「絵本に関する本・雑誌」カテゴリーアーカイブ

中川素子『絵本は小さな美術館』(その4)

 この本でおもしろいと思ったのが、ヴィジュアル・リテラシーという考え方。長いですが、引用します。

リテラシーという言葉がある。読み書き能力といった意味で、最近はメディア・リテラシーなどという場面でも使うが、私たちはヴィジュアル・リテラシーということに、もっと注意してよいように思う。絵本のどんな片隅の小さな絵にも、必ず作者の託した意味がある。子どものように隅から隅まで何度も見ることにより、浮かび上がるものがあるはずだ。(42-43ページ)

絵本作家たちが、絵本の部位のすべてを使って表現しようと努力していることをきちんと受け止めたい。(83ページ)

今まで表紙、本文部、裏表紙と各部位を見てきたが、絵本の部位はすべて表現の場であることがおわかりいただけたと思う。変なたとえだが、一匹の魚を買い、身を刺身にして、残ったあらや骨などもすべて料理しつくすように、絵本の部位のそれぞれの味を味わっていただきたい。(87ページ)

 絵本のばあい、このヴィジュアル・リテラシーはなかなか重要ですね。中川さんが書かれているとおり、絵本は、他の種類の本以上に、本というモノそれ自体が徹底的に活用されています。表紙、裏表紙、見返し、扉、背、といった物体としての本のいろんな部位にさまざまなメッセージが刻まれており、そのことが絵本の表現の厚みと幅を生んでいるように思います。もちろん、それは本文の絵のあり方にも関係します。浮かび上がってくるさまざまなメッセージに目と耳をすませると、ますます絵本がおもしろくなってくる気がします。

 そうしたヴィジュアル・リテラシーは、ついつい文を読んでしまう大人より、言葉にとらわれず絵を隅々まで見ている子どもの方がむしろ高いかもしれませんね。私も、読み聞かせのときうちの子どもからいろいろ教えられて、なるほどなあと感心することがあります。

 また、こういうヴィジュアル・リテラシーは、絵本だけではなく、当然、他のあらゆる視覚表現に対しても有効でしょう。別にそのことを目的にする必要はありませんが、絵本を通じてヴィジュアル・リテラシーをとぎすませることができるなら、それはそれで有意義と思います。

▼中川素子『絵本は小さな美術館』平凡社新書、2003年、定価(本体 880円+税)

中川素子『絵本は小さな美術館』(その3)

 子どもにどんな絵本を選んだらよいのかは誰しも悩む点ですが、これについて中川さんは次のように書かれています。

私は、「子どもにどんな絵本を見せたらよいのですか」という質問をされる時があり、そういう時たいてい逃げ腰になる。私自身、まったく行き当たりばったりで選んでいたからだ。
[中略]

 まず、どんな絵本でもいいから自分の目で見て、おもしろいなと思ったものを選んでいただきたい。子どもや孫のためでなく、自分のために絵本を選んでみる。あなたを支え、力になる絵本がきっとあることと思う。絵本の幸福な記憶は、子ども時代だけに形作られるわけではないのだ。

 最近の調査では、世界中で本を読む子どもの順位は、日本が調査した国の中での最下位ということだ。どうして日本の子どもたちはそんなに本離れしてしまったのだろう。でも、大人たちも絵本を愛するなら、絵本に親しむ子どもたちも自然に増えていくのではないだろうか。幸福な記憶を大人と子どもで共有できるということも、絵本が私たちにくれるすばらしい贈り物といえるだろう。

(19ページ)

 この中川さんの考え方にはかなり共感できました。

 もちろん、自分がよいと思う絵本を子どもに押しつけてはいけないと思います。でも、自分が楽しめなくては、子どもといっしょに絵本を読むことも難行苦行になってしまいます。世間で評価されている「よい絵本」を探して血眼になるなんてことも、ありえない話ではないでしょう。絵本の読み聞かせも、義務としてやっているなら、子どももそのことに気がつき息苦しくなるのではないでしょうか。子どものため、教育のため、といった考え方から一度おりてみる、そんなことが求められるのかもしれません。

 中川さんが書かれているように、まずは「自分のために絵本を選んでみる」。そのうえで、「絵本の幸福な記憶」を独りよがりなものにするのではなく子どもと共有できるようにすること、これが大事なんじゃないかと思います。

 そして、そのためには、たぶん、絵本についての思いこみや先入観をなるべく取り去ることが必要になるのかもしれません。「絵本なんてこんなもの」「こんな絵本がいい絵本」とは思い込まずに、いろんな絵本を読んでみる、絵本の多様性と広がりを自分なりに楽しんでみる。

