製のテーブルとイス、ステンレスの流し、「丸大豆しょうゆ」の瓶や竹かごに入った野菜が部屋の隅におかれ、アパートや長屋の中古物件の雰囲気をかもしだしています。壁のホックにかけられたエプロンや手袋、真っ白なスリードアの冷蔵庫にはマグネットでメモが止められ、洗いかごには食器が並び、なんともこぢんまりとした生活臭がただよってくる……。この舞台設定のなかでワニが這いずり料理して食べるという、いわば地に足の付いたナンセンス(?)が独得のおかしさを生んでいると思います。

 もう一つ、手書きふうに印字された文章もとても良いです。簡潔にしてメリハリがきいていて、声に出して読んでいると、とても楽しい。なんていったらいいのか、歌で例えたらサビがきちんと効いているんですね。ぐっと力の入るところがあるわけです。

 また、幾つか擬態語が効果的に使われていて、これも盛り上がります。まずは重力を感じる這いずり音。そして、とくに肉を食べているときの擬態語と描写は、なんとなく食べることの本来的な凄みを感じさせると言ったら言い過ぎでしょうか。凶暴でありながら快楽的な食です。

 食べるといえば、裏表紙もおかしいですね。いったい、どんなふうに食べてるんだろう。ここはとてもカワイイです。

▼小風さち 文/山口マオ 絵『わにわにのごちそう』「こどものとも年少版」2002年9月号(通巻306号)、福音館書店、2002年、[印刷:日本写真印刷、製本:宅間製本紙工]

ヴィルヘルム・ブッシュ『マクスとモーリツのいたずら』

 こ、これはすごい……。なにげなく図書館で手に取り借りてきたのですが、こんなにすごい絵本だったとは!

 主人公はマクスとモーリツの二人の男の子。二人がしでかした7つのいたずらとその顛末が描かれていきます。この「いたずら」がなかなか強烈で、たいへんな悪たれぶり。大人たちが眉をひそめるような行動が次から次へと続きます。こんな絵本、教育上よろしくないなんて、敬遠されるくらいかも。

 しかし、しかし、この絵本のすさまじいところは、実は二人の「いたずら」ではありません。あっ!と驚く、まさにまさに驚愕の結末が待っています。呆気にとられること間違いなし! いや、これほど凄みのあるブラックな絵本は、あまり他にないと思います。

 一応、「いたずらなんかしたらダメだよ」と、教育的なメッセージが込められていると言えなくもない……かな? というか、そんなありきたりの展開、常識の範囲はとっくに超えちゃってます。

 やっぱりねー、子どもの「いたずら」なんて、ある意味、かわいいもの。本当に恐いのは大人なんですね。あるいは、狭い社会の怖ろしさが描き出されていると言えるかも。

 物語は壮絶と言っていいのですが、絵はとても軽快でユーモラス。そのギャップがまた面白いです。また、訳文がリズミカルでとても読みやすい。

 あと、気になるのは主人公二人の家族。ぜんぜん似てないので、兄弟ではなさそうですが、しかし、親はどうしたんだろうか。孤児という設定なのかな。謎です。

 この絵本、うちの子どももさすがに驚いていました。「えーっ!」。いや、父ちゃんもびっくりだよ、ホント。うーむ、読んでよかったんだろうかと若干の危惧を覚えつつ、とはいえ、ぜんぜん屈託のない我が子がなんとなく頼もしく思えたのでした(なんだか分かりませんが^^;)。

 原書“Max und Moritz”の刊行は1865年。140年以上前の絵本なんですね。でも、それほど古さは感じません。むしろ、このブラックな趣きは現代的と言えるかも。

▼ヴィルヘルム・ブッシュ/上田真而子 訳『マクスとモーリツのいたずら』岩波書店、1986年、[印刷:精興社、製本:三水舎]

ディック・ブルーナ『うさこちゃん ひこうきにのる』

 ご存知、「うさこちゃん」シリーズの1冊。「うさこちゃん」が「おじさん」の飛行機に乗せてもらうという物語。

 ブルーナさんの絵本は非常にシンプルに見えるがゆえに、逆に、絵本としてのつくりの特徴がよく表れている気がします。この絵本を読んで、3つのことに気がつきました。どれもよく知られていることかもしれませんが、ちょっと記しておきます。