 なんだか私もえらそうに書いていますが、中川さんの文章を読んで、自分が子どもと「幸福な記憶」を共有できているかなあと少し考えてしまいました。

▼中川素子『絵本は小さな美術館』平凡社新書、2003年、定価(本体 880円+税)

中川素子『絵本は小さな美術館』(その2)

 前の記事で紹介した『絵本は小さな美術館』ですが、読んでいていろいろ考えたことがあったのでメモしておきます。ちょっと長いですが、4つの記事に分けて書いていきます。

 筆者の中川さんによると、物語からではなく表現そのものから絵本を見ていくこと、いいかえると美術的な見方が、絵本についてのこれまでの議論には根本的に欠けているとのこと。「はじめに」ではその理由が4点、指摘されています。簡単にまとめてみます。

 第一に、絵本は絵として見られることはあっても、表紙や見返しや裏表紙、本文の流れをともなった一冊の絵本全体としては考えられていない。

 第二に、絵はあくまで物語の二義的なものとしてのみ捉えられている。つまり、物語をいかにうまく説明表現できているかという図解の意味で絵が論じられており、そのため、絵を描く素材や技法、また紙質などについて語られることはあまりない。

 第三に、絵本は、美術の領域の動向とは区別されて論じられている。そのためまた、海外の絵本についても、偏った紹介がされている。

 第四に、視覚表現は感覚的なものとのみ考えられており、非常に浅く狭く捉えられている、つまり、視覚表現のなかになんらかのロジックや思想が表れているとは見られていない。

 この最後の第四点ですが、少し引用します。

絵本の視覚表現性は何かときかれたなら、私は即座に「認識」という言葉をあげる。絵本に限らず、視覚イメージというものは認識であり、思考そのものといってよい。視覚表現には、絵本を描いた人が時空間や人間関係などをどのように認識し解釈しているかが表れている。それは絵本作家個人としての認識であるが、同時に時代の認識でもある。(17-18ページ)

 言葉になっているものだけがなんらかの思考を表しているわけではなく、絵のような視覚表現もまた、言葉に劣らず、むしろ言葉以上に、世界や社会や人間についての一定の認識そして思想を表しているということかなと思います。

 しかも、絵本では絵と文(言葉)がいっしょになっているわけですが、絵は文からは独立してそれ固有の認識・思想を伝えていると言えるのでしょう。だから、視覚表現を物語やテーマに安易に還元するのではなく、それ自体、独自のメッセージを発しているものとして読み解く必要があるのかもしれません。

 というか、そのように立体的に捉えると、絵本を読むのがより楽しくなると思います。

▼中川素子『絵本は小さな美術館』平凡社新書、2003年、定価(本体 880円+税)

中川素子『絵本は小さな美術館』(その1)

 この本は、「視覚表現性」に着目して絵本を読み解いていく本。「視覚表現性」というと少し難しいですが、要するに絵本のなかの目に見える要素すべてを指しているのではないかと思います。

 より具体的には、表紙や見返しや裏表紙の表現、本文における構成の仕方、色の使い方や形の工夫、文字の大きさや並べ方、絵を描く素材や技法、基材としての紙、といったものが扱われています。

 この本、少し難しいところもありますが、一つ一つの絵本に即して非常に具体的に語られています。カラーの口絵も8ページほどあって、「視覚表現性」の中身もよく理解できます。

 また、中川さんの文章は的確かつ細やかで、それも魅力的です。個々の絵本の「視覚表現」が発している声とメッセージをていねいに聞きとっている、そんな印象を受けました。

 私もそんなにえらそうなことを言えませんが、この本を読んでいて、こんな見方もあるんだなあと新鮮に感じたところがたくさんありました。読んでいくうちに、これまで見過ごしていた絵本の新たな世界がどんどん目の前に広がっていくように感じました。絵本の見方、接し方をあらためて考えるうえでとても有意義で、それは、子どもに絵本を読み聞かせするときも生きてくるように思います。

 サブタイトルとして「形と色を楽しむ絵本47」と付けられていますが、紹介されている絵本は全部で約120冊ほど。なかには海外の絵本もあって、ブックガイドとしても役立ちます。

 筆者の中川素子さんは、文教大学教授で造形美術論が専門のようです。絵本学会の呼びかけ人の一人で理事もつとめられています。本書以外にも、絵本について論じた著作が何冊かあるようなので、機会があったら読んでみたいと思います。

▼中川素子『絵本は小さな美術館』平凡社新書、2003年、定価(本体 880円+税)

長 新太『絵本画家の日記2』

 先日の記事に引き続いて、長 新太さんの『絵本画家の日記2』です。絵本ジャーナル『Pee Boo』10号から30号(1992年10月から1998年11月)に掲載されたものを加筆・再構成されたとのこと。

 この本は2003年刊行。『絵本画家の日記』が1994年刊行ですから、ほぼ10年ぶりに続編が公刊されたことになります。『絵本画家の日記』と比べて本の大きさがひとまわり小さくなり、なかの紙質も少し違うようです。カラーページはありません。前作と同じく、1ページに1日ずつ、長さんの手書きの文章とイラストが載っています。

 絵本をめぐる状況へのユーモアあふれる、しかし鋭い舌鋒はこの本でも変わりありません。たとえば

○月○日。ふつうの画家や、イラストレーター、漫画家など、つきあいはあるが、みんな絵本のことはよく知らない。おそらく、絵本を手にしたこともないだろう。彼らの頭にあるのは大昔の絵本だ。「そんな仕事、やめなさいよ」と言うイラストレーターもいる。さみしい1日。

○月○日。生真面目というのも困りものだ。良識派を自認しているから、正々堂々としている。児童書の選択なども、コンクリートで出来たようなものばかりえらぶ。たまに悪口も書きたくなるよ。「ナンセンスに感動がありますか?」なんて詰問する。あるのでゴジャリマスヨーダ。

○月○日。「質はともかく、売れるものをつくるのが、いい編集者ですよ」と、ある編集者が言う。「質はともかく、売れるものを描くのが、いい絵本作家ですよ」と、ある絵本作家が言う。「質なんかわかりません。売れてるものを買うのが、わたしたちです」と、ある母親が言う。

 消費者である私たち自身が問われているような気がします。

 と同時に、前作以上に、長さんの日常や身のまわりの出来事に対する独特のコメント、夢かうつつか分からない不思議な記述もいっぱいあって、とてもおもしろかったです。

 ただ、なんとなく老いや死を意識したところがあり、それもまたユーモアを含んでひょうひょうとしているのですが、少しさみしい気持ちになりました。

▼長 新太『絵本画家の日記2』BL出版、2003年、定価(本体 1,000円+税)

長 新太『絵本画家の日記』

 この本は、絵本画家9人(長さんもその一人)が編集に携わった絵本ジャーナル『Pee Boo』の連載をまとめたもの。日付はどれも「○月○日」と記されていますが、1ページに一日ずつ長新太さんの手書きの文章とイラストがつき絵日記のようになっています。カラーページも8ページくらいあります。

 中身は長新太さんの絵本と同じくユーモアにあふれているのですが、それ以上に、いまの絵本と絵本画家さんのおかれた状況をたいへん鋭く辛辣に語っています。

 まず、絵本編集者との戦い(?)の様子。たとえば、酒に酔った編集者にはこうからまれます。

「チョーさんは、編集者は絵がわからないバカなヤツ、と思ってるでしょ? ええ、ソーデスヨ、ヨーデスヨ。ゲージツなんて、どうでもいいやい! そんな絵本は売れないんだから。カワユーイ、アマーイ、なめたくなるような絵が一番いいのだ! そういったセンセイがたの絵本が売れて、もうかっているから、チョーさんみたいな人の絵本もわが社から出せるのよ。ありがたいと思いなさい。コラッ。こちらにいるセンセイは(注・女の人)売れる絵を描くセンセイですよ。チョーさん、最敬礼しなさい!」

 この文についているイラストでは、チョーさん(長 新太さん)が地面にゴツンと頭をぶつけて「最敬礼」している様子が描かれています。

 『Pee Boo』に、絵本の編集者や営業の人に意見を書いてもらおうとして苦労する様子も語られています。

 そして、絵本と絵本画家の社会的な地位の低さ。たとえば

○月○日。コマーシャルの仕事をしているイラストレーター曰く「はじめて絵本の仕事をしたけど、ギャラがメチャクチャ安いんでおどろいたよ。チョーさん、よくやってるねえー」1枚描けば、たちどころに絵本1冊ぶんのギャラが入るコマーシャルの世界。こちらは、子どものためにグワンバッテイルノダ!などと思うんだけど… なんかさみしい1日。

○月○日。つい最近、若いイラストレーターと、やり合ってしまった。若もの「ボクも、チョコチョコと、絵本をやってみたいんですけど、どっか、紹介してくださいよ」わたし「チョコチョコとはなんだ!」若もの「だって、子どもの本を見ると、チョコチョコもんばかりじゃないですか」わたし「チョコチョコ、チョコチョコと、チョコレートじゃないぞ、バカ!」――子どもの本の絵は、チョコレートみたいに甘く、そして苦いのであります。どこからか哀しい音楽がきこえてくる夕暮れ。