 一つ目は、登場するキャラクターはどれも横顔を決して見せないこと。後ろ姿はあっても、横から見た構図は出てこないです。これは割とよく知られた特徴ですね。

 この絵本では、「うさこちゃん」と「おじさん」が飛行機に乗って飛んでいる様子が描写されていますが、飛行機は横から描かれているのに対し「うさこちゃん」も「おじさん」も進行方向を向いていません。常に読者の方に顔を向けています(表紙からしてそう)。

 奇異な感がないこともないのですが、子どもにとってはこの方が安心できるかもしれないと思いました。画面が統一的で安定するとも言えます。

 二つ目は、ページのめくりの方向と画面上の飛行機の向きの関係です。基本的に飛行機は次のページの方に向かって飛んでいるように描かれています。つまり、飛行機の向きとページの向きが同じなわけです。読者は、ごく自然に「うさこちゃん」や「おじさん」と同化できると言えます。

 ところが、1ページだけ、飛行機の向きが逆になっているところがあります。つまり、以前のページの方を向いて描かれているわけです。それは、「おじさん」が「うさこちゃん」に「そろそろ かえろうか」と言うページ。なるほど、飛行機の向きが逆になるわけです。

 絵本において、ページをめくるという具体的な動作と絵のなかのベクトルとが緊密な関係を結んでいることがよく分かります。

 三つ目は、飛行機のプロペラの描き方。ブルーナさんの絵本では、ほとんどのものの輪郭が割と太い黒で縁取られていると思います。

 ところが、飛行機のプロペラだけは、黒い輪郭線がありません。これは、おそらくはプロペラが終始まわっていることを表しているのだと思います。輪郭線をどう描くかというとても簡素な表現によって、たしかに空を飛ぶ飛行機の振動が伝わってくるように思います。

 こうやって三つ挙げてみると、どれも飛行機の描写に関係していますね。動くもの、しかも相当に速く動くものを描くことは、ブルーナさんの絵本において、かなり特異なのかもしれません。それだけに特徴がよく出るのかなと思いました(間違っているかもしれませんが……)。

 原書“Nijntje Vliegt”の刊行は1970年。

▼ディック・ブルーナ/石井桃子 訳『うさこちゃん ひこうきにのる』福音館書店、1982年、[印刷:精興社、製本:精美堂]

スズキコージ『イモヅル式物語』

 うーん、おもしろい! この絵本は、福音館書店の月刊誌『おおきなポケット』に1995年4月から1996年3月まで連載された「イモヅル式物語」を単行本化したもの。4ページの短い物語が第1話から第12話まで、納められています。

 一話完結型になっているのですが、どれもスズキコージさんらしく非常にユニークです。ナンセンスでクスクス笑いたくなる感じなのですが、こんな発想どこから出てくるんだろうというくらい独創的(?)。一番強烈だったのは、「ヘビの古着屋」と「バリカンくんの仙人修業」かな。

 見返しには、「イモヅル式」について、スズキコージさんの簡単なコメントが記されていました。「次々と色々な楽しくてバカバカしい(?)事件を、……ダラダラとお見せする」のが「イモヅル式」とのこと。なるほど(?)。

 実際、この「イモヅル式」はいろいろなところに読み取れます。たとえば、エピソードとエピソードが、表裏2ページに描かれたイラストで繋がっているんですね。また、句点をあまり打たずに、長い文章が多い点も、「イモヅル式」を感じさせます。

 どんどん話が転がっていき、どこに連れて行かれるか分からない……即興というか、計算ずくではない勢いがあります。けばけばしい色調と激しいタッチも、実にパワフル。まさにスズキコージさんならではです。

 ところで、うちの子ども曰く「この絵本は図鑑みたいだねえ」。大きくて分厚いところがそうだとのこと。なるほどね。大きくてしっかりとした造本は、中の高圧エネルギーに似合っている気がしました。

▼スズキコージ『イモヅル式物語』ブッキング、2005年、[印刷・製本:株式会社シナノ]