 その一方で、子どもの描いた絵に衝撃を受けたり、なにものにもとらわれず自由に描こうという一徹な姿勢も日記の記述からうかがえました。

 長 新太さんのように日本を代表する絵本画家の方ですら、絵本をとりまく無理解・無関心、孤独と苦悩のなかで格闘されていることが、ユーモアにくるまれながらも、ひしひしと伝わってきます。絵本に関心のある方には、ぜひぜひ一読をおすすめします。

 ただ、とても残念なことに、この本は現在、品切れ中。BL出版のウェブサイトで検索したらそう表示されました。私も図書館から借りて読みました。このあたりにも、絵本をとりまく状況のきびしさが現れているような気がします。昨年(2003年)には『絵本画家の日記2』も刊行されたことですし、この機会に、この『絵本画家の日記』も復刊してほしいところです。

▼長 新太『絵本画家の日記』BL出版、1994年、定価 1,121円
※残念ながらこの本は現在品切れのようです。

竹内オサム『絵本の表現』

 著者の竹内オサムさんは、奥付の著者紹介によると、マンガ史と児童文化が専門の大学の先生で、『手塚治虫論』や『戦後マンガ50年史』といった著作があります。

 「あとがき」を読むと、大学の幼児教育学科と児童学科の学生に、絵本の読み聞かせを指導したり、紙芝居の実演、さまざまな絵本の紹介などに取り組んでこられたそうです。そうした経験のなかで考えてこられたことが、この本にまとめられています。

 この本のテーマは、絵本の「表現技法」。つまり、どんなふうにして絵本が描かれているのか、その表現のテクニックを考えてみることです。ただし、絵本を描こうとする人へのハウツー本というわけではなく、日頃から絵本に接している人や絵本に関心を持っている人に、「絵本はこんなふうにも読める」という新しい見方を提供したいとのこと。

 具体的に取り上げられている技法は、たとえば、誰の目からどんな位置から描くのか、その視点を画面と場面でどう連続させていくか、表紙と裏表紙をどのように描くか、絵と絵、場面と場面をどうつなげていくか、絵と言葉のコンビネーションの仕方や語り手の置き方、時間の流れをどのように扱うか、などです。

 この本、少々難しくとっつきにくいところもありましたが、日頃あたりまえに接している絵本を違った角度から見直すことができ、なかなかよかったです。100ページくらいのうすい本ですが、多くの絵本を例に挙げて具体的に説明していて、なるほどなあと思ったところがけっこうありました。

 竹内さんも書かれていますが、私たちは通常、完成品としての絵本に接していて、その絵本がどのような行錯誤の結果できあがったのか、あまり意識しません。でも、表現技法に注目してあらためて絵本を見てみると、作家の方々の創意工夫が多少なりとも感じられるような気がします。

 また、竹内さんは、表現技法を分析することの意味について次のように書かれていました。

ただ楽しむのではなく、分析的に見る見方も身につけてほしい。それが絵本に限らずメディアそのものを対象化し、ときには批判的に見る目を養うことに、きっとつながっていくはずなのだ。
[中略]
ものごとには、ふたつの眼で接するのが一番だと、ぼくなどは思う。「理解しつつ愛する」という態度が大切なんだと。冷静に対象のあり方を理解しつつ、その一方で対象を深く愛すること。そのような二重の接し方が、対象と自分との関係をよりよいものにしていくはずだと信じる。(105ページ)

 これはとても納得がいきます。「技法」や「分析」というとなんだか冷たい印象がありますが、まったく逆で、表現の工夫やその「すごみ」が分かると、ますます絵本が魅力的でおもしろくなってくると思います。子どもに読み聞かせをしたり、子どもと絵本について話したりするときも、もっと楽しくなるんじゃないでしょうか。

 あと、細かなところで「へー」と思ったのは、「幼年童話の三種の神器」です。これは竹内さんが考えたというわけではなく一般に言われているみたいですが、「食べ物」「遊び」「動物」の三つが「三種の神器」なのだそうです。これらのうちの一つか二つ、できれば三つ取り上げると、子どもたちは興味を持って物語に引き込まれるという説です。たしかに、これは当たっているかもと思いました。

 この本は、久山社から刊行されている「日本児童文化史叢書」の第32巻。この叢書、他のもおもしろそうなタイトルが幾つかあります。たとえば、加藤理『<めんこ>の文化史』、上地ちづ子『紙芝居の歴史』、福田誠治『子育ての比較文化』、早川たかし『明日の遊び考』、畑中圭一『街角の子ども文化』など。そのうち、機会があったら他の本も読んでみようと思います。

▼竹内オサム『絵本の表現』久山社、2002年、定価(本体 1,553円+税)