五味太郎『きみは しっている』

 岩陰に隠した肉を取られてしまったコンドル君、いったい誰が盗んだんだろうと犯人を捜す物語。

 この絵本、かなり凝っています。一つは読者参加型であること。地の文の多くはコンドル君の語りなのですが、読者に話しかける調子になっており、それが面白い効果を生んでいます。読み聞かせをしていて、コンドル君になりきる感じで楽しいです。

 絵も、コンドル君が読者の方を真正面から向いているページがあったり、読者(子ども)の反応を前提にして作られているページがあったりして、ユニーク。絵本としては珍しい表現かもしれません。

 で、読者は、コンドル君の肉を見張っていたという設定になっています。だから、タイトルの通り「きみは しっている」というわけなのですが、ここがとても重要なポイントです。

 これ以上はネタバレになるので書けません。ぜひ、読んでみてください。あっ!と驚くこと請け合いです。うちの子どもも大受けでした。いや、面白い絵本です。

▼五味太郎『きみは しっている』岩崎書店、1979年、[印刷所:光陽印刷株式会社、製本所:小高製本工業株式会社]

谷川俊太郎/和田誠『とぶ』

 空を飛ぶ夢を見た「まこと」が本当に空を飛べるようになるという物語。まさにファンタジーなのですが、細やかで体感的な描写が印象的です。なにせ初めて空を飛ぶわけで、そのあたりの様子がきちんと言葉にされています。手足を使ってのバランス、空の上の静寂さや雲の冷たさなど、なにげない表現なのですが、飛ぶことの身体的な感覚がよく伝わってきます。

 絵は、和田誠さんの軽快な色彩がとても美しい。飛ぶとはいっても、ふわふわ浮いているような感じですね。飛行機のように空間を切り裂くのではなく、風にのって空と一体化するような感覚。たとえばマンガのように飛行のベクトルを強調するような表現はありませんし、また「まこと」の表情があまり変わらないことも、その自然さを表している気がします。

 そして、ラストページ。文章の付いていないこのラストページが、なにより強く心に響きました。なんだろうな。うまく言えませんが、未知なるものへの期待というか、そんなことを感じるのです。

 この絵本は、「こどものとも」50周年記念出版の1冊です。

▼谷川俊太郎 作/和田誠 画『とぶ』福音館書店、1978年(単行本化は2006年)、[印刷:精興社、製本:清美堂]

川端誠『さくらの里の風来坊』

 川端誠さんの「風来坊」シリーズの1冊。時代劇絵本ですが、派手な立ち回りもチャンバラもありません。侍たちの理不尽な仕打ちに何もできなかった「風来坊」が、一心不乱に木彫りの像を彫り上げるという物語。「風来坊」シリーズの他のものと違い、活劇としての要素はほとんどなく、読みようによってはかなり重いものが込められています。絵本としては異色と言ってよいかもしれません。

 とはいえ、立ち回りを演じるよりも、お寺のお堂でひたすら彫り続ける「風来坊」の姿は、見る者に強く迫ってくるように思います。考えてみれば、時代劇にとってチャンバラは一つの側面でしかなく、階級社会の矛盾やそこに生きる人びとの苦しみを描くこともまた、重要なテーマでしょう。その点からすると、この絵本は、時代劇絵本の一つの可能性を試したものと言えるかもしれません。

 ただ、武士と市井の人びとの隔絶などは、子どもにとっては、少々、難しいでしょうね。また、この絵本では、絵に描かれる時間の流れが直線ではありません。左ページに仏像を彫る「風来坊」の現在の姿、右ページにはフラッシュバックする過去の出来事が描写されています。このあたりも、絵本の表現としては珍しいでしょうし、小さい子どもには分かりにくいと言えます。

 それでも、川端さんの力強い筆致に引き込まれます。うちの子どもも、読み終わると、ふーっと息を吐いていました。タイトルにもなっている「さくらの里」の描写には、悲しい美しさがあります。

 ところで、川端さんの他の絵本でも感じたですが、川端さんの絵は、光の描写がなかなか鮮烈。骨太にぐいぐい描かれているように見えて、その一方では、明暗の対比や光の扱いがとても繊細であるように思いました。

▼川端誠『さくらの里の風来坊』BL出版、1997年、[印刷:丸山印刷株式会社、製本:大日本製本紙工株式会社